最初から読む

 

出席番号4番 漆原うるしはら亞里亞ありあ(承前)


「はーい。授業はじめまーす。まずは体育館三周ー」
 体育教師である秋山あきやま則夫のりおのやる気のない号令が、底冷えする体育館に響く。
 寒さをこらえながら亞里亞たちは走り出す。
「秋山、マジでキモイわ」
「わかる。担任になったら自殺するレベル」
「リサらの担任ちょっと陰気臭いけど、口うるさくないしいいよな」
「おスズな。まあ新任教師やし、緊張してんちゃう」
 前を走るリサと羽凜が愚痴りあっている声が、嫌でも耳に入ってくる。
 女子高ゆえに、男性教諭はほとんどの場合――おじいちゃん先生ですら可愛いと――持てはやされる傾向にあったが、秋山を好いている生徒はいなかった。
 ご多分にもれず、亞里亞も秋山のことが嫌いだった。直接的に何をされたわけでもないが、好きになる要素はなかった。手の甲までをも覆いつくす体毛の濃さも、常に汗ばんでいるようなねっとりした肌も、生理的に受け付けなかった。
「じゃあ次は、準備体操ー。適当に二人一組になってくださーい」
 走り終えると、息を調える暇も与えられないままに次の号令がかかる。
 背後から、リサの舌打ちが聞こえてくる。やる気がない上に、そうやって生徒たちをぞんざいに扱う態度も嫌われている要因の一つだった。
「乃愛、組もう」
 亞里亞は、隣にいる乃愛に手を伸ばす。
「うん」
 その手を、迷いなく乃愛が掴む。
 周囲でも次々に二人一組ができていく。
 もはや誰が誰と組むのかなど、号令がかかる前から決まっている。
水島みずしま、また余ったのか。今日も先生と組むか」
 嫌われている要因の半分を占めているだろう秋山の無神経な物言いに、水島美心みしんが無言で頷く。
 秋山と身体を密着させなければならないなんて、地獄だ。
 同情しながらも、亞里亞は美心から目を背ける。
 二人一組になってください――その号令がかかると、いつも余ってしまう彼女のことは気の毒に思うが、仕方がない。このクラスは二十七人で奇数なのだから、必ず一人が余る。そして、三軍のなかでも最下層にいる亡霊のような彼女と、二人一組になろうという奇特な生徒はいない。
 亞里亞は、無意識に繋いでいる乃愛の手を、ぎゅっと握る。
「どうしたん」
「乃愛の手、あったかいなと思って」
「そう?」
「うん」
 頷き、亞里亞は視線だけで他の生徒を見渡す。
 きっといま、このクラスの誰もが、彼女がいることにより自分が余ることがない事実に、心のどこかで安堵しているはずだった。
「ねえ乃愛、ずっと親友でいようね」
 乃愛に微笑みかけながら、亞里亞は想像する。
 もしも乃愛がいなければ、自分は誰と二人一組になっているのだろう。もしも、誰も手を差し伸べてくれなかったとしたら。美心のように秋山と手を繋がなければならなくなったら。考えるだけで恐ろしくなる。
 大げさでなくあんなふうに孤立するくらいなら、いっそ死んだほうがマシだと亞里亞は思う。大人になってからはわからないが、少なくとも女子高生のいまは。




一 二人一組になってください


出席番号24番 水島みずしま美心みしん


 そのアンケートが美心のクラスに配られたのは、高校二年になり八カ月が過ぎた、二〇一七年の秋の終わり頃だった。
【いじめに関するアンケート】
 このアンケートは、皆さんが、より良い学校生活を送るために実施されます。
 ここに書かれた答えは、公開されることはありません。
 名前を書きたくない場合は、書かなくても構いません。
・この学校には、いじめがあると感じますか。
  [はい] [いいえ]
・あなたは今、いじめられていると感じていますか。
  [はい] [いいえ]
・「はい」と答えた人。そのいじめは、どのような内容のものですか。
  [                               ]
・あなたは今、誰かをいじめていると感じていますか。
 または、誰かをいじめたことがありますか。
  [はい] [いいえ]
・「はい」と答えた人。そのいじめは、どのような内容のものですか。
[                               ]
・あなたは、いじめについて、どのような考えを持っていますか。
[                               ]
・どうすれば、いじめがなくなると思いますか。
[                               ]
「二カ月ほど前……東京の女子高校で、SNSによるいじめによって、一人の生徒の命が失われた悲痛な事件を、皆さんも知っていますよね。先生もニュースを見るたびにとても心を痛めています。そして今、皆さんにお配りしたこのアンケートは、いじめをなくすことを目的に全国の高校で実施されているものです。記述通り、名前は書いても書かなくても構いませんが、必ず提出してください。掃除当番以外の生徒は、提出できた人から帰ってもいいですよ」
 昨年に引き続き、このクラスの担任となった鈴田すずた麻美あさみが、普段通り、感情の読み取れない声で話す。
 一年前、美心たちが入学した当初、彼女は新卒一年目で、生徒たちと変わらぬように若く見えることから、一軍や二軍の生徒からは「おスズ」などという綽名あだなで呼ばれて親しまれている。言わずもがな、三軍の最下層で息をしている美心には、そんな気やすい愛称で呼ぶことは難しく、鈴田先生と呼んでいた。
 先生は理科教員であり、理系女子を絵に描いたような飾り気のない外見や、表情の乏しさを指摘する生徒もいたが、美心は聡明さを感じていた。それは外見もそうだが、中身に対して、より一層感じていた。彼女はこれまでの、はき違えた正義感が強いだけの教師とも、愚かなほどに鈍感な教師とも違う、確かな励ましを与え続けてくれたからだ。
「ねえ水島さん、もしも悩みがあるのなら、いつでも相談に乗るから先生に教えてね。誰にも言ったりしないし、先生は水島さんの味方だから。それだけは覚えておいて」
 必ず、他の生徒がいないときを見計らって、静かに、むやみに詮索することなく、定期的にそう声を掛けてくれた。
 とはいえ相談する気力もなければ、意思もなく、何も話したことはなかったが、気にかけてもらえているのだと知るだけでも、果ての見えない孤独が一時的にでも薄れるのは確かだった。
・あなたは今、いじめられていると感じていますか。
 そして、柔らかな励ましとは正反対の、オブラートに包まれることのない直球的な質問が記されたプリントに視線を落としながら、美心の身体は強張こわばっていた。
  [はい] [いいえ]
 解答欄にはその二択しかない。
 美心は、はいといいえの間の空白を見つめながらみじめな記憶を辿る。
 この高校に入学してから、自分と話してくれたクラスメイトは数えるほどしかいない。それも雑談などではない、必要に駆られての会話だった。存在しないかのように、二年続けて文化祭の準備に誘われることもなければ、体育の時間、二人一組になれと指示があったときは必ず自分が余った。そのとき、哀れな視線ならまだしも、さげすんだ視線を向けられたことも数えきれない。その視線がフラッシュバックするたび、学校へ行くのが怖くなる。そういうとき、美心は心の裏側で、想像してみる。もし突然、クラスの誰もが自分と友だちになりたがったら、この絶望は消えるのだろうかと。そんなことは起こりえないのに。
 だいたい、一軍や二軍女子たちの会話で、たびたび話題に上がるクラスのライングループにさえ、美心は参加していない。誘われもしなかった。だからそこに、自分の悪口が書かれているのか、知ることはない。でもきっと、書かれてあるはずだった。
 美心は、喉の奥に溜まった唾を呑み込む。
 ――だけど私は今、いじめられているわけじゃないんだろう。
 そんなふうに思ってしまうのは、中学時代に、誰の目から見ても明らかないじめを体験したせいに他ならない。美心が受けたいじめは、精神的にも、肉体的にも、壮絶すぎるものだった。
 原因は体育の時間に、クラスでいじめを受けていた生徒と二人一組になり続けたことだ。
 その生徒から、標的が自分に変わった合図のように無視をされるようになると、ライングループには連日、『最近、ブスが調子乗ってるよな』『いつ学校やめんのかな?』『バカは幼稚園からやり直せって感じ』名指しはされないものの、悪意のこもったふきだしが投下された。
 通知が来る度、心臓が破れそうになったが、今思えばそんなのはまだ可愛いほうだった。耐えかねてグループを抜けたが、個人的な矢が飛んでくることはなかった。彼女たちは、集団でないと何もできなかった。
 美心が最も辛かったのは、お弁当箱に異物――虫や毛やゴミを入れられることだった。
「ねえ……お願いだから、これだけはやめて! お母さんに謝って……!」
 はじめてそうされたとき、美心は怒りのあまりに、教室の不特定多数に向かって声を荒らげた。だけど、逆効果だった。翌日から異物の量は倍になった。
 でも、お弁当を捨てることはできなかった。不器用な母が、一生懸命、自分の為に作ってくれているものだったから。美心は何度も吐きそうになりながらも、異物を退けて完食した。
「お母さん、ちゃんと美心のために頑張るからね」
 埃が付着した米を噛みしめながら、母の言葉が何度も脳裏をかすめた。
 母はだいたい週に四日ほど、夕方頃から早朝まで働きに出ていた。勤め先は、木屋町きやまちにある人妻系の風俗店。母は美しかったが、頭が悪く、朝も弱く、まともな仕事はほとんど続かなかった。祇園ぎおんのホストに入れ込んだり、悪い男にもてあそばれては、最終的に罵声を浴びせられて捨てられていた。
 きっと父との関係もそんなふうに最悪だったのだろう。美心は父の顔をよく覚えていない。物心がついた頃にはもう家にいなかった。幼い頃に殴られた記憶だけが鮮明に残っていた。
 あの頃、限界に達した美心の心にはいつも、死がちらついていた。毎朝、学校に到着するたびに吐き気がして、トイレに駆け込んだ。叶うのなら放課後まで、立て籠りたかった。
 しかし、二人の生活や、学費のために、好きでもない男に身体を売るなんていう、地獄としかいいようのない環境で母が頑張っているのに、自分だけが逃げだすという選択肢を選ぶことはできなかった。学校に行く時間帯は母が家で寝ているため、仮病で学校を休むことすら許されない状況で、美心は毎日、いじめられるために教室に向かった。
 ストレスからだろう。授業中、無意識に髪の毛を抜いてしまう癖がついた。そのせいで一部の頭皮からは髪がまともに生えてこなくなった。
 お弁当の中でうごめく異物がフラッシュバックして夜は何も食べられず、『これで何か食べてね』と机に置かれた千円は、幼い頃の宝物が入ったクッキー缶にしまった。
 体重はみるみる減り、鏡を見るたびに亡霊のようだと美心は思った。
 ――私は生きる亡霊だ、と。
 そうして中学二年生があと二日で終わりを告げる日だった。
『水島さんへ お葬式はいつですか? クラス一同出席できることを楽しみにしております』
 机に置かれていたノートの切れ端には、やけにきれいな字で、そんなメッセージが綴られていた。
 それを読んだ瞬間、魂が抜け落ちるような感覚におちいると同時に、美心は全てから解放されたような気持ちにもなった。自分はやはり、死ぬべき存在だったのだと、そう確信できたからなのかもしれない。
 いじめが始まってから、美心は自分が生きている価値が見いだせなくなっていた。それにずっと、自分が地獄に通うために母が地獄みたいな人生を送るのも、間違っていると感じていた。
 睡眠薬ならば、母が毎日飲んでいるから、家に大量のストックがある。
 美心はこの最低な人生に終止符を打つことを決めて、家に帰った。
 すると、いつも以上に荒れたダイニングテーブルの上には、大量のカップラーメン、郵便貯金の通帳とキャッシュカード、そしてマイメロディの封筒が置かれていた。

美心へ
誕生日おめでとう。
あんなに小さかった美心が十四さいなんて、夢を見ているみたいです。
そして今日は、プレゼントのかわりに、うれしい報告があります。
じつは好きな人ができました。その人も、お母さんのことを本気で好きになってくれました。だからしばらくその人と暮らします。
急にいなくなること、ゆるしてね。
でも心配しないで。ちゃんとしたら美心のことむかえに行くからね。そのためにお母さんがんばるから。
お金はその口座にちゃんとふりこむから、だから、ちゃんと食べてね。
はなれていても、お母さんは美心のことが大好きです。

 マイメロディの便箋には、ピンクのペンで、女子高生のような丸っこい字で、そう綴られていた。
 じっくりと二度読んだあと、便箋を元通りに畳み封筒にしまった。美心は笑っていた。どうして笑っているのか、自分でもわからなかった。全ての感情が入り交じって、壊れてしまった玩具みたいだった。電池が切れるまでひとしきり笑ったあとで、美心はスクールバッグからちゃんと空にしたお弁当箱をつまみ出すと、躊躇ちゆうちよなくゴミ箱に捨てた。
 もう明日から、吐きそうになりながらお弁当を食べる必要はない。持っていく必要も。お腹が空いたら、購買でパンを買えばいいのだから。
 死なずとも――地獄から解放されたのだ。私も、母も。

 

『二人一組になってください』は全4回で連日公開予定