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出席番号24番 水島みずしま美心みしん(承前)


 美心は昨晩母がこぼしたシャネルの香水が染み込んだ床に大の字に寝転がり、深く息をした。それは久しぶりの呼吸のような気がした。
 それから母がいなくなったボロアパートの一室で、美心は一人で暮らし始めた。
 生活は以前よりずっと快適だった。もう誰にも気を遣わなくてよかった。学校も出席日数さえ気にしていれば、適度にサボれるようになった。
 理由をつけるのは大変だったが、三者面談ができないこと以外に不自由はなかった。母が指定した住所――一度尋ねたが、いかにも怪しげなビルで、そこには住んではいないようだった――に必要な書類を送れば、ちゃんと記入して返送されたし、手紙に書かれてあった通り、お金もちゃんと振り込まれた。高二の今にいたるまで、一年に一度は、成長の感じられない書体で手紙も送られてきた。それは決まって、三月十七日――美心の誕生日に届いた。
 中学の卒業式には出席しなかった。
 母からの手紙に「卒業式には行けないけど、ごめんね」と書かれてあったから、誰も「卒業おめでとう」と言ってくれないのなら、意味がないと感じた。それに、常に自分の葬式会場のようだった教室に、一日もはやく別れを告げたかった。
 いじめから逃れるように、美心はほとんどの同級生が進んだ公立高校を受験することなく、この私立の八坂女子高校へと進学した。
 心のどこかに、新しい友だちができるかもしれないという期待はあった。でも、こんな亡霊のような外見では、どの学校に行こうとも、自分が最底辺に振り分けられると知っていたし、その予感が外れることはなかった。自分の声だけがない教室のざわめきの中で、美心は再び、いじめの標的にされないことだけを祈っていた。
 だから今、このクラスにおいて、自分が亡霊のような存在になっていることは、美心にとって最悪な状況ではなかった。
 ――けれど、このアンケートの[いいえ]に〇をつけることは、正解なのだろうか。
 他のクラスメイトは、何と書くのだろうか。
 美心は、右斜め前の席に座る金森かなもり留津るつを、視界を覆う前髪の隙間から見つめた。
 この教室におけるカースト的な立ち位置でいえば、彼女は二軍中層に位置しているが、こんな滑り止めになるような底辺高校に通っているのが不思議なほどの秀才だ。この春からは、自ら立候補して生徒会長も務めている。
 真面目な性格であり、人一倍、正義感が強いことも、美心は知っている。
 なぜなら留津とは、中学が同じだったからだ。一年生と二年生の時は、クラスも一緒だった。そしてあの日――留津がいじめをなくすために声を上げたことを、美心ははっきりと覚えている。でも、その正義でいじめは収まらなかった。火に油を注ぐように、悪意はさらに激しく燃え上がり、手の施しようもなくなった。
 だからそれ以降、留津がいじめに対して、二度と声を上げなくなったことは、仕方のないことだったと理解している。
 けれど美心の心には今でも、留津が自分を救い出してくれるのではないかという希望がある。
 体育の時間、二人一組になってくれるんじゃないかと。
 それが、自分と一軍女子が二人一組になるよりも、あり得ないことだと知りながらも。
 しばらくして美心は、書き終えたアンケートを提出し、教室を後にした。
 校庭の花壇に向かう。
 美心が唯一、生きていて楽しいと感じるのは、花を育てているときだった。園芸部は人気がなく、部員は美心だけだったが、一人で充分だったし、一人だからこそ気が休まった。
 新しく持ってきた球根を植える。行きつけの花屋のおじいさんにお薦めされて、購入したものだ。
「きれいに咲くんだよ」
 呼びかけながら、花はいいなと思う。初めからきれいに生まれてくることが決まっているのだから。
 美心は、生まれ変わったら花になりたいと思う。そうすればもう、こんなに哀しい人生を送らずに済む。三年前のあの日、完全にではないとしても――母に捨てられた事実が、棘のように美心の胸を刺し続けている。
 美心。この名前を付けてくれたのは母だった。美しい心を持った人になりますようにと願いを込めた名前なのだと、母は教えてくれた。
 だけど世の中には、美しい心を持った人間などいないということを、美心はもう知っている。
 深く息を吐いたそのとき、花壇の前にテニスボールが飛んで来た。ボールを取りに来たのは、テニス部の部長であり、同じクラスの一軍女子である星川更紗だった。更紗は美心と目を合わすこともなく、ボールを取って帰っていく。美心はその傍らで球根を植え続けた。
 別に無視されたのではない。彼女は部活中であり、そもそも友だちではないのだから喋る必要がないだけだ。
 更紗の気配が完全になくなってから、美心は手を止めて、自分が作り上げた素晴らしい花壇を見つめた。
 こんなにもきれいに咲いてくれたのに、花なんて誰も見ていない。
 歳を重ねれば感じ方も変わってくるのかもしれないが、美心はこれまで、まじまじと花を観察する生徒を見たことがない。さっきの更紗も例外ではなく、自分にはともかく、花にも一瞥もくれなかった。
 美しい人が、美しい心を持っているとは限らない。美しい心を持っていたとしても、それを誰もに公平に与えるかどうかなんて、そんなのは本人の自由だ。それが普通であり、責めることでもない。
 ――自分がもし更紗だったとしたら、私なんかとはきっと話さない。
 つまりはそういうことなのだ。
 美心はそれでも湧いてくる哀しい気持ちを、球根と共に土に埋めた。
 球根が開花したのは、その四カ月後の翌年――二〇一八年の二月だった。
 うつむき気味に咲く白い花。雪がしずくになったような形をしている。
 美心はこの花が好きだった。
 上を向かなくても美しく生きられる。そんな励ましをくれるようだったからだ。
「ねえ、その花、とっても可愛いね。何ていう花か教えてくれる?」
 美心ははっとして、花壇から、声が降ってきたほうに顔を上げる。
 興味深そうに花壇を見つめながら隣に立っていたのは、クラスで最も可愛い生徒だった。
「……スノードロップ」
 美心はしばし目を泳がせたあとで、心臓を高鳴らせながら、その花の名を答えた。
 そう。クラスで最も可愛い生徒は誰と問われれば、誰もが星川更紗だと答えただろう。
 ――朝倉あさくら花恋かれんが、転校してくる前ならば。
「ふうん。スノードロップか。たしかに、雪の雫みたいだね」
 花恋は花壇の前にしゃがみこみ、うんうんと頷きながら、咲いたばかりのスノードロップを眺めている。
 彼女は、あのアンケートが配られた昨年の秋の終わり頃に、東京からやって来た転校生だ。
「朝倉花恋です。よろしくお願いします」
 花恋が世界に現れたあのとき、美心の脳裏にはいつか読んだ小説のワンシーンが過ぎった。
 自分と同じカーストの最底辺で息をしている女子のクラスに、東京からとびきりの美少女が転校してくる。最底辺の女子は美少女の存在感に圧倒されながら、もしもこの教室で『バトル・ロワイアル』が始まったとしたら、この子は絶対に最後まで生き残るだろうという妄想にふける。まさに美心も同じようなことを思った。
 花恋の髪色は、その小説に登場する美少女のように緑のロングヘアではない。肩にかかるくらいの長さで、見るからに猫っ毛の少し赤っぽい普通の茶髪だ。しかし、どんなに地味な髪型だったとしても、朝倉花恋は、この世に選ばれし者に違いなかった。
 花恋を見て、一軍女子たちはどんな感情を抱いたのだろう。自分よりも遥かに美しい人間に、本当の意味で出会ったとき、憧れるのだろうか。それとも嫉妬するのだろうか。
 美心には到底、その答えはわからなかった。
 そして、なぜこんなふうに、三軍の底辺にいる自分に話しかけてくれるのかも。
「水島さんは、花が好きなの」
 花恋が問う。まるで花恋は猫のようだと思う。きっと何を訊かれても、何をされても、嫌じゃない。そしてこの可愛さは、ずっと見つめていても永遠に飽きることがないだろう。
 まともに顔を見られず、スノードロップのように俯きながら、美心はこくりと頷いた。
「どうして、花が好きなの」
 花恋が首を傾げる。揺れる髪の毛の先から、ふわりと花のかおりがした。
 カースト上で振り分けるのなら、花恋は確実に一軍だった。
 けれど彼女は一軍女子のグループには属していない。
 それどころか、一軍とは程遠い……言ってしまえば限りなく三軍に近い二軍の生徒が集う生徒会に入り――花恋と入れ違いに転校した生徒が生徒会に入っていたから、その代わりにと先生に頼まれたのかもしれないが――そのメンバーと、昼ごはんなども共にしていた。
 この学校においては真面目な生徒ばかりが集う生徒会には、生徒会長である金森留津の他に、一卵性の双子の姉妹――姉の佐伯さえき日千夏にちかと、妹の佐伯野土夏のどかが所属している。
 祇園という、花街といえば聞こえがいいが、歓楽街や馬券売り場のある治安の悪い場所のせいか、生徒数の少ないこの学校では、一学年につき一クラスしかないために、二年生の生徒会メンバーは花恋を含めてその四人しかいない。
「何も……感じないで済むから」
 ややあって、美心は答えた。
 きっとクラスの誰にも、こんな素直な気持ちを吐露することはできないだろう。それは、どれほどカースト上の差があっても、同じ人間だという認識があるからなのかもしれない。
 けれど花恋は、どれほど近くにいても、テレビの向こう側の人間のような、違う世界線で生きているような、そんな気がしてならなかった。
 それに美心にとって花恋という存在は、ほとんど神様だった。
 なぜなら花恋は、体育の時間、生徒会のメンバーを差し置いて、自分と二人一組になってくれたのだから。
 もちろん、毎回というわけではない。花恋が美心と組む際は、通常なら、花恋と組んでいる留津が、自分の代わりに教師の秋山と組むことになるからだ。けれど半月に一度でも、自分と二人一組になってくれることが、美心にとっては、かけがえのない喜びだった。
「わかる」
 依然として、スノードロップをしげしげと見つめながら花恋は言った。
 いつだって、話しかけられるだけで、飛び上がりそうなほどに、花恋のことを敬愛している自分がいる。だが美心は、心の中で思ってしまう。きっと花恋にはわからない。この苦しみは、生まれ変わらない限り、わかるわけがない。
 だって花恋は、選ばれし者なのだから。
「……あなたの死を望みます」
 美心は、俯きながら咲く花を見つめながら呟いた。
「え?」
 花恋がひどく驚いた表情でこちらを見た。
 無理もない。突然『死ね』と言ったのと一緒なのだから。美心は慌てて説明を加えた。
「あ……この花の、花言葉です」
「なんだ、花言葉か。びっくりした」
 花恋が生き返ったように笑う。
「ごめんなさい」
 謝りながら、美心の心はざわめいていた。なぜ自らの神様に向かって、こんな物騒な花言葉を口にしようと思ったのだろう。今も胸にこびりついている、過去に受け取った残酷なメッセージが、突然剥がれ落ちてきたような感覚だった。
「水島さんは、なんでこの花を植えようと思ったの。誰か死んでほしい人がいるの?」
 美心は息を呑んだ。
 そんな直截的な質問は、これまでされたことがなかったし、そんな質問が、その名の通り、こんなにも可憐な花恋の口から放たれるとは、想像もしていなかった。
 ……死んでほしい人。
 美心の頭には、自分をいじめてきた生徒たちの顔と――一人の生徒の顔が浮かんだ。
「ただ、この花が好きだから……です」
 でも美心は、花びらをそっと撫でて、それだけを答えた。
「そっか。私もこの花、好きになったよ」
 花恋がふんわりと笑う。
 自分だけに向けられたその笑みを見ると、美心の胸の中には隅々にまで花が咲き乱れた。

 

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