僕が初めてスイマーズショルダーの診断を受けたのは、高二の五月のことだ。
競泳、特にクロールは肩を酷使する。腱の損傷や炎症により、そのまま選手生命が絶たれてしまう者も珍しくない。
もちろん診断が出た時点で安静にしていれば、快方に向かうケースがほとんどだ。僕の場合、競泳の引退と経過観察のおかげで、日常生活で気にならない程度には快復していた。
しかし三カ月前、親に強制的に行かされた整形外科で、僕の肩腱板は相当痛んでいると診断された。スイマーズショルダーの再発と、ドクターストップを宣告された。それを無視して競泳練習を続けるうち、僕の右肩はまともに腕を上げていられないほどになってしまった。正直に言うと、今も焼きごてを当てられているかのような激痛を感じる。
水泳をやっている時だけは、水の冷たさと気分の高揚のおかげで痛みを忘れられるけど、それもそろそろ限界だ。
恐らく、今日が僕の泳ぎ収めになる。競泳はもちろん、シンクロも含めて。僕にそう説明された未菜萌は、しばし呆然としていた。
心苦しくはあったけど、絶対に言えなかった。言えば今の穂波のように止められると分かり切っていたから。
「それじゃあ、志吹先生が競泳を引退した本当の理由って……」
未菜萌から零れた疑問に、僕が首肯すると、穂波はいっそういきり立った。
「それならそうと言ってよ! 何も知らずにあんたに当たり散らしてた私がバカみたいじゃん!」
そして穂波は、僕を逃がさないよう両肩に手を置いて強弁する。
「とにかく、そういうことならもう泳いじゃダメだよ! 水泳なんかやってる場合じゃないって! ねぇ、未菜萌からも言ってよ! あんたもそう思うでしょ 」
藁にも縋るような勢いで、穂波は未菜萌に水を向けた。
蒼白な顔で口ごもる未菜萌に、僕は視線で問いかける。
──未菜萌も、そう思うのか?
僕と目が合った瞬間、未菜萌はハッと我に返ったように見えた。未菜萌の震える唇が、やがて一つの台詞を形作る。
「志吹先生、が、海潮さんと、戦いたいなら……そうするべきだと、思います」
そのひと言を口にするのに、どれほどの勇気が要っただろう。
未菜萌の答えを聞いた穂波は、驚愕に目を瞠っている。
「未菜萌、あんた……!」
「ありがとう、未菜萌」
未菜萌の理解に、そして勇気に、僕は心からの感謝を示した。凍えたように震える未菜萌の肩に手を置き、僕は断りを入れた。
「でも、気に病まないでほしい。未菜萌がなんと答えようと、僕は今日、海潮と戦うつもりだったよ。そのためにずっと死ぬ気でリハビリに取り組んできたんだから」
破れかぶれになった穂波は、目に涙をたっぷり溜めて声を荒らげた。
「意味分かんないよ! あんた、そんなボロボロの体になってまで自己満足の意地を張るつもりなの!?」
「自己満足の意地か。言われてみればそうだよね」
穂波の激昂を受け、僕は高い天井を仰いだ。
数多の夢追い人に“やらない理由”を与えてきたその台詞を、静かに噛み締める。
「競泳でトップクラスの選手になったって、仮に世界記録を更新したって、世の中の何かが変わるわけじゃない。冷静に考えてみれば、なんでこんなものに必死になってるのか、自分でもよく分からないくらいだよ。だけど……それでよかったんだ。分からないから、それを知りたいから、挑むんだ」
そして、僕は穂波に向き直り、落ち着き払った声で訊き返した。
「穂波。お前がプロのシンクロ選手になれなかったら、これまでシンクロに費やしてきた時間と努力は、全部無駄だったってことになるのか?」
「それとこれとは話が……!」
「同じだよ。少なくとも僕にとっては、同じなんだ」
首を横に振り、僕は断言した。
頂点に立った者の気持ちは、頂点に立った者にしか分からない。
ライバルと本気で戦った者の気持ちは、本気で戦った者にしか分からない。あの日の海潮の気持ちを知りたいと、僕はそう望んでしまった。
ならばもう、僕が進むべき道は一つしかないんだ。
「どんな結果になっても後悔しない。だから何も言わずに見届けてほしい。これが今の僕にとっての“できること”……ううん、“やらなきゃいけないこと”だから」
そう言い残し、選手通用口に向かう僕の心に、迷いはなかったけれど。
背後のすすり泣きが二人分になったことだけは、どうしても気が咎めてしまった。
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