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 宮部はクラブやライブハウスにいる女性バーテンダーによく好意を抱く。こういう場所で働く女の多くは、派手に遊ぶ金はない代わりに、レコードショップやライブハウス、映画館に通うのが好きで、宮部のようなクリエイターを崇拝してくれる。ブランドものや高級レストランに金を使うよりも、コンテンツやカルチャーに身銭を投じるような人間の方が、自分を拒むことは少ない。経験上、そのことを知っている。きっとカウンター越しにいる店員も、宮部の作った映画やミュージックビデオを何本かは見ている。何度かこちらの顔を見ていたから、目の前の男が宮部あきらだと気付いているだろう。
 さて、どのように声を掛けようか。バーテンダーを自宅に連れ込むための戦略を考えていたところで、隣に並んでいた別の女が、突然声を掛けてきた。
「宮部あきらさんですよね?」
 向こうから声を掛けてくるタイプの女は、大体は握手かサイン目的のミーハーだ。動員数が飛び抜けて多かった大衆作品しか知らないくせに「大ファンです」と抜かしてくる。宮部は上辺だけを撫でられたような気がして、そういう女と話すのが苦手だった。
 適当に受け流して、バーテンダーの女に声を掛けよう。目の前でサインを書いている姿でも見せれば、俺が宮部あきらであることに彼女も確信が持てるはずだ。あとは彼女の勤務時間が終わるまで待って、家に連れ込めばいい。
 頭の中でストーリーを組み立てながら、宮部は隣の女に生返事をする。どうせ三分後にはいなくなる女だからと、最低限の愛想笑いを浮かべた。
 しかし、女から飛び出した台詞せりふは、宮部の予想を大きく裏切った。
「宮部さんの書いたコラム、好きです! 映画批評の連載の、ヒッピー文化の考察のやつとか、最高でした!」
 宮部は半分趣味で、怒られることはあっても褒められることはないコラム連載を続けていた。とくに映画批評のコラムは、業界関係者から毎回非難が寄せられるほど、言いたい放題書かせてもらっていた。
 宮部はあつに取られたまま、答えた。
「あのコラムを褒められたのは、初めてだ」
「え、本当ですか!? それって、アタシがズレてるってことですか?」
「いやいやいや、そうじゃない」
 普段なら、こういう頭の悪そうな喋り方をする女に、興味を示さない。広い額を見せつけるように中央で分けられた前髪も、やや吊り気味な目も、決してタイプと言えるものではなかった。でも、あのコラムを好きという人間には、何か自分と近い要素があるのではと、宮部は期待した。とみながなえと名乗ったその女に、宮部は応えた。
「君がズレてるのだとしたら、あれを書いた俺もズレてるってことになるから、つまり、俺たち二人だけ、世界からズレてるんだと思う」
 女は宮部から視線を外して、こらえきれない様子で笑った。宮部は不可解に思ったが、不快には思わなかった。女は言った。
「宮部さんて、きちんと宮部あきらっぽいことを言うんですね」
 女の笑顔の質が変わったことを、宮部は見抜いた。心を開いた人間が見せる笑顔というものを、宮部は知っていた。
「よかったら、映画の話とかしようよ。奢るから」

 雨が降ったのだろうか。うし三つ時を過ぎた中央街通りは、僅かに気温が下がっていた。道路を照らすオレンジの街灯が、濡れたアスファルトに色を付けている。中央分離帯の傍に、ボロボロのスニーカーが片方だけ落ちていた。
「早苗さんは、どこに住んでるんだっけ?」
 ナイトクラブから出てきたばかりの早苗に、宮部は尋ねた。この質問は、さっきもした気もする。脳が重たく、あまり覚えていない。
「友達と三人で、港南線沿いに住んでます。中央街一丁目まで出ちゃえば、一本です」
「あー、そうなんだ」
「宮部さんちは、この近くですか?」
「うん。タクシーで、すぐそこ」
 外に出て初めて気付いたが、早苗の胸は、Tシャツ越しでもハッキリとわかるほど、ふくらみが大きかった。太っていると思っていたが、胸が大きいせいでそう見えていたのかもしれなかった。彼女は暑がりなようで、歩き始めてすぐに、首筋に汗を光らせた。首筋から鎖骨に流れる汗が、ようえんに思えた。
「俺、そこの交差点でタクシー乗っちゃうんだけど、よかったら、うちに来ない?」
 中央街交差点を指差しながら、宮部は早苗を誘った。早苗はかなり酔っているようで、その言葉がちゃんと聞こえたのかもあやしかった。
 にっこりと笑ってから、早苗は言った。
「宮部さんって、恋人いますか?」
 ストレートに恋人の有無を聞かれたのは、久しぶりだった。しかし、特定の恋人も配偶者もいない宮部は、素直に答えるほかない。
「しばらく、いないかな」
「じゃあ、今日みたいに、女の子を取っ替え引っ替えしてるってことだ」
「言い方が良くない」
 が、間違いでもない。
「アタシも、恋人とか別にいなくていいなあって思ってます。子供が嫌いだから結婚もしたくないし、恋愛とかも、面倒くさいし」
「わかる」
「アタシたち、やっぱりズレてるのかもしれないですね」
 恋人がいらないと思っているなら、尚更抵抗はなかった。宮部は改めて、早苗を誘った。
「うち、来なよ」
 車が二台ほど、通り過ぎた。次に来たタクシーに向けて、宮部は手を挙げた。

 せみの声が窓越しに響いて、そのけたたましさにたまらず目を覚ました。
 ベッドの右の棚に置いてあった時計が、見当たらない。ブラインドで分割された陽の光を追う。西日だ。かなり深く寝てしまったようだった。
 体中が渇いていて、喉がやけに痛い。何か飲もうと体を起こして、宮部は早苗がいないことに気付いた。
 慌ててベッドから降りる。鋭い頭痛がした。そこまで飲んでいただろうか。つけっぱなしのエアコンのせいかもしれない。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、そのまま口を付けて飲んだ。
 昨夜の記憶を思い起こす。タクシーに乗った早苗と、そのままマンションに向かった。玄関に入ってすぐに服を脱がそうとしたけれど、やんわりと断られたことを覚えている。
 キスだけはした。たった一度だけだ。でも、そのキスで、俺たちはきっとさまざまなことで相性が良いのだと、なぜか宮部はそう直感した。そんなことは初めてだった。
 早苗も、そのことに気付いたみたいだった。二人はその瞬間、確実に戸惑って、少し怖がっていた。これまで、少なくはない数の異性と関係を持ってきたはずなのに、たった一度唇を重ねただけで、全身に電気が走るような感覚を覚えたのだ。
 それから宮部は、意識的に彼女の体に触れるのをやめた。部屋にあったバカルディを空けて、映画の話を少しして、以前コラムで取り上げたモノクロ映画をソファに腰掛けて観た。久々に観始めると途中でやめる空気にもならず、エンドロールを眺めながら、二人はその作品の考察を交わした。宮部はその時間が、ほかの女と体を重ねるよりも、何倍も魅力的に感じられた。そんな経験は、しばらくしていなかった。思えばナイトクラブから、ずっと話は尽きることがなかった。そのまま跳ねるように会話が続いて、気付けばまどろんで、眠ってしまったのだろうか。
 おそらく肝心なところで、記憶が途切れている。部屋着に着替えたタイミングも覚えていない。
 部屋を見回すと、ダイニングテーブルの上に、映画の台本が置いてあった。六年前に脚本を担当した、宮部の出世作といわれた長編映画のものだ。その裏表紙に、サインペンで何かが書かれている。宮部は古い台本を手に取ると、文字を追った。
『やっぱり私たちは、ズレてるんだと思います』
 その一文のあとに、連絡先と「富永早苗」というフルネームが添えてあった。
 ナイトクラブで出逢うような女とは、一夜限りの関係で十分だ。いつもはそう思うのに、なぜかこの時、宮部はすぐにまた早苗に会いたいと思った。
 現実は、頭痛だけがひたすら脳を襲っていた。

 事務所に着くと、いつも通りマネージャーが声を掛けてくる。少し疲れた顔をしているように見えたが、それはこちらも同じだ。宮部は早苗との記憶を探るのに集中したかった。二日酔いの不機嫌を隠さず、そのままマネージャーにぶつけた。
「今日、調子悪いから。急ぎじゃないなら、全部明日に回して」
 マネージャーは顔色一つ変えずに、すぐにそれを受け入れる。
「では、一つだけ。ブルーガールのデモ音源がきたので、それだけ転送しておきます」
 宮部の返事を待たずに、マネージャーは社長室を後にした。宮部はその後ろ姿を見送ってから、だらりと席に着く。
 シャワーは浴びたはずだ。それなのに、体に早苗の匂いがこびりついている気がする。綺麗な匂いでは決してなかった。もっと生々しい、汗まじりの皮膚そのもののような匂い。でもそれが、決して不快にはならなかった。むしろその匂いで、宮部の下半身はわずかに反応していた。体が覚えている。ということは、やはり、抱いたのだろうか。宮部は携帯電話を取り出して、映画の台本の隅に書かれていた、早苗の連絡先を入力した。
「恥ずかしいくらいに、昨日のことを覚えていないんだけど、大丈夫だった?」
 この文面が正解かどうかを考えるのも、面倒だった。送信ボタンを押して、テーブルの上に投げ置く。リクライニングに身を任せると、そのまま深く眠れそうな気がした。
 PCを開くと、マネージャーからブルーガールのデモ音源が送られてきている。頭が働かないのなら、耳くらいは働かせようと、宮部はPCにイヤホンを繋いだ。
 再生ボタンを押すと、イントロから平凡な四つ打ちが聴こえてきた。構成もサビのメロディラインも、邦楽にありがちだ。前に聴いた曲はまだ尖っていた気もするが、この曲は、売れようとするあまり、バンドの持っているオリジナリティが完全に死んでいる。
 アーティストは、市場が求めるものと自身が作りたいものとのギャップに苦しみ、悩む生き物だ。その二つが合致する期間は、トップアーティストでもあまり長くはない。大体はバランスを崩して、売れなくても好きなものを作るか、徹底的に市場にびたものを作ることになる。
 宮部は後者に傾倒する人間が嫌いだった。市場が求めるものを狙って作る、なんて芸当は簡単にできやしない。魂を売ったところで誰の心にも響かない駄作が出来上がるだけである。ブルーガールという若いバンドから、早くもその匂いがした。宮部は楽曲を最後まで聴かずに、イヤホンを放り投げた。
 勢いをつけて立ち上がると、そのまま社員のいるフロアに向かう。マネージャーの姿を確認しないまま、宮部は声を荒らげた。
「ブルーガール、この曲だったらやらねえって先方に伝えて!」
 フロアが一瞬静かになる。慌てる素振りもなくこちらに向かってきたマネージャーに、苛々いらいらした。
「お前これ聴いた? 酷いと思わなかった?」「いえ、悪くはなかったかと」「いや、悪いよ。めちゃくちゃ劣悪じゃん。耳どうかしてるって。こんな曲のMV作ってもダセぇもんしかできねえよ。俺に恥かかせるなって言ってるじゃん。なあ。得意先との適当な伝言ゲームさせるために雇ってんじゃねえんだよ。頭使えよ、少しは。顔ばっかり良くてもキャバ嬢とかにしかならねえだろ? それとも枕営業でもしてくれんの? なあ」
 言いたいことが自分でもよくわからない。けれど、止まらない。マネージャーは頭を少し下げてから言った。
「すみません。では一度、ブルーガールと打ち合わせの場でも、設けさせていただけませんか。本人たちも、理由を聞かないと納得できないかと」
「いいだろハッキリ言っとけば。ミーハーなファンを踊らせるための売れ線音楽作りてえんだったら、俺みたいな本気でクリエイティブやりたい人間の視界に入ってくるなって伝えろよ。ガキだから何もわかってねえんだろ、きっと」
 こんなに苛々するために生きているわけではない。優れた制作物を作りたいだけなのだ。宮部はかくするようにため息をついてから、社員フロアを出た。エアコンが壊れているのか、社員フロアはやけに蒸し暑く感じた。
 携帯電話を覗くと、通知が一件来ていた。
「楽しかったから、また話聞いたり、ご飯行ったりしたいって思ってたところです」
 今度こそ、全部覚えていたい。宮部は強くそう思った。

 

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