1. 夜 行


 朝が来れば、全て、元通りだ。

 いわさきりんは四肢を折り曲げ、体を丸めて硬くした。
 その直後、太腿に衝撃が走る。
 痛い、というより、熱い。
 鉛のように重くなった男の右足が、
 何度も何度も凜を蹴り上げた。
 あざは、どのくらい残るだろうか。
 皮膚の内側がただれるような、鈍い衝撃が続いた。
 嵐のように続く暴力を、凜はひたすらに受け入れる。
 大丈夫。
 朝が来る頃には、いつもの彼に戻る。朝が来れば。


 夜が来れば、全部、大丈夫だ。

 まつえいは寒空の下、過ぎゆく電車を眺めていた。
 母が連れてくる見知らぬ男は、終電前には帰っていく。
 おそらくは、男の家族が待つ家へ。
 母は男が家にいる間、見知らぬ女になる。
 英治の見たことのない顔をして、聞いたこともない声を出す。
 大丈夫。
 日付が変わる頃には、いつもの母に戻る。夜が来れば。

 朝と夜の交わる時間が短いように、
 二人が過ごす時間もまた、いつも短かった。
 初めて会った日、英治は、駅のホームに設置された待合スペースに座っていた。
 後から凜が、その斜め向かいに腰掛けた。
 それから、いくつ電車が通り過ぎても、二人は動こうとしなかった。

「誰か、待っているんですか」
 英治は話し掛け、凜はそれに答えた。
「あ、いや、帰らなきゃいけないんですけど」
「けど」
「今日は、帰りたくなくて」

 凜は内臓に傷がついていると、医者に言われたばかりだった。
 今日も、昨日と同じように殴られたら。
 そう思うと、帰りたくてもその場から動けないのだった。

 英治は、凜に尋ねるより先に、自分の話をした。
「母さんが、夜になると、戻るんです」
「戻る?」
「昼間は、別の女の人。夜だけ、母さんになるんです」
「夜だけ?」
「そう。でも、頭の中はきっと、僕のことなんて一ミリも考えていないです」
 急行電車が、また一本通り過ぎた。
 その間だけ、二人の会話は止んだ。
「母さんはいつも、男のことだけ、考えています。一人で泣いたりしています。
 僕には、どう励ましていいかも、わかんないです」

 二人はその日から、帰りたくない夕方、駅のホームで待ち合わせをするようになった。
 平日いつも、同じ時間。
 待合スペースは、決まって同じ温度で、閉塞感だけが漂っていた。

「このまま、どこか遠くに行きたいなあ」
「あ。そうしようよ、二人でどこかに、逃げちゃえばいい」
「そんなこと、できたらなあ」
「やろうよ。僕、お金だけは、もらってるから」
「ううん、もしも逃げ出したら、私、殺されちゃうかもしれない」
「殺すなんて、そんな」
「できるんだよ。知らないんだよ、君は。人を殺せる人って、いるんだよ」
「だったら尚更、逃げなきゃじゃん。二人だけの秘密にして、出かけようよ。
 このまま、帰らなきゃいい。捕まらないところまで」
「そんなの無理。きっと、いつかは捕まっちゃうし、そしたら私、多分もう」


 あの時、彼女の細い腕を、
 強引にでもつかむことができていたら。

 英治は何年経っても、あの短いやりとりを思い出す。
 彼女との、もう戻れないやりとりを。

 これからまた、夜が来る。

 

『夜行秘密』は全4回で連日公開予定