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2. 左 恋


 またハズレだ、と、みやあきらは肩を落とした。宮部の事務所は、中央街の交差点からほど近くのところにある。大きな交差点は待ち合わせ場所にもよく使われるし、都心を走るタクシー運転手なら大半が知っている場所だった。宮部は道に詳しくない可能性もある運転手に配慮して、わざわざその交差点を行き先に指定した。我ながら親切すぎると思ったくらいだ。でも運転手は、宮部の配慮など気にも留めなかった。「どの道から行きますか」と聞き返すと、面倒臭そうにドアを閉めた。
「プロなんだから、黙って最短ルートを走ればいいだろうが」
 宮部は思ったことをそのまま口にした。軽く舌打ちをして、大袈裟にため息をつく。運転手はすみませんと言って、すぐにウインカーを右側に出した。
 最近、ハズレの運転手ばかり、引き当てる。
 車が慌しく走り出すと、前の席に備え付けられた液晶画面に、見覚えのある動画広告が流れた。宮部はそれが数カ月前につくった自社の制作物だと気付くのに、少し時間がかかった。
 この案件はたしか、広告代理店の担当営業がかなり美人で、ただ、性格がキツかったから、とにかく仕事がやりづらかった。女の顔には「案件を受注した自分が一番偉い」と常に書かれていて、クリエイティブを露骨に下に見ていた。ああいうタイプの女は大抵仕事ができないうえに、手柄は自分のものにしようとする。実際、あの営業が関わったせいで進行は遅れるばかりだったし、制作物もろくなものにならなかった。そのくせプライドは塔のように高く、打ち上げのあとでホテルに誘っても、ハッキリ断ってきた。
 宮部は女の顔を思い出して、無意識に顔をしかめた。
 公開された広告を見返していても、やはり魅力に欠けている。クライアントの機嫌ばかりうかがった結果、中途半端なクオリティの作品になった。自社が作ったものでなかったら、こうして目に留まることもないだろう。熱意は早々に失われ、ただの作業と化した案件の成果物が目の前に流れている。罰ゲームでも味わっている気分だった。
 宮部は、嫌なことはすぐに忘れるようにしている。最近は記憶力も低下しているようで、よく一緒に仕事をしている取引先の名前すら、あっさりと忘れる。名刺交換をしても、先方のオフィスを出る頃にはその顔が思い出せなくなる。自分の関わった仕事の大半が、世に出る頃には他人のものに見える。思い入れがないわけではない。ただ、作り終わった瞬間に興味が失せるのだ。
 それはセックスに似ているな、と宮部は思う。射精した直後から、さっきまで散々みしだきおぼれるように舐め回した胸が、大きければ大きいほど不格好に見える。服を着ていない女の体は、冷静に見るほどだらしなく、間抜けに感じてしまう。
 射精した直後にも愛おしいと思えるような女を、しばらく抱いていない。世に出た後にも思い入れがある仕事には、それ以上に出逢えていない。そのことをうれう心の余裕すら、どこかに落としてきてしまった。
 常にやってくる仕事を、ひたすらこなす。邪魔なものは排除し、終われば次に向かう。その繰り返しだけが自分を高めて、人生を充実させてくれると、宮部は信じている。しかし、その生活にも少し、疲れつつあった。来月で四十になる。ここまで体力任せで走り切ってきたが、そろそろ効率的な働き方も考えなければならなかった。
 環状線は予想通りの混雑具合で、タクシーはなかなか進まない。とはいえ、別に急ぎの案件があるわけでもないので宮部が焦る必要もなかった。
 昨日の酒が、まだ残っていた。運転手の話を無視して、宮部は十五分眠った。
 事務所の入ったビルの前に着くと、エントランスにマネージャーの姿が見えた。中央街の交差点から三分歩いただけで汗が噴き出てくるこの季節に、薄黄色のカーディガンを羽織っている。
 コンビニ袋を手にぶら下げているのが、目についた。遅めの昼食だろうか? 市場調査が目的なら構わないが、理由もなくコンビニで飯を済ませるのは許し難いと、宮部は思った。
 何かを作る仕事をしている以上、いかなるときも探究心を失ってはならない。中央街には無限にレストランが存在していて、どんな店でヒントを得られるかわからないのだ。片っ端から足を運ぶべきであり、それができないほど金銭的にも時間的にも余裕がないのなら、仕事を回すのが下手な証拠だと、社員には再三注意していた。時間や金銭に縛られて生きる人間を、宮部は心底あわれんでいた。
「新規案件のお返事が、四つ溜まってます。競合チェックはどれもクリアしていたので、受けるかどうか、ご確認いただきたいです」
 挨拶もなしに話し出すことを、宮部は気に留めない。要件だけを話せと社員にいつも言っているので、むしろ正解に思う。マネージャーとはもう四年の付き合いになるが、これまで大きなミスもなくこなしてくれているので、心地良い。その心地良さに惹かれて一度抱こうとしたこともあるが、自宅の玄関まで来ておいて断られたので、それっきり夜の誘いはしていない。昼間の関係だけで成り立っている。それはそれで、宮部にとって稀有けうな存在だった。
「面白いやつありそう?」
 エレベーターに乗りながらマネージャーに尋ねる。あのタクシーアドのようなお堅い案件なら断ろうと思った。あまり金にならなくとも、今はもう少し退屈しない、派手な企画を考えたかった。
「派手な案件なら、一つだけ。アーティストのMV制作の依頼が来ています」
「お。有名どころ?」
「まだデビュー前なのですが、ブルーガールって、ご存じですか?」
「おー、バンドの? SNSでカバーされまくってるやつじゃん」
「そうです、そうです。そこから、新曲のMV制作の依頼です」
「俺に?」
 いい度胸だな、と、宮部は感心した。宮部は受注金額の大きさよりも、新たなことに挑戦するような仕事に燃える。とくに快感を覚えるのは、逆転劇を演出できたときだ。弱者が強者に勝つ物語を、世界は求めている。まだ若い、メジャーにも出ていない新人が、仮にも世界規模で仕事をすることもある宮部にミュージックビデオの制作を依頼してきたことは、生意気だが良い一手だと宮部にも思えた。
 宮部は会社の代表でありながら、初回のオリエンは必ず自分で行くと決めている。それはクリエイターとしてのプライドと、社員には任せられない不安からくるものだ。自分より優秀な人間が社内にいないことは、会社としては将来リスクになるとわかっている。それでも採用はこの数年間、思うように進んでいなかった。
 得意先からプロジェクトの目的や予算を聞いている間、宮部はその仕事に、宇宙の隅まで触れられそうな無限の可能性を感じる。しかし、案件を会社に持ち帰り、あれこれと議論をぶつけているうちに、尖っていたはずの企画は徐々に丸くなり、現実的なところまでしぼんでいってしまう。世に出た作品がどれだけ優れた企画だと言われても、あの宇宙の端を見るような、無限の可能性を感じられる瞬間には敵わない。制作物が完成した時にはすでに、宮部はその仕事に愛着をなくしている。
 今回こそは、と思いながら、事前に配られた資料に目を通す。ブルーガールはまだ若いバンドだ。どのような作品が良いだろうか。デスクで資料を眺めながら、脳を回転させる。大きな窓から西日が強く差していて、この時間にやっとデスクについたことを、太陽がうらやんでいるようにも見えた。これが俺の生活サイクルなのだから、文句を言わないでほしい。宮部はカーテンを閉めて、改めて資料を眺めた。

 社員のいるフロアの電気が消えて、初めて二十二時を過ぎたことに気付いた。この時間まで仕事に没頭していたことに、宮部は驚く。最近は、集中力が途切れがちだ。何をしていても別のことに気を取られるし、プレゼン中にすら他のことを考えていたりする。その原因が疲れにあるのか、この仕事への飽きにあるのかは、自分でもわからない。
 しかし、今日は久々に脳をうまく使えた気がする。よほどうまく緊張できていたのか、自覚した途端、腹がブググと音をたてた。朝から何も食べていないことに気付く。宮部は帰り支度を早々に済ませ、事務所を出た。
 夏の夜の中央街は、トラックの排気口の前に立ったような、不快な風が絶え間なく吹いている。アスファルトは日中に溜め込んだ熱を延々と吐き出し続けていて、歩道は香水とおうぶつが混ざったような匂いが立ち込めている。
 宮部は中央街の交差点まで出ると、携帯電話を開いた。社交辞令を含めたものもあるが、今夜もいくつかの飲みの誘いが来ている。その中のひとつに、ナイトクラブのURLがあった。数年前に宮部が脚本を務めた映画の主演俳優と、そのプロデューサーが飲んでいるらしい。プロデューサーはともかく、あの俳優とはまた仕事をしたかった。久しぶりの再会に、心がかすかに躍った。
 ナイトクラブは、交差点から徒歩で五、六分のところにある。宮部は数歩進むたびに匂いすら変わっていく中央街を緩やかに歩いた。途中、スーツ姿の男を何人も見かけて、仕事の効率が良くなるわけでもないのに夏場にジャケットまで着込む頭の悪さに辟易へきえきした。
 宮部は秋口まで、ショートパンツとビーチサンダルで過ごす。リラックスした状態でいないと、アイデアは出てこないのだ。だが、果たしてこの格好でナイトクラブに入れるだろうか? 前は知人が顔を利かせてくれたが、あのクラブは、ドレスコードが厳しかった気がする。今度、ビーチサンダルと革靴が並んだ画をどこかで撮りたいと、宮部は思った。
 クラブのエントランス前に着いて、プロデューサーにメッセージを送る。すぐに折り返しで電話が掛かってきた。このプロデューサーは電話が好きだったな、と、宮部は思い出した。「大事な話なので」と急に電話を掛けてくる人間を、宮部は信用できない。大事な話こそ記録に残すようにメールやメッセンジャーを使うべきだし、口頭で片付けたくなる話には大抵、後ろめたさや利己的な狙いが隠されていると考えている。
「あーもしもし。着きましたか? じゃあすぐ迎え行くんで」
 大音量で音楽がかかっているせいで、大半は聞き取れなかったが、おそらく、男はそう言った。こうして騒がしい場所で電話を掛けてくるような配慮のなさが、やはり気に食わない。
「あー、お疲れ様です! お久しぶりです!」
 怒りを処理できぬままエントランスの傍に立っていると、すぐにプロデューサーが警備員の脇をくぐって現れた。
「あーどうも。あの、電話やめろって前に言いませんでしたっけ」
「あ、そうか、いや、すみません! 急ぎかなと思いまして!」
 年上のくせにヘコヘコとする態度も、軽薄に映ってしまう。宮部がこのプロデューサーのもとで脚本を書いた映画は、主演俳優がこちらの希望通りの人選となった。それはこのプロデューサーの手腕があってこそだったから、一目置いてはいる。とはいえ、プライベートまで積極的に関わりたい人間ではないと、宮部は改めて思った。
「いやー来てくれるとは思わなかったすよ! 六年ぶりですよ、三人で飲むの」
 六年。当時はまだ三十代前半で、二日、三日の徹夜なら勢いでなんとか乗り切れていた。最近はそこまでの体力もなければ、熱量を持つことも難しく感じる。ヒットを記録したあの映画を作れたのも、年齢に助けられた要素がおそらくは大きい。
 加齢を感じる一方、そういえばこのプロデューサーは全然老けないなと、宮部ははだつやの良いその顔を、じっくり観察した。
「アイツも喜んでましたよ。三人とも、あれからだいぶ出世しましたから。まあ、圧倒的なのは宮部さんでしたけど」
 自身初となる長編映画の脚本で、宮部はいきなり複数の脚本賞を受賞した。ただの無名映像作家だった人間が、一夜にしてスターになる。時代の追い風を受け、宮部を取り巻く環境は激変した。勤めていた映画製作会社を退職し、家賃相場が最も高いといわれる中央街に個人事務所を構える。前職で優秀だった部下三名をヘッドハントしたほか、複数の社員を雇い、映像制作、脚本、コピーライティングなどの広告制作を手がける会社として、巨額の利益を生み出した。海外アーティストのミュージックビデオを担当したことからグローバル案件も増え、三十代のうちに、業界の第一線を走る人間としてメディアにも度々取り上げられるようになった。
 主演を務めた俳優も、宮部との作品以降、仕事が途切れることがなくなった。ドラマや映画で主演クラスの配役を務めることは茶飯事となり、番宣がなくともバラエティやワイドショーに対応できる仕事の幅広さにも注目が集まった。有名女性誌の「抱かれたい男ランキング」で二年連続の一位を取ったときは、流石の宮部も嫉妬した。
 二人に比べて大した変化がなかったのが、宮部の隣にいるプロデューサーである。そもそも映画プロデューサーという仕事は監督や脚本家に比べて、さらに黒子的な側面が大きい。メディアから注目されるほどの存在となるには、相当な数のヒット作を生み出さなければならない。このプロデューサーも、宮部と組んだあの作品が出世作と言われたきり、それにしがみつくように生きているようだった。モノづくりをするあらゆる人間は、代表作を持つことを目標としがちだ。実はそれよりも、代表作を更新することの方が遥かに困難であることを、宮部はよく知っている。
 人には平等に運が降りてくると、宮部は信じている。ただ、その運を逃さず、しっかりと掴みきることができるのは、一握りの人間だけだ。宮部やあの俳優は、そのセンスがあった。このプロデューサーはチャンスをモノにしきれなかったのだ。宮部は目の前の男を哀れんだ。
「あ、ドリンク、あっちです。フードもちょっとはあるみたいですよ。俺たち、一つ上のソファ席いるんで、上がってきてください。オンナ口説くのはその後にしてくださいよ! なんつって!」
 下品な笑顔で去っていくプロデューサーに、きようめしている。あの俳優とは久々に近況報告などを交わしたかったが、間にあの男がいることで、いちいち話がつまらなくなりそうだった。フロアを見渡すと、平日なだけあって、暇で金がなさそうな人間が溢れている。DJまで哀愁が漂って見えるのは、かかっている音楽がドゥービー・ブラザーズだからか。先ほどまでこうようしていた気分が一気にがれていることに気付き、宮部は適当に女でも連れて、自宅で酒でも飲もうと考え始めた。

 

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