弥太郎は、北海道は北見国枝幸郡に位置する上幌別かみほろべつ原野に、父母と三人で石川県から移住した。明治三十一年、去年の春のことである。弥太郎は十六だった。
 移住地はがき農場といって、秋田県書記官などを務めた檜垣直右なおすけ氏によって、その前年に開設されたばかりの、北海道拓殖計画の一助となる農場地であった。
 たるから枝幸までは北まわりの航路である。枝幸の町から幌別川を川舟に乗って、倒木を切りひらきながらじようすること三日。それから更に原生林を掻き分けて、はるばる徒歩でたどり着いた農場は、全くの原野だった。
 北海道は涼しいと聞いていたのに、夏になるとうだるように暑くなるので、弥太郎はひどく驚いた。やぶや毒虫にも悩まされた。そのくせ冬は、沢庵たくあんが凍るほど冷え込むのだから、あまりの辛さに泣くのを通り越して怒りがわいてきた。
 とんだ新天地である。弥太郎は、北海道に渡ったことを心底悔やんだ。
 しかも入植直後の昨秋、農場は洪水禍に見舞われた。やっと育った作物も、家も流された。何もかも始めからやり直しである。
 そこに降ってわいたように、砂金景気ゴールド・ラツシユがやってきたのである。
 砂金掘りたちは檜垣農場にも現れた。移住民たちの小屋から、しばしば食料が盗まれ、畑は踏み荒らされた。弥太郎たちが苦労して拓いた農場は、彼らにとっては都合のいい、広くてなだらかな通路でしかなかった。
 移住民の中にも浮足立つ者が出た。弥太郎もそうだった。
 枝幸沖には、砂金地を目指す人々と物資を積んだ千石船せんごくぶねが、ひっきりなしに着くという。枝幸の町は、毎夜げんと女たちのきよう​声せいが絶えず、大賑わいであるらしい。
 これこそ新天地のだい醐味ごみだ、これに乗らなければ、北海道に渡った意味がない。
 弥太郎の胸は躍った。
 農場管理者は、砂金など採ってはならぬと触れた。開墾こそが農場の使命だと再三諭されたが、移住民たちの中にも逃げ出す者が出てきた。砂金掘りはもとより、荷担ぎですら、小作の何倍もの実入りがあるのだ。運を賭けるには千載一遇のときだった。
 弥太郎は、家でときどき砂金の話をもちだしては様子をうかがった。だが父親の孝蔵こうぞうは、くされたように首を横に振るだけだった。
 もともと無口な父親である。何を考えているのか、わからない。
 母親のつねは、いつでも孝蔵の言いなりである。文句も言わず、ただ黙々と開墾を続ける両親を、弥太郎はいらたしく思った。
 おとうだって、本当は行きたいに違いない。
 つねが話したところによると、孝蔵は若いじぶん、一時家を飛び出し、ばく打ちをしていたという。それもかなりの腕で、親分と呼ばれたこともあったらしいのだ。弥太郎が生まれるずっと前のことだ。そのことを思うと、弥太郎はかすかなおそれと共にまぶしいような気持ちを、孝蔵に対して抱くのだった。
 そしてつねは、「おとうが好き勝手をやめて、やっと家に帰ってきたとき、祖父じいちゃんは、なんも言わんと、おとうを家に入れてくれたんや。それからは、き物が落ちたみたいに真面目になったさけ、ほんでやっと、ほっとした。おとうにはさんざ苦労をかけられたさけね」と決まって昔話を結ぶのだった。
 だから砂金景気の噂が出たとき、きっと孝蔵は他人ひとに先立って山に行くだろうと思った。押し殺してはいても、そういう気概があるはずなのだ。孝蔵が勝負を賭けに行くなら、もちろん弥太郎もついていこうと考えていた。
 だが孝蔵は動かなかった。
 ヤキが回ったんだ。年を取って、おとうは意気地いくじがなくなった。腰抜けになったんだ。
 山へ山へと吹く風に、孝蔵だけが無関心なのが、弥太郎は歯がゆくてならなかった。
 夏が盛りになるにつれ、檜垣農場を横切る砂金掘りの数が、目に見えて増え始めた。
 はじめは少しずつ、しまいにはせきを切ったように、何百何千という砂金掘りたちが、金田を目指し、うんのごとく農場を埋め尽くした。
 関東豆を食い散らかし、背中には蝸牛かたつむりのような大きな荷を背負った人波が、まるで洪水のように後から後から押し寄せた。そして、山から下りてくる男たちの背には、砂金が一杯に詰まった焼酎の四合瓶が重そうに揺れていた。
 もたもたしていると、乗り遅れるぞ。
 弥太郎は焦りを感じた。
 金もうけして、何が悪い。みんな、やっているではないか。
 ある夜、とうとう弥太郎は家を出た。
 真夜中なのに、外は驚くほど明るかった。月夜だった。
 月明かりは弥太郎の行く手を真っ直ぐに照らしていた。砂金掘りたちが食い散らかした関東豆の殻の道が、山へと続いていく、それが弥太郎の道しるべだった。
 山は書き割りのように夜空に黒くはりついていた。
 振り返ると、農場が静寂しじまに暗く沈んでいた。
 弥太郎は父母の眠る掘立小屋に背を向けた。そして、まるで怖いものにでも追われているかのように、前だけを見て一心に駆けた。

 

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