深夜に、あの教授が逮捕。ヤバくないっすか──。2人の警察官が、大学の客員教授であろうスーツ姿の男性と立ち話をしている画像と共に、SNSに書き込まれていた。警察小説×社会派小説のド肝作。

 

 久和秀昭を受け出すため、留置場に行こうと廊下に出た、その瞬間だった。
 取調べの立会人に指定した横澤巡査部長が、自身の携帯電話を向けてくる。
「……佐久間係長、これ、知ってましたか」
 表示されているのは、佐久間も普段よく見るSNSのページだ。
【深夜に、あの教授が逮捕。ヤバくないっすか】
 写真も出ている。パンダと並んで停まっている、銀色っぽいトヨタ・プリウス。二人の制服警察官が、久和秀昭であろうスーツ姿の男性と立ち話をしている場面だ。夜の路上だからか、画像は光量不足でかなり粗くなっている。
 しかし、この写真で【あの教授】などと、これが久和秀昭であるか否かなど、分かるものだろうか。
「久和ってもしかして、ちょっと有名人なの?」
 横澤は首を傾げる。
「俺も、どういう系統の教授なんだろうと思って、今ちょっとネット情報をさらって見てたら、いきなりこれが出てきたんで。でもほら……」
 言いながら、画面を下の方にスクロールさせていく。
「こんなにリプライが続くんですから、それなりに有名なんだと思うんですよ。まあ、ほとんどは武橋大学の学生なのかもしれないですけど」
 もう少し、状況を正確に把握しておいた方がよさそうだ。
「お前さ、その書き込みを最初にしたのがどんな奴か、たどってみてよ。俺は、他の記事を探してみるから」
「分かりました」
 勤務中、刑事部屋の自分の席で携帯電話をいじるのは、さすがにマズい。それが捜査の一環であったとしても、駄目なものは駄目だ。今現在でも、内勤警察官が書類作成等に使う貸与品のパソコンは、インターネットには接続できないようになっている。それくらい、警察庁はインターネットを通じての情報漏洩に神経をとがらせている。各々の携帯電話の使用に関しても、同様に厳しく制限されている。
 なので、空いている取調室を使用する。
 いい歳をした男が二人、背中を丸めて向かい合い、それぞれ無言で携帯電話を弄る様は決して恰好のいいものではないが、時と場合によってはそれも致し方ない。
 なんと久和秀昭は、動画サイトに自身でチャンネルを開設し、何本も動画を上げていた。登録者数は二万六千八百二十二人。一概にはいえないが、たぶんそんなに多い方ではない。どんな動画を上げているのかにも興味はあるが、さすがに今ここで見るわけにはいかない。
 横澤が眉をひそめる。
「最初に書き込んだのが誰か、は……ちょっと分かんないですけど、なんか……久和ってわりと、変わった人みたいですね」
「ほう、どんなふうに」
「講義中に、突然キレるらしいです」
 それは、ちょっと「ヤバい」かもしれない。
「他には」
「まあ、面白いって言ってる学生もいますけど……あ、この人って、元財務省の官僚なんですね」
 なるほど。
「そういう経歴を買われて、客員教授に迎えられたってわけか。でも今、四十六だろ。じゃあ、そんなに長く財務省にいたわけでもないってことだよな……そもそも、国際教養学部ってなんなんだよ。なに教えるんだよ」
 横澤がまた首を傾げる。
「国際的な教養を、教えるんじゃないっすか」
「たとえば」
「いや、分かんないっすけど」
 もういい。
「とりあえず、連れてきてみるか。いくらなんでも、いきなりキレて暴れ出しはしないだろうし」
「そうですね」
 横澤と留置場のある階まで移動し、留置係の担当者に、取調べのため久和秀昭を受け出したい旨を伝える。
 差し出された被留置者出入簿に、所定の事項を記入する。
「よろしくお願いします」
「了解しました」
 一分ほどすると、久和秀昭が留置係員に連れられて出てきた。
 皺の寄ったワイシャツに、グレーのスラックス。ベルトやネクタイといった帯状の物は自殺防止のため取り外されている。その恰好で、両手首に手錠、胴回りには腰縄が巻かれている。背筋を伸ばしたら、たぶん佐久間より背は高いのだと思う。佐久間は百六十八センチ。それより五センチ、いや十センチくらい高いかもしれない。
 体重は六十キロ前後ではなかろうか。それくらい、久和はせて見える。胸の厚みなんて、佐久間の半分くらいしかない。顔も、頬がごっそりとげており、顎も細い。それでいて目は大きく、妙にギラギラしている。
 なるほど。職質を受けた原因はこれか、と思った。
 留置前の身体検査では当然、尿やその他も調べるので、久和秀昭が違法薬物の使用者である可能性はほぼゼロと思っていい。ただ、暗い路上でこの男を見たとき、警察官なら何を思うだろう。ちょっと、変なクスリでもやってんじゃないのか。そんな疑念を抱いたとしても不思議はない。
「……では、行きましょうか」
 久和は無言。頷くことすらなかったが、促せば、大人しくついて歩いてくる。
 先頭は佐久間、次が久和で、その後ろに横澤。横澤は柔道五段の猛者もさ。後ろを任せるのにこれほど頼りになる男はいない。
 エレベーターで刑組課のある階まで戻り、取調室に向かって歩き始める。今のところ取調室は全て空いているので、せっかくだから、今日は第一調室を使うことにする。
「入ってください」
 依然として反応はないが、態度は至って従順。久和は背中を丸めたまま調室に入り、自ら机の向こう側に回った。
 そして横澤が促すまでもなく、静かにパイプ椅子に座る。横澤が腰縄をパイプ椅子にくくり付け、手錠を外す間も、これといった反応は見せない。
 久和の正面には佐久間が座り、記録を取る横澤は佐久間の斜め後ろに控えた。取調室は実質三畳もない狭い空間なので、大人三人が座ったらもう一杯いっぱいだ。
 さてと、まずは挨拶からだ。
「おはようございます」
 これにはほんの数センチ、久和も頭を下げ返してきた。
 悪くない反応だ。
「本日から、取調べを担当することになりました。刑事組織犯罪対策課の……佐久間と、申します」
 一応、名刺を出して机の真ん中に置いておくが、そのまま渡すわけではない。あとでちゃんと回収する。
「こっちは、立会いの横澤です」
「同じく、刑事組織犯罪対策課の、横澤です」
 これには反応なしか。
「ええ……今日が取調べの、初回になりますので、供述拒否権について、お話ししておきます。刑事訴訟法第百九十八条、第二項の定めるところにより、被疑者は……つまり久和秀昭さん、あなたは、あなたの意思に反して、供述する必要はありません。あなたが答えたくないことは、答えなくてもいいです。答えるか答えないか、それを決める自由が、あなたにはあるということです。これは日本国憲法、第三十八条の第一項、何人も自己に不利益な供述を強要されない、というのと同義であります……これについて、何か質問はございますか」
 小さく、横に首を振る。
「はい……では次に、久和さんの、身上についてお伺いいたします。これは、取調べのあとにですね、供述調書といったものを作成するのですが、そのときに、誰が何を言ったのかというのが定まっていないと、意味がなくなってしまうので、弁解録取書の作成時と重なる部分もあるかと思いますが、一つひとつ、お答えください。まず、久和さんの本籍と、現住所から」
 久和はその他、生年月日や出生地、職場の所在地から前科、犯歴の有無、家族関係や学歴まで、訊けばその都度淀みなく答えた。
 思ったより声が低いのが印象的だった。
「……一浪して、東京大学、理学部数学科に入学しました。四年で卒業し、財務省に入省しました。初年度は大臣官房文書課、ここに二年おりました。三年目に理財局財政投融資総括課……」
 佐久間も、官僚と話をするのが初めてというわけではない。その多くは東大法学部出身で、とんでもなく「頭がいい人たち」という印象を、当たり前のように持っている。具体的にいうと、記憶力、計算能力、分析能力が一般人とは桁違いなのだ。何をもつて「一般人」とするかは意見の分かれるところだろうが、とにかく「普通ではない」というイメージがある。
 だが、なんだろう。この久和秀昭という男の印象は、佐久間が知る官僚のイメージと、ぴたりとは重ならない。何かがズレている。何かが、ちょっとだけ違う。同じ東大卒でも、法学部ではなく理学部数学科というところに原因があるのか。
「……三十三歳、主税局調査課課長補佐になり、その年の九月十九日に入籍しました。結婚式は新宿の……」
 しかし、いくら自分の経歴とはいえ、ここまでスラスラと淀みなく答えられるのは驚嘆に値する。
 そんな思いが佐久間の、あるいは横澤の顔に、出てしまっていたのだろうか。
 久和はいったん言葉を区切り、長めに息をついた。
「……少し、急ぎ過ぎましたか。ちゃんと理解は追いついていますか。早過ぎたり、理解が追いつかない個所があれば、そう言ってくださっていいんですよ」
 驚いた。こういう被疑者は、さすがに初めてだ。
 これでは、警察官である佐久間が久和という被疑者を取調べているのではなく、まるで久和という先生に、佐久間が個人的に何か教えを乞うているかのようだ。
 少し、関係をリセットしておいた方がよさそうだ。
「……いえ。記録は、ちゃんと取れているよな」
 振り返り、横澤に確かめる。横澤も小さく頷いてみせる。
 佐久間は前に向き直った。
「久和さん。ではそろそろ、昨日のことについて……」
「その前に」
 とんっ、と太い棒の先で、腹を突かれたような。
 それくらい低く、硬い声だった。
「……はい、その前に」
「私は、ありとあらゆる公務員を信用しておりません」

 

『首木の民』は全4回で連日公開します。