大学の客員教授の車から血の付いた他人の財布が発見され、窃盗と公務執行妨害の容疑で逮捕された──。著者が最強の「悪」に挑んだ警察小説×社会派小説のド肝作。
八時半からは、それぞれの部署で朝会が開かれる。
「気をつけ……敬礼……休め」
佐久間たちは俗に「刑事部屋」と呼ばれる、刑事組織犯罪対策課のそれに参加する。朝会では警視庁本部からの通達、署内の業務連絡、本署当番からの引継ぎ事項などが伝えられる。
本署当番というのは、一般社会でいうところの「宿直」と同じだが、警視庁ではこれが、つい最近までは六部制だった。要は、六日に一度は泊まりの勤務があったということだ。
「ええ……まず、本部からの通達が、二件……」
佐久間のいる刑組課なら課員を六つの班に分け、一日ごとに交替で当番に就く。当番時間は、通常勤務が終了する午後五時十五分から始まり、翌日の、遅くとも午前十時半までには終了することになっている。
当番時間帯は所属する係の分掌に拘らず、あらゆる事案を取り扱う。刑組課には総務係、強行犯捜査係、知能犯捜査係、盗犯捜査係、鑑識係、組織犯罪対策係、暴力団対策係、薬物銃器対策係と、取り扱う事務ごとに係が分かれているが、当番の間はこの垣根が取り払われる。
「では次に……」
たとえば、鑑識係員が当番に就いたとする。通常勤務時間は証拠品から指紋を採取するなどしていればいいが、当番時間帯になったら、下着泥棒だろうが詐欺事件だろうがヤクザ同士の抗争だろうが扱わなければならなくなる、ということだ。
ところがこの、本署当番。数年前から徐々に、八部制に移行されるようになった。つまり六日に一度あった泊まり勤務が、八日に一度でよくなったのだ。お陰で、日々の生活はかなり楽になった。佐久間も昨夜のように、心ゆくまで酒を楽しめる機会がだいぶ増えた。
「ええ……次。自動車警ら隊から……」
とはいえ、八部制への移行を機に警視庁の採用人数が三割増しになった、なんてことはない。一つの警察署の署員数も変わっていない。それなのに六班に分けていたものを八班に分ければ、当然、一個班ごとの人数は少なくならざるを得ない。二十四人を六班に分ければ一個班は四人だが、八班に分ければ三人になるという、ごくごく単純な割り算の話だ。
そんなことで首都東京の治安が守れるのか、と一般市民の皆さまは不安に思われるかもしれないが、これが案外大丈夫なのだ。
実際、警視庁管内に限らず、日本国内の事件発生件数は年々減少している。たとえば、警視庁本部の刑事部には「捜査第一課」という、殺人などの凶悪事件を扱う部署がある。ここの殺人犯捜査係は、多いときは十四係もあったが、最近は七係にまで減っている。それだけ、凶悪事件自体が少なくなってきている、ということだ。
「今朝は、以上です」
「気をつけ、敬礼……休め」
朝会が終われば、それぞれの係に分かれて業務に当たる。
佐久間は、いま報告にあったあれは、自分がやることになるんじゃないかな、と密かに予測していたのだが、案の定だった。
「……佐久間係長」
強行犯係の平中統括係長に呼ばれたので、そのデスクまで行く。
「はい。あれですか、自ら隊のやつですか」
正式には「自動車警ら隊」という。
平中が頷く。
「ああ……なんだかな、って話だけどな」
「職質から、ってことですよね」
佐久間がデスクを覗くと、平中はそこにあった書類をすくい取り、佐久間に向けてきた。
弁解録取書だ。
【弁解録取書
住所 埼玉県さいたま市南区辻一丁目△▲‐◎
職業 武橋大学国際教養学部客員教授
氏名 久和秀昭 昭和〇〇年五月二十三日生(四十六歳)】
職業の欄の記載が、なかなか興味深い。
「大学の先生なんですね」
「そのようだな」
続きを読む。
【本職は、令和※※年七月五日午後十一時三〇分ころ、警視庁志村警察署において、上記の者に対し、緊急逮捕手続書記載の犯罪事実の要旨及び――】
決まりきったところは飛ばす。
【弁解の機会を与えたところ、任意次のとおり供述した。
1 私が他人の財布を盗んだという事実はありません。
2 私が車に乗ろうとした際、車のドアを押さえていた警察官の手を払い除け、肩を押してしまったのは事実です。
3 弁護人との接見を希望します。
久和秀昭(印)
以上のとおり録取して読み聞かせた上、閲覧させたところ、誤りのないことを申し立て、署名指印した。
前同日 警視庁第二自動車警ら隊
司法警察員 警部補 香川隆(印)
逮捕要件は窃盗と公務執行妨害といったところか。
しかし、大学の客員教授が他人の財布を盗むとは情けない。
詳しいことは【緊急逮捕手続書】の方に書いてある。
【下記の被疑者に対する窃盗、公務執行妨害被疑事件につき、被疑事実の要旨及び急速を要し逮捕状を求めることができない旨を告げ――】
この辺も定型文だから飛ばして、罪状を見る。
【4 罪名、罰条
窃盗 刑法第二三五条
公務執行妨害 刑法第九五条
5 被疑事実の要旨
被疑者は令和※※年七月五日午後十時一五分ころ、本職が東京都板橋区坂下二丁目二十六、国道十七号路上で職務質問をした際、被疑者名義の車両内部に、血液の付着した他人の財布を所持していた。本職はこれについての説明を求めたが、被疑者は本職を押し退けて乗車、及び逃走を試みたものである。】
ちょっと、思っていたのよりは複雑な状況だ。
「血の付いた財布、なんですね」
「ああ。若干、引っ掛かる感はあるな」
「はい」
もし被疑者の職業が大学教授でなかったら、佐久間ももっと単純な事件をイメージしたかもしれない。いわゆる「ノックアウト強盗」のようなケースだ。
犯人は車で移動しながら標的を物色し、女性や小柄な男性に狙いを定め、人気のないところで襲撃する。相手が抵抗できなくなるくらいのダメージを負わせたら、バッグや着衣のポケットから財布を抜き取る。その際、被害者が「やめて」と財布を掴む。そこで財布に血液が付着する。そんな財布の一つがたまたま車内に残っており、職務質問をしてきた自ら隊員に見つかってしまった、みたいな状況だ。
だが四十六歳の大学教授が、そんな不良少年のような犯行を企てるものだろうか。客員教授というくらいだから、過去に何か別の仕事で実績を上げており、それが評価されて「ウチで教えていただけませんか」と大学側から誘われた。そういう身分なのだと思う。
しかしそれは、あくまでも「久和秀昭」なる男が、佐久間のイメージする大学教授のそれに合致する人物であった場合の話だ。実際には、大学教授といっても様々なタイプがいるはずだ。大柄で筋骨隆々で、言って駄目なら殴ってでも屈服させるタイプ、もいるのかもしれない。あるいは薬物の知識が豊富で、ひと吹きするだけで相手を意識不明に陥らせるスプレーを常時携帯し、それを用いてよからぬことを――いや、それだと財布に血液は付着しないか。
まあ、なんにしろ会ってみれば分かることだ。
「じゃあ、この久和の調べは、私が」
「うん。でもまあ、調べはやってもらうにしても、財布の持ち主にもな、分かれば会って、聴取しないといかんだろうし」
「じゃあ、調べが終わったら、私が行きます」
平中が壁掛けの時計を見上げる。
「そうは言っても、緊逮(緊急逮捕)が昨日の夜十時過ぎだろ。ってことは、明日の朝にはもう送検だ」
緊急だろうと通常だろうと、警察官は逮捕から四十八時間以内に、被疑者を検察官に送致しなければならない。いわゆる「送検」というやつだ。
ただ実際には、四十八時間を丸々使えることなど、まずない。よほど大きな事件の被疑者なら、個別に送検することもなくはないが、日常起こり得る程度の事件の被疑者であれば、各方面を担当する巡回護送車に乗せて送検するのが普通だ。
このケースでいえば、今日丸一日取調べをして、夜十時過ぎには二十四時間が経過、明日の朝には三十数時間が経過する。もしここで送検せず、その次の日の巡回護送を待っていたら、四十八時間を大幅に超過してしまう。それはできないので、取調べが充分か否かに拘らず、明日の朝には被疑者を検察庁に送り出さなければならない、というごく単純な話だ。
「ちなみに、財布の持ち主は分かってないんですか」
「カード類は入ってるんで、調べりゃすぐ分かるだろうが、何しろ血痕が付いてるんでな。素手でベタベタ触って、あれこれ抜き出して調べるわけにもいかんだろう」
素手で触らなきゃいいだろうが。
「白手(袋)ハメてやりゃいいじゃないですか」
「お前、これがコロシだったら、どうすんだよ」
待て待て。
「コロシって……その財布、そんなに血塗れなんですか」
平中が首を傾げる。
「いや、血塗れというほどでは、ないかな」
「じゃあ、血塗れの手で掴んだ、くらいの感じですか」
「お前、なんでそんなに血塗れに拘るんだよ」
「っていうか、財布の現物は今どこにあるんですか」
「ここにあるよ」
だったら最初から出しとけよ。
『首木の民』は全4回で連日公開します。