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 兵吉は討伐隊本隊とは別行動で林に入り、ヒグマを発見すると木の幹に身を隠して、ボルトアクション式のライフル、ベルダン2M1870を構えて発砲し、初撃をヒグマに命中させる。すぐさま再装填した兵吉が放った二発目はヒグマの頭部を貫通し、完全に絶命させた。
 そうして七人の犠牲者を出した三毛別羆事件は、ヒグマの駆除という形で幕を下ろした。
 事件後、解剖されたヒグマの胃袋からは人肉や衣服が見つかった。またのちの調べで、三毛別で太田家が最初に襲撃を受ける数日前、離れた旭川地域で三人の女性がヒグマに殺害されて喰われた事件があり、それをしたのも同じ個体だったことが確認された。
「記録によると、三毛別のヒグマは体長二・七メートル、体重は三百四十キロあったらしい。それに二〇〇七年には日高で体重五百二十キロのヒグマが駆除されたって記録もあるくらいだ」
 ヒグマについて語る鍛冶の横顔に、どこまでも昏く危険な影が差していることに気づいて思わず身を引きつつ、小此木は軽いデジャブをおぼえていた。この表情に見覚えがある。しかし、いったいどこで……。
 数秒、頭を動かしたあと、既視感の正体に気づいた小此木の口から、自虐的な笑い声が漏れる。見覚えがあるはずだ。毎朝、顔を合わせているんだから。
 鍛冶の表情に浮かぶ影、それは婚約者を失ってから自分の顔に染みついた闇にそっくりだった。
 小此木は鍛冶の名前が、なぜ印象に残っていたかを思い出した。この地域の猟友会のメンバーたちは黄泉の森に入ることを畏れ、二人を除いて捜索隊への参加を拒否した。一人が猟友会の会長である八隅という初老の男性、そしてもう一人がこの鍛冶だった。
 八隅は猟友会長としての責任で仕方なく参加したはずだ。では、鍛冶をこの禁忌の森へと突き動かしたものは何なのだろうか。
 視線に気づいたのか、鍛冶は「なんだい、刑事さん」とこちらを向く。いつの間にか、その顔から昏い影は消え去っていた。
「いえ……。それで、人喰いヒグマがいたら、どうしてこの長靴だと危険なんですか?」
 小此木はごまかすように話をもどした。
「靴が重いと、襲われたとき動きが鈍るからに決まっているだろ。だから俺はこういう手製の山足袋を履いているんだ。軽いけどな、裏は強化ゴムで固めてあるから釘を踏んでも貫通することはないし、グリップもしっかりしているから滑る心配もない」
 鍛冶は自慢げに足を持ち上げると、棘のような突起がいくつも裏についた足袋を指さした。
「動きが鈍るっていっても、ほんの少しの差じゃないですか」
「その刹那の差で、クマと人間、どっちが喰われる側になるかが決まるんだよ」
 淡々と話す鍛冶の口調は、それが誇張でないことを告げていた。鍛冶はゆっくりと再び歩き出しながら話し続ける。
「ヒグマは図体がでかいし、動物園なんかじゃ寝ていることが多いから、ノロマな動物だと思っている素人が多い。とんでもない間違いだ。奴らはネコみたいに俊敏な猛獣だ。奴らの肩関節は異常な柔軟性があってな、敷物みたいに地面に伏せることができる。二百キロを超える巨体を膝丈の笹藪に潜ませ、数メートル先からロケットみたいに飛び掛かってくるんだ。そのときとっさに身を躱して至近距離で弾を撃ち込めれば、うまい熊肉にありつくことができるが、押し倒されたら自分の肉をヒグマのディナーとしてふるまうことになる。分かるかい、刑事さん」
 鍛冶が横目で視線を送ってくる。小此木は頷くと、おずおずと口を開いた。
「そのわりには、あなたはやけにリラックスしていませんか」
 先頭で慎重に進んでいる猟師たちは、腰を落としてライフル銃を構え、銃弾を指に挟んでいる。誤射を防ぐため、獲物を見つけるまでは弾を銃に装填することは法律で禁じられている。ヒグマが見つかったらすぐにでも弾を込められるよう、準備しているのだろう。それに対し、鍛冶はライフル銃をスリングで肩にかけたままだ。
「この辺りには、ヒグマが身を隠すような笹藪はないからな。それに、遠くからいきなり走ってきたとしても、襲われるのは先頭か最後尾の奴らだ。中間にいる俺たちは、安全圏ってわけだ」
「そういうものなんですか?」全身に満ちていた緊張がわずかに緩んだ。
「そういうものなんだよ。俺を信じな。この捜索隊の中で、ヒグマに一番詳しいのは俺だ。札幌の辺りにヒグマは多くない。羆撃ちなら道央か道北に本拠地を持つんだよ。あいつらはせいぜい、箱罠にかかったヒグマを檻の外から撃ったぐらいの経験しかないはずだ。だからこそ、あんなに恐々と進んでいるのさ。人喰いクマと勝負できるような奴らじゃないんだよ。それに……」
 傷痕が刻まれた鍛冶の顔に、シニカルな笑みが浮かぶ。
「殺気だった猟師が十何人も銃を構えているなかに姿を現すほど、あいつは間抜けじゃねえ」
「あいつ?」小此木は鼻の付け根にしわを寄せる。「もしかして鍛冶さん、作業員たちを襲ったヒグマに心当たりがあるんですか?」
「……AS21」
 ぼそりと鍛冶がつぶやいた。その顔に、再び昏い影が差す。よく聞き取れず、小此木は「なんですか?」と聞き返す。
「ヒグマについたコードネームだよ。AS21、旭川市に十二年前に出現して、足跡の幅が二十一センチあったから命名された個体だ。猟師仲間ではアサヒって呼ばれている」
「十二年前、旭川市……」
 口の中で言葉を転がしたあと、小此木は目を見開いた。
「旭川スキー場熊害事件!」
 鍛冶は気怠そうに「ああ、そうだ」とあごを引いた。
 十二年前の冬、旭川のリゾートホテルでスキーを楽しんでいた大学生のカップルが、突然、森から飛び出してきたヒグマに襲われた。ヒグマの一撃をくらった男性は、肩口から胸部を心臓や肺ごと抉り取られて即死した。ヒグマは男性の遺体に興味を示すことなく、恋人の隣で腰を抜かしている女子大生の足に食いつき、そのまま森の中に引きずり込んでいった。そして、辺りには被害者の女子大生の悲鳴が三十分以上響き渡った。
 事件発生から二時間後、警察から協力要請を受けた地元猟友会の猟師三人が森に入り、下半身だけになった被害者の遺体を発見した。そのあまりにもおぞましい光景に動揺している猟師たちを、近くの笹藪に身を潜めていたヒグマが襲い、発砲する隙も与えず一人を撲殺し、残りの二人に重傷を負わせて森の中に消えていった。
 三人もの犠牲者が出た事態に、猟友会は大規模な駆除隊を組織して森に入った。しかし、二日間の大規模捜索を行ってもヒグマは姿を現すことなく、痺れを切らした猟師たちの一部が、隊から離れて独自にヒグマを追いはじめてしまった。それを待っていたかのように、ヒグマは隊から離れた猟師たちを襲い、二人が殺害され、一人が重傷を負った。
 最終的に森に大量の箱罠が設置され、ヒグマが罠にかかって駆除されるまで、一帯のスキー場は閉鎖されることになった。しかし、五人もの人間を殺害したヒグマが罠にかかることはなく、事件の記憶は風化していった。
「あの事件を起こしたヒグマがこの森にいると?」
「ああ、間違いない」鍛冶は頷いた。「現場からここまでは百キロ近く離れているが、大型のヒグマならそれくらいは余裕で移動する」
「けど、もう十二年も経っているんですよ」
「ヒグマは三十年以上の寿命がある。十二年ぐらい生きていても、なんの不思議もないさ。実際、アサヒはその後、罠にかかることも目撃されることもなかった。猟師を襲ったときに撃たれた傷がもとで、山中で死んだんだろうって考えられてきたが、ここに移り棲んでいたなら、目撃情報が皆無なのも当然だ。この山は誰も這入らない禁域だからな」
 鍛冶の口角が上がっていく。その姿は猛獣が牙を剥いているかのようだった。
「こんなところに隠れていやがったのか……」
 唸るような声でひとりごつ鍛冶に軽い恐怖をおぼえつつ、小此木はおずおずと声をかける。
「けれど、旭川スキー場熊害事件でも、森に連れ込まれたのは小柄な女性一人でした。六人もの成人男性を運ぶことなんて、クマにできるんですか?」
「クマの体重は、前足の幅でほぼ分かる。そして十二年前、スキー場に残された足跡は二十一センチもあった。これは最大クラスだ。おそらく、その時点で三百キロは超えていただろうな」
「その時点で?」小此木の鼻の付け根にしわが寄った。
「十二年前、アサヒはまだ若いオスだった。たぶん、三歳といったところだろう。まだまだ、成長する余地があったはずだ。いまはおそらく、その倍の大きさにはなっているだろうな」
「倍って……、六百キロ」
 かつて、街に侵入して駆除されたメスのヒグマを見たことがある。そのヒグマは六十キロほどだったが、小柄ながら筋肉が隆起した体躯と、ナイフのように鋭い爪に本能的なおぞけを感じたものだ。しかし、この森にはその十倍もある怪物が潜んでいる可能性があるという。
「そんな化け物を駆除できるんですか?」
 かすれ声で訊ねると、鍛冶は「このままじゃだめだな」と肩をすくめた。
「十二年前、アサヒを取り逃がしたのは、あいつがデカかったからじゃない。頭が良く、そしてなにより臆病だったからだ」
「臆病?」
「そうだ。あいつは銃の恐ろしさを知っている。銃を持った奴らが集まっているところに姿を見せることは最後までなかった。そして、猟師が一人になったところを狙って、音もなく忍び寄って襲い掛かるんだよ」
「じゃあ……」銃を構えて先頭を歩いている猟師たちに、小此木は視線を送る。
「ああ、そうだ。あんな殺気だった猟師たちが銃を構えているところに、アサヒが姿を現すわけがない。遺体を探すだけにしても、この広い森をあんなナメクジが這うみたいな速度で進んでも見つからないさ。まあ、犬を使えばなんとかなると思っていたけど、それも空振りだったしな」
 皮肉っぽい鍛冶のセリフを聞いて、小此木は数時間前の出来事を思い出す。警察犬と猟師たちの猟犬、十数頭が連れてこられたのだが、黄泉の森との境を示す地蔵を越えたあたりから激しく吠え出した。それが獲物の臭いを嗅ぎ取ったことによる興奮ではなく、強い恐怖から来ていることは、犬たちの尻尾が股の間で縮こまっていることから明らかだった。
 行方不明になっている作業員たちが使っていたプレハブ小屋の周辺で車から降ろしても、全ての犬が地面に伏せて動くことを拒否したため、仕方なく人間だけで森に入ることになった。猟の訓練を受けているであろう屈強なドーベルマンが、黒く光沢のある体を震わせながら失禁していたのを思い出し、小此木は喉を鳴らして唾を呑み込む。
「というわけで、ここにいれば安全だ。じゃあ、そろそろ俺は行くとするかな」
 軽い口調で言うと、鍛冶は捜索隊から離れていこうとする。
「ちょ、ちょっと」
 慌てて声を上げると、鍛冶は「なんだよ」と面倒くさそうに振り返った。