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 八日経ち、アフリカの夜空に下弦の月がかかるころ、ルランはまだ寝つけずにいました。そのとき、ふとある考えが浮かんできました。
 ──マーラーがハンハンを殺害したことを示す何かを見せれば、皆は自分のいっていることをわかってくれるかもしれない。
 いわゆる物証です。その物証は、言葉の通じぬ原始人のような人間でも──これは比喩ではありません──見ただけでわかるものでなくてはなりません。
 ルランは起きあがると、いびきを立てて寝ている仲間のあいだを縫って洞窟を出ていきました。
 空にはまぶしいとさえ思えるほどの満天の星が輝いています。そのなかでもとびきり大きく輝いている星が月です。その大きさは巨大で日々形が変わります。ルランにはそれが不思議でなりませんでした。
 ──どうしてあれは、毎夜削られるようになくなっていくのだろう?
 疑問には思うものの、その気持ちを誰かと共有することはできません。月を見るたびに煩悶はんもんするばかりです。

 ルランは森に向かって歩いていきました。マーラーがあの妙な味の鳥を獲ってきた方角です。現代よりもかなり気温の低かった時代です。ルランは震えながら月に照らされる大地を歩きました。
 荒野をしばらく歩いていくと、森に複数の赤い点が見えました。月光に赤い実が照らしだされているのです。
 ──シュシュだ。
 ルランは、マーラーのいったことを思い出しました。マーラーにハンハンのことを尋ねたとき、彼は「シュシュ」といいました。あの言葉は、ハンハン殺害の現場を意味していたのかもしれません。
 ルランはシュシュの密生しているあたりへ行き、何かないかと探しました。
 しかしどれだけ探しても何も見つかりません。見つかるのは虫の死骸や石ころばかりです。
 ルランは夜空を見あげました。
 ──明るくなってから探すか。
 月がどれほど明るくとも太陽にはかないません。ルランは繁みを見つけると、そこに横になりました。寒さに身を縮こまらせます。
 身体を丸め、月を見あげて思いました。
 ──いったい自分は何をしているのだろう?
 確実に“それ”があるとわかっていても、誰にも伝えられなければ、それは存在しないも同然なのです。

 翌朝、ルランは、何かがゴソゴソという音で目を覚ましました。小さな虫がうごめくような音です。なんだろうと思ってその音のほうへ這っていきます。
 三メートルほど進んだでしょうか。ぽっかりと円状に草がない場所がありました。その真ん中に平べったい石があり、その上にアリやら甲虫やらがひとところに集まっているのが見えました。さらに近づいてみますと、虫たちは何やら丸いものに群がっています。
 それを見たとたん、またしてもルランの頭にあの閃きがやってきました。
 ──これは人間の頭だ!
 彼らはその肉をんでいるのです。その丸い物体は、肉片のかけらが残っているものの、もはや顔を判別することのできない状態になっていました。付近には、人間の脊椎やら肋骨ろつこつやら大腿骨だいたいこつらしきものも見えます。
 まだかろうじて残っている頭髪をつかんで頭部を持ちあげると、丸い形から丸顔のハンハンの顔が思い浮かびました。
 ──ここでハンハンは殺されて解体されたのだ!
 ルランは空を見あげて喜びをみしめました。
 ──これをマーラーに見せれば、罪悪感からマーラーは自分のしたことを認めるはずだ。
 そもそも当時の人類に罪悪感なるものがあるのかどうか疑わしいところですが、少なくともルランにはそれがあり、マーラーも同じように感じるだろうと思ったのです。人は他人も自分と同じように感じると思うものです。
 往々にしてそれは間違いなのですが。
 頭蓋骨の上あたりを触ってみますと、そこにへこみがあります。それはいかにも棍棒で叩いた痕のように見えました。
 ルランはそのときの様子を思い浮かべてみました。
 ハンハンがシュシュに夢中になっていたとき、ふいにマーラーが呼びかけます。ハンハンが振り向いたところをマーラーが棍棒を振りおろす──このようなイメージがまざまざと頭に浮かびました。
 ──間違いない。
 これさえあれば、仲間を説得できる!

 太陽が南中するころ、ルランは洞窟に戻りました。
 ちょうど午前の狩りを終えた男たちが戻ってきたところでした。皆はルランが帰ってきたことに驚いていました。ルランはこの群れの出身ではありません。したがって群れを出ていく必要はないのです。
 そのルランが夜のあいだに群れを出ていったことを皆は不思議に思っていました。さらには、そのルランが帰ってきて、皆の当惑は増しました。群れを一度出ていった男は通常戻ってはこないものです。出ていったことも異例であれば、戻ってきたことも異例でした。
 この不測の事態に皆どう対処すべきかわからないようでしたが、そこはやはりリーダーのガルーダが皆を代表してルランに近づいていきます。
 何かを尋ねたいような顔をしていますが、もちろんガルーダにはその術がありません。ただルランをにらみつけて唸り声をあげるだけです。
 ルランは洞窟の前で、手に持った頭蓋骨を持ちあげてガルーダに突きつけました。そこに言葉を添えます。
「ハンハン、ポー、ハンハン、ポー」
 それからマーラーを睨みつけます。これで自分の意図が伝わったはずだとルランは思いました。
 が、誰も何もいいません。皆ルランの持つ丸い頭蓋骨を見つめるばかりです。マーラーもそれをじっと見つめていますが、その表情に驚いた様子はありません。
 子供たちは首を傾げて頭蓋骨を見ています。人骨だと理解していないのかもしれません。どうして食べられないものを持って帰ってきたのだとあきれているようにも見えます。
 ルランは大声で繰り返しました。
「ハンハン、ポー、マーラー、ポー、ハンハン、ポー!」
 いい終わって仲間をじっと見つめます。ふたたび洞窟のなかに沈黙が訪れました。やはり反応はありません。
 ルランには彼らはまったく無反応に見えたのですが、じつのところ、皆はルランが何かを伝えようとしていることには気づいていました。ルランが必死になって何かを訴えていることはわかるのです。ただその“何か”がわからないのでした。
 ルランは洞窟に入ると、いつもマーラーが使っている棍棒を持ってきました。それを頭蓋骨にあてて見せます。
 が、皆はぼんやりとした顔でルランを見ているだけです。ルランはマーラーの棍棒でその頭蓋骨を叩きました。乾いた音が響きます。
 子供たちは音に反応して驚いた顔をしましたが、大人は無反応です。
 ルランは、「ハンハン!」と叫びながら頭蓋骨を何度も叩きました。それでも反応はありません。
 皆の表情がだんだん硬くなってくるのにルランは気がつきました。その表情を見ながら、ルランの頭には次のような考えが浮かんできました。
 ──ひょっとして彼らは、このルランがハンハンを殺したと思っているのではないだろうか?
 無論、誰もそんなことは考えていません。ただ、ルランが何をしているのかわからなかっただけです。が、ルランにはそれがわかりません。
 ルランは焦り始めました。
 なんとかして自分のいいたいことを伝えなければ、自分の立場が危なくなる……。
 ──そうだ、マーラーがハンハンを殺した場面を再現してみせよう。それなら皆も理解してくれるはずだ!
 ルランは、マーラーの腕を掴むと、彼を引っ張りだしました。マーラーはこれから何が起こるのかわかりませんから、されるがまま、ルランに手を引かれて洞窟の外に出ます。
 ルランは、棍棒をマーラーの手に握らせると、自分はハンハンの役をするべくうしろを向きました。それから大きな声で「ハンハン!」と叫んで自分の胸を叩き、次いで、「シュシュ」といいながら、シュシュの実を樹から採って食べる真似をしました。最後にマーラーと向き合い、呆然ぼうぜんとするマーラーの手を掴むと、棍棒でルランの頭を叩くように彼の手を動かしました。
 そこで、どうだ、といわんばかりに皆を見ましたけれど、皆は口を半開きにしてルランを見つめるだけで何も反応を示しません。
 ルランはますます焦りました。いよいよ皆が自分を疑っているのではないかと思ったのです。
 ここまで聴いてこられた方ならおわかりになるかと思いますが、ルランはなかなか頭のまわる男でした。ここ数日はことさらいろいろなことに思慮しりよが働くようになっています。
 ルランはさらにこんな疑いを抱きました。
 皆は、ルランがマーラーにハンハン殺害の責任を押しつけようとしている、と思っているのではないだろうか。
 もちろん、誰もそんな複雑なことは考えていません。ただルランが動きまわっているのを興味深げに見ていただけのことです。
 ルランはマーラーの手に持たせた棍棒をとりあげると、今度はマーラーの役も自分で演じました。
「マーラー!」と叫んで自分の胸を叩き、棍棒を振りおろします。すぐさま振りおろされた先に自分の身体を持っていき、「ハンハン!」と叫んで頭を殴られた演技をします。そこで転げまわります。苦しそうなうめき声をあげながら。すぐに立ちあがるとまた「マーラー!」と叫んで先ほどと同じことをしました。
 ルランは頭のよい男でしたが、このときばかりは分別ふんべつを失くしていたのでしょう。それは一日じゅう歩き続けたせいもあるでしょうし、自分の伝えたい事柄を誰にも伝えられないもどかしさのせいもあったでしょう。なんと彼はこの動作を三十一回も繰り返したのです。
 そこでルランは気を失いました。