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 部屋に戻ると、不思議なことがあった。部屋というより玄関だ。
 薄緑色の玄関のドアに手形が付いていた。一度、玄関のドアに手を当て、そこから右下に引きずるように、指の部分が長くなっている。
「いつ、こんなもの付けたんだ?」と考えたが、わからなかった。いつも家を出る時には、鍵に目をやっているので、ドア自体は見ない。今日付けたものなのか、それとも以前から付いていたものなのかはわからなかった。
 自分が無意識に付けたものなのか? それとも新聞屋の類いが留守に腹を立てて嫌がらせで付けたものなのか? いつからあるのか? 手の平を軽く当ててみると、オレの手より少し小さい。オレの手は一般男性の平均より少し小さい。それより小さいということは、女の手形であろうか? 女の少し大き目の手にも見えるし、小さ目の男の手形にも見える。
 ふと思った。
 オレの手の平のサイズと違う時点で、オレの手形ではない……。
 となると、やはり新聞屋やセールスの人間が付けた手形なのだろうか?
 何の為に? 嫌がらせの為?
 そうだ! 何度チャイムを鳴らしても出て来ないことに腹を立て、ドアを思いっきり叩いたに違いない。嫌がらせというより腹いせだ。そう考えれば納得出来る。
 オレは軽く拭き取ろうと、左手を服の中に引っ込め、袖口でドアに付いた手形を拭き取ろうとした。しかし、何度こすってもその手形は薄くならなかった。拭き取れない理由がわからなかった。
 試しに、オレは自分の手の平をドアに張り付けてみた。手形が付かなかった。オレはそこまで脂性肌ではないが、こんな手形が付くほど手の平に脂を持った人間がいるだろうか? 意図的に手形を付けたヤツがいると考えるのは、オレが神経質なのだろうか?
 そのくらい神経質になってもいいだろう。
 オレは殺人を犯している。
 オレが神原喜代美の部屋に行っている間に、誰か来たのだろうか? まぁいい、まぁいい。
 玄関の前に誰かが来たとして、何の問題もない。犯罪者は勝手に追い詰められるというのを本か何かで読んだことがある。出来事全てを自分に結び付けて、勝手に呵責かしゃくと闘い、自滅に陥り、自首するらしい。オレはそんじょそこらの犯罪者に負けないだけの精神力を持っている。手形が付いているのと、オレがしていることは何ら関係ない。
 高井真郷さえ全て捨ててしまえば、オレは自由になれる。自由に神原喜代美を追うことが出来る。
 それがオレの希望だった。

 高井真郷の肉流しは順調だった。
 高井真郷の内臓を先に捨てようと思ったのは、神原喜代美の部屋に通うようになって少し経ってからだった。オレとしたことが、内臓が先に異臭を放つということに気付いていなかった。そんなことも考えられない自分を責めた。オレは吐きながら、高井真郷の内臓を細かく切り刻んだ。
 頭部には頭蓋骨があり、なかなか骨の折れる作業だから、後回しにした。
 内臓を捨てたところで、家に蔓延している死臭が減ったかと言われれば、わからなかった。ずっと死体と暮らしているとわからなくなる。
 神原喜代美の部屋にいる間、オレは段々自分でも図々しくなっていくのがわかった。神原喜代美の部屋で何度か性的快感の頂点に達し、そのゴミをトイレに流した。歯ブラシを持って帰る訳にはいかないので、口に含んで戻した。
 しかし、オレは思う。死体が運ばれているこの部屋には、何かしらの異臭はしないのだろうか? 神原喜代美は脱臭剤や新たな消臭スプレーを購入している形跡がない。オレはそれを1つのバロメーターにしていた。オレはずっと死臭と暮らしているから、感覚は麻痺している。神原喜代美は死体の臭いとは気付かないかもしれないが、下水の臭いが上がって来ているとすら思わないのだろうか? それともオレが来てすぐ、高井真郷の肉片をトイレに流しているから、部屋に臭いが全く付かないのだろうか? まぁ、あと十数回も流せば、もう高井真郷の死体は全てなくなり、肉片をここに運ぶ必要はなくなる。しかし、ここ最近は、神原喜代美に知られることなく、神原喜代美の部屋のトイレから死体の肉片を流している行為自体に興奮を覚えていたので、少し残念な気もした。高井真郷は本当に憎むべき人間であるが、神原喜代美の部屋とオレを繋いだ人間であるから、その点では感謝しなければならないのかもしれない。
 もう神原喜代美のゴミを取ることに何の高揚もなくなっていた。それはそうだろう。神原喜代美の部屋に入り、生きた生活道具を見ると、生活パターンでも変わらない限り、出てくるゴミは似たり寄ったり同じようなものになってくる。コンビニ弁当の空きパックやシャンプーの詰め替え用のボトル、会社の近くで昼ごはんを買った時のレシート、ポストに入れられているチラシ、何かを拭いたティッシュ、床に落ちた髪の毛を取る為に使われたガムテープの切れ端……。
 しかし、オレは全て神原喜代美のことを把握していないと気が済まないので、半ば義務的に神原喜代美のゴミを取る。ゴミステーションに置かれている半透明のゴミ袋は大体の見当がつく。神原喜代美は煙草を吸わないので、煙草の吸殻が入っていれば、神原喜代美の出したゴミではない。請求書がゴミ袋側に表に張り付いていれば、名前を確認して、神原喜代美でなければ、そのゴミを置いていく。その他、使っている洗剤の換え袋が違っていたり、コンビニゴミが小さい袋に入っていなかったら、そのゴミは神原喜代美の出したゴミではないので、置いていく。
 大体の見当をつけ、2つ程ゴミステーションから抜き取り、部屋に持ち帰った。
 1つのゴミは見当が外れた。2階に住む、30歳半ばくらいの看護関係の仕事をしている女のものであった。オレはこの女に全く興味がなかった。この女のゴミの出し方は神原喜代美のゴミの出し方に似ていたので、よく間違えた。あとで神原喜代美のゴミと一緒に、ゴミステーションに戻しておこう。必要なものだけ抜き取り、あとは戻しておくのが、オレのやり方だった。ゴミが少なくなっているのが、神原喜代美だけでなく、そこの住人の誰かに気付かれたら警戒されるかもしれない。
 すぐにオレはもう1つのゴミの結び目をほどいた。多分、神原喜代美だろう。ゴミの出し方でわかる。レシートを見ても、神原喜代美の会社近くのコンビニのレシートだった。ほぼ確信していたが、神原喜代美が出したゴミであるというきちんとした証拠が欲しかった。
 取ったゴミを漁っていると、使い古されたストッキングが出てきた。オレはそれを必要のないゴミとは別のところに置き、さらに何かないかと、ゴミを探った。一番下に重みのある物があり、見てみると、女性用の通販カタログが封を開けていない状態で入っていた。宛先を見てみると、そこには「神原喜代美様」と書いてあった。確証を持つと、オレはいつも脳に刺激が走り、心地良くなる。神原喜代美のゴミを取ることに新鮮味がなくなっても、確証を得た時の心地良さだけは変わらない。
 あとは自分に必要ないゴミだとわかり、ストッキング以外のゴミを詰め直そうと思った時、見慣れないものが目に入った。「何だろう?」と思い見直すと、それは1枚のメモ用紙だった。必要のないゴミだと思い仕分けていたが、ゴミ袋に戻す際、何か書いてあることに気付き、その違和感からメモ用紙を手に取ってみた。人間の防衛反応だろうか、自分に不都合な情報を入れたくないと思ったのか、目の焦点が一瞬合わなかった。
 冷静にそのメモ用紙に書かれている文字を見つめた。

「口紅を返してください」

 オレは誰かに殴られたような衝撃を受けた。

 

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