高井真郷を殺してから、数日はストーカー行為に心地良さを感じていた。
自分でタガが外れたこともわかった。オレは神原喜代美が会社に着いたのを確認して、家まで戻って来て、神原喜代美の部屋に入るようになった。
高井真郷には部屋に入ったことがあるニュアンスの嘘をついたが、オレ自身、神原喜代美の部屋に入るのは初めてだった。初めて入った日は興奮した。ようやく神原喜代美の部屋をこの目で見ることが出来ると、自分でも信じられないくらいの幸福感を味わった。
神原喜代美の部屋は女性らしい部屋だった。
玄関にはブーツが3足揃えてあり、下駄箱の中を覗くとスニーカーや革靴、サンダルなど全部で8足の靴を持っていた。匂いを嗅いでみたが、特に異臭がする程ではなかった。
ガスコンロの隣には、サラダ油や胡麻油、塩胡椒が置かれていて、サラダ油、胡麻油の底にはキッチンペーパーが輪ゴムで留めてあった。
風呂場の排水口には髪の毛が詰まっていたので、オレはその髪の毛をポケットに入れた。排水口に詰まった髪の毛を持って帰っても気付かれないし、何かしらの違和感を持ったとしても、髪の毛がなくなったくらいで、被害届を出すはずがなかった。
風呂場は、ほのかにシャンプーの香りがした。恐らく、朝シャワーを浴びたのだろう。
心臓の鼓動が速くなるのがわかった。
いつも外から見ているカーテンは、内側から見ると濃いベージュだったことがわかった。
コタツのカバーはカーテンの色と何となく統一しているのか、羊の絵の描いてある白い生地だった。
コタツの上には、食べかけのチョコフレークが置かれていた。コンビニに置いてない類いのものなので、恐らくスーパーで買ったものだと思う。
机の上にはメガネが置いてある。神原喜代美がメガネを掛けているところを見たことがない。外に出る時はコンタクトを付け、部屋ではメガネを掛けているのだろう。
木目調のカラーボックスを横に倒して、鏡台代わりにしている。その上には大量の化粧品が置いてあった。
収納を開くと、インナーボックスがいくつか置いてあり、その中を覗くと、下着入れであった。今日はとりあえず下着を盗るのはやめておこうと思った。調子に乗って、部屋に入っているのがバレてしまうのではないかと疑心暗鬼になっていた。自分に“また来た時でいいよな”と言い聞かせた。
これが神原喜代美の匂いかと、思いきり深呼吸をした。初めての滞在時間は10分もなかった。短い滞在時間で数多く来ようと思った。リスクを考えれば、多少滞在時間が長くなっても、あまり来ない方がいいに決まっている。しかし、神原喜代美の部屋に来ているという実感で、胸の鼓動が激しく苦しくなってくる。とてもじゃないけど、耐えられなかった。
自分の部屋に帰ると、腐敗臭がして気が滅入った。
神原喜代美の匂いを嗅いだあとに、高井真郷の悪臭を嗅がされるのは腹が立った。風呂場のドアをきちんと閉めても、魚が腐敗して酸っぱくなり、そしてどこか甘味がある臭いは、吐き気を誘い不愉快であった。
“なんでお前の為にこんな思いをしなけりゃならないんだ!”と怒鳴りたかったが、騒音で近所迷惑になり、警察を呼ばれてしまってはたまったものじゃない。今は何事にも我慢をする時期である。高井真郷を全て捨ててしまえば、オレは自由になれる。
オレが部屋にいない間に、誰かが高井真郷を発見しているのではないかと急に不安になり、風呂場のドアを開けた。強烈な死臭であった。鼻の奥に鉄の棒を突っ込まれたかのような錯覚に陥った。
高井真郷の肌は、シャワーで血を流しても流しても、赤黒くなる。張りは段々なくなり、皺が増えていく。
ちょっとずつ、ちょっとずつ捨てていくんだ。しかしその一方で、日々、強くなる腐敗臭が部屋の外に漏れて、通報されて見つかるのではないかと不安になった。
死臭が強くなる前に、換気扇にガムテープを貼っておいて良かった。台所の換気扇にも同様にガムテープを貼っておいた。ここから漏れる可能性がある。いや、もうすでに警察は高井真郷の殺害に気付いて、オレをマークしているのではないかと頭をかすめることさえある。
しかし、オレの敵は焦りだ。ここで焦り、一気に捨ててしまえば、発見される可能性が高くなる。今までコツコツやってきた苦労が水の泡になってしまう。
高井真郷の死臭で飯が喉を通らない。パンを買って来ては口に詰め込むが、胃に食べものが入ると戻してしまう。食欲と死臭は共存出来ない。
外で飯を食べればいいかと思えば、体に悪臭が染み付いているようで、食欲が湧かない。
カレーならば臭いが強いので、鼻を近くまで付け、飯を掻き込めば何とか死臭を忘れて食べることが出来る。しかし、一瞬でも脳に染み付いている死の臭いを思い出せば、吐き気がしてそのまま戻してしまう。
日によって食べられる日と食べられない日があるので、自分でもわかるくらい、鏡を見るたびにやつれていった。
高井真郷を全て捨てれば、部屋からあの臭いがなくなるのだろうか? 臭いが消えたとしても、オレは一生、死臭を忘れることが出来ないのではないだろうか? 忘れられなかったら、オレは一生飯をうまいと思えないのではないだろうか? そう考えると恐ろしくなる。”とにかく早く捨てなければ”という考えと、”焦るな”という気持ちが同居し、混乱する。
オレは気が狂いそうになっていた。
そんな中、オレの人生が崩壊するような出来事が起きた。
高井真郷の肉片を少しばかり多く生ゴミで出してしまったかと、ゴミを捨てたあと、思い直して拾いに行くと、そこにはオレの出したゴミだけがなくなっていた。何かの間違いかと思い探したが、やはりゴミステーションにはオレの出したゴミだけがなかった。
あまりゴミステーションでゴミを漁っていても怪しまれる。部屋に帰って冷静に考えるしかない。考えるにしても、高井真郷の死臭が思考を停止させる。
オレはいつだって冷静だ。自分にそう言い聞かせた。
まず、オレの出したゴミを取って、メリットのある人間は誰だろう? 犬や猫の類いなら袋を歯で破り、必要な餌を食い荒らすだけだ。袋ごと取って行くのは人でなければ出来ない。ゴミ漁りの人間ならば、オレのゴミだけを取って行くのは理解出来ない。しかし、他の住人のゴミも取って行ったのかどうかはわからない。ゴミ袋の数なんて数えていない。
仮に、オレのゴミを取って行ったゴミ漁りの人間の気持ちを考えてみる。
高井真郷の肉片が入っているゴミ袋は、相当な異臭がしているだろう。いくらゴミ漁りの類いの変態でも、あの異臭には気が滅入るはずだし、オレは細心の注意を払って個人情報を中に入れていない。誰のゴミかわからない不快なものは、そのまま持っておくはずはない。そのゴミ袋が異常な異臭を放っていたとしても、まさか死体の肉片だとは思わないだろうし、万が一に死体と気付いた時、その人間はどのような行動を取るだろうか?
ゴミを取ったことの引け目から、そして死体が出てきたことによって、ややこしいことに巻き込まれると思い、警察には届けないだろう。
大家や管理人だったら、どうだろう? オレの鼻はバカになっているはずだ。袋をしっかり閉めていたとしても、異臭を放っている可能性はある。不審に思った管理人はそのゴミを持ち帰り、警察に届け出る可能性はある。しかし、その場合はよほど嗅覚のある人間だ。
毎回ならば届け出る可能性はあるかもしれないが、たった1回ならば届け出て、ただの肉の塊が腐っただけと言われたとすれば、恥をかくのは管理人だ。燃えるゴミの日に異臭を放っている生ゴミを捨てたとしても、「腐る前に生ゴミを出しましょう」とは言えないはずだ。
しかし問題は、これから燃えるゴミの日に高井真郷の肉片を捨てるのを控え目にしなくてはならないことだ。他のゴミ捨て場に捨てに行くにも、異臭を放ったゴミ袋を持って歩くのは危険だ。そんなゴミ袋を持った人間が歩いていたら、出勤中の人に不審に思われるかもしれない。
考え過ぎかもしれない……。
神経質になり過ぎているかもしれない……。
しかし、オレは殺人を犯している。考え過ぎても過ぎることはないだろう。オレは高井真郷のように短絡的な人間ではない。
警察がもうすでに、オレが殺人を犯していることに感付いて動いているのだろうか? だとすれば、一刻も早く、高井真郷の死体を全て処分しなければならない。部屋に死体があれば、言い逃れは出来ない。言い逃れの余地だけは残しておかなければならない。警察が高井真郷殺しに目を付けているならば、ここ1日2日で踏み込まれるはずだ。
まさか、オレにストーカーがついているのか? オレについてどうなる? いや、わからない。神原喜代美だって、オレにつかれているとは、まさか思っていないだろう。ストーカーなんてそんなものだ。だとしたら、オレの部屋に入っているのだろうか? 入っているとしたら、高井真郷の死体を見ているのだろうか? 見ているとしたら、警察に届け出るだろうか? いや、届け出ることはないと思う。そのストーカーもオレの部屋に入った説明が出来ないからだ。
とにかく、高井真郷の死体の処理だけは早くしなければならない。どうすればいい?
焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。
その時、一本の光明が差して、鏡を見た訳ではないのに自分がニヤけたのがわかった。
神原喜代美の部屋のトイレに流し込めばいい。