9
店に入ったとたん、淹れたてのコーヒーの香りに包まれた。立ち止まって目を閉じ、南雲士郎はその香りを堪能した。テンションが上がり思考がクリアになるのを感じながら、店のカウンターに歩み寄る。
「おはようございます。ご注文をどうぞ」
笑顔で一礼し、白いブラウスに緑色の胸当てエプロンをつけた店員の若い女がメニューを差し出した。「おはよう」と返してメニューは見ず、南雲は告げた。
「トール、ラテ、ホットをテイクアウト。ノンファット、ライトホット、ノンシロップ、エクストラフォーミーで」
「承知しました。少々お待ち下さい」
そう返し、若い女は後ろの厨房スタッフに、「トール、ラテ、ホット、テイクアウト。ノンファット、ライトホット、ノンシロップ、エクストラフォーミー」と滑舌よく、息継ぎなしで告げた。代金を支払い待っていると、間もなく蓋付きの紙コップに入ったラテが出来上がった。受け取った南雲は、その場でラテを一口飲む。紙コップを下ろし、カウンターの向こうに伝える。
「完璧だね」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」
嬉しそうに返す若い女に見送られ、南雲は歩きだした。
多分ここはいい街だ。そう予感し、新たな配属先での職務に期待も湧く。朝から客で賑わうテーブルの間を抜け外に出た。と、誰かに見られているような気がして、南雲は立ち止まって左右を見た。
オフィス街の大通りを、大勢の人が行き来している。男性は夏物のスーツ、女性は半袖姿が目立つ。しかしこちらに目を向ける人はおらず、気のせいかと歩きだそうとした矢先、
「南雲さん」
と呼ばれて横を向いた。コーヒーショップのテラス席に若い男女がいて、男の方が手を振っている。誰だかさっぱりわからなかったが、笑顔で「やあ」と手を振り返す。
「おはようございます。刑事課の剛田です」
腰を浮かせて男が会釈する。それでもさっぱりわからなかったが、南雲は「おはよう」と応えてテラス席に近づいた。テーブルの向かいを指し、剛田が言う。
「刑事課の事務担当の、瀬名花蓮さんです」
「はじめまして。瀬名です」
紹介を受け、瀬名というらしい若い女も腰を浮かせて会釈した。「どうも」と返した南雲は、テーブルに美容雑誌や化粧品のパンフレットが載っているのに気づいた。
「メイクが好きなの? なら、絵画を見るといいよ。すごく参考になる」
テーブルを指して言うと瀬名は驚いたような顔をしたが、剛田は「そうなんですか?」と身を乗り出してきた。「そうそう」と返し、南雲は紙コップをテーブルに置いて空いていた椅子に座った。
「たとえば、フェルメールの名画『真珠の耳飾りの少女』」
「知ってます。頭に青いターバンを巻いた、可愛い女の子の油絵ですよね」
剛田が反応し、南雲は「その通り」と頷いて続けた。
「フェルメールは光の画家とも言われていて、陰影の美しさには定評があるんだ。この絵も少女の鼻と額の中央にツヤ感を出し、顎のラインにはシェーディングを入れている」
「そういうメイク、流行ってますよ」
瀬名も反応し、身を乗り出す。丸顔で、そこに並んでいるパーツも丸い。
「他にも陶器を思わせる白い肌とか、輪郭をぼかし、下唇にツヤとボリュームを持たせた赤い唇とか。韓国のアイドルやアーティストに、多いメイクでしょ?」
そう問いかけると、剛田は目を輝かせてこくこくと頷き、瀬名は「『真珠の耳飾りの少女』、検索します!」と言ってスマホを出した。満足し、南雲はスラックスの脚を組んで紙コップを口に運んだ。
「南雲さん」
また名前を呼ばれ、振り向いた南雲の目に地味なスーツを着た小柄な男が映る。紙コップを下ろし、南雲は男に笑いかけた。
「小暮くんか。おはよう。きみもお茶しに来たの?」
「おはようございます。なに言ってるんですか。じきにミーティングが始まりますよ。それに、ここは僕には贅沢です。コーヒー一杯、三百円でしたっけ?」
「三百五十円です」
剛田が答えたとたん、時生は顔をしかめた。
「高っ! それって税込み? 税抜き? そこのコンビニなら、税込み百十円だよ」
そう主張し、通りの向こうを指す。場に白けた空気が漂い、「じゃあ、お先に」と剛田と瀬名が立ち上がってテーブルを離れた。紙コップを片手に南雲も続く。並んで通りを歩きだすと、時生は言った。
「課長の許可も下りたし、今日から水上結芽さんの事故を捜査しましょう。手始めに、本宮俊吾のアリバイの裏取りをしますか?」
「気が乗らないなあ。他に行きたいところもあるし」
「気分で捜査するのはやめて下さい。南雲さん、相変わらずですね」
表情を硬くして、時生が言う。南雲が「そう?」と笑うと、時生は「そうですよ」と返して顔を向けた。
「藤野係長は『取りあえず』と言ってたし、このコンビは一時的なものだと思います。でも、二人で動く以上は協力し合ってルールを遵守した捜査をしましょう。昔のようにはいきませんよ」
強い口調と眼差しから、時生が本気だとわかる。しかし南雲はつい、「昔って、そんな大袈裟な」と返してしまう。顔を険しくし、時生が応える。
「昔ですよ。二人であの事件を捜査したのは、十二年前です」
「そんな気がしないな。小暮くん、若いままだから」
「どうせ童顔ですよ……とにかく、昔とは違いますから」
ふて腐れたように呟いてから顔を引き締め、時生は足を速めた。「昔」と連呼されたせいか、南雲の脳裏をある映像がよぎった。複数の絵画だ。
ジョット・ディ・ボンドーネの「最後の審判」、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」、ジャック=ルイ・ダヴィッドの「マラーの死」、そしてエドゥアール・マネの「自殺」……。続いて時生の言う、二人で捜査したあの事件のフラッシュバックが始まりかけた矢先、前を行く時生に「行きますよ」と促された。知らず立ち止まっていたらしく、南雲は手を上げて応え、歩きだした。
10
前方に石造りの背の高い門柱が見えて来た。セダンのハンドルを切り、時生は門柱の間から敷地に入った。短く急な坂を上ると、正面にホテルカシェットの本館が現れた。大きく古い洋館で、外壁は色褪せた赤いレンガで切妻屋根は灰色。建物の左右に三角屋根の塔を擁している。フロントガラス越しに本館を眺め、南雲は言った。
「左右対称かつ直線的。典型的なルネッサンス様式だね」
「築百年近いそうですよ。木槿町のこの辺りは古くからのお屋敷街で、ここも旧華族の別宅だったとか」
「クロ・リュセ城を思い出すなあ。知ってる? レオナルド・ダ・ヴィンチ終焉の地で、フランスのアンボワーズにあるんだけど」
テンションを上げ、南雲が語る。それがここに来たがった理由か。そう察し、呆れた時生だったが、「知りません」とだけ返し、セダンを本館の前の駐車場に停めた。
二人で楠町西署の刑事課に出勤して間もなく、朝のミーティングが始まった。そこで村崎が水上結芽の事故にはいくつか不審点があること、それを時生たちが捜査をすることを伝え、手が空いている者は協力するように告げた。すると井手が本宮のアリバイの裏取りを申し出てくれたので、時生たちはホテルカシェットに向かった。
時生がシートベルトを外していると、南雲が言った。
「井田さんだっけ? 彼に水上さんの自宅に注意するように言った方がいいよ」
「井手さんです……注意って、張り込めって意味ですか?」
「まあ、そんなところ。あ、向こうに庭園があるね」
そう返し、南雲はセダンを降りた。駐車場を出て通路を横に行こうとしたので、「こっちです」と告げて正面に向かわせる。短い階段を上がり、二人で本館に入った。
本館一階のロビーは広々として、こちらの壁もレンガ張りだった。茶色の革張りのソファと大理石のテーブルがいくつか置かれ、奥には大きな暖炉もある。目を輝かせてそれらを眺め、南雲がロビーに進み入る。一方時生はロビーの手前にあるフロントに向かい、スタッフに警察手帳を見せて来訪の目的を告げた。南雲に言われたことを念のために井手にメッセージを送信していると、ロビーの奥からスーツ姿の男がやって来た。
「副支配人の羽場と申します」
そう告げて一礼した羽場は歳は六十間近といった感じだが、髪を整え、背筋がぴんと伸びていて若々しい。返礼し、時生は話しだした。
「お忙しいところ申し訳ありません。水上結芽さんの事故を調べています。水上さんは亡くなる前、こちらと仕事をされていたと聞きましたが」
「ええ。マイ企画さんとは二年ほどのお付き合いで、小さなイベントやフェアの企画運営をお願いしていました。その仕事ぶりが素晴らしいので、今年の夏の開業五十周年イベントをお任せすることにしたんです」
「そうでしたか。記念イベントの担当の方にお話を伺えますか?」
「はい。今ちょうど、厨房に集まっています。こちらにどうぞ」
羽場は言い、フロントを指さして歩きだした。南雲を促し、時生も後に続く。
羽場に続き、フロント後方のドアからバックヤードに入った。角をいくつか曲がると、広い通路に出た。左右にキャスター付きのワゴンや折りたたんだテーブルなどが置かれ、天井には配管パイプが走っている。そこを様々な制服やスーツ姿のスタッフが行き来していた。
しばらく進むと、羽場は「こちらが厨房です」と傍らを指した。ステンレス製の流し場やコンロ、作業台などがずらりと並び、白いシェフコートにシェフ帽子姿のスタッフが立ち働いている。その後ろを羽場、時生、南雲の順で抜け、奥に進んだ。突き当たりのドアの前に一際大きな作業台があり、周りに三人の男女が立っていた。
「彼らがイベントのプロジェクトチームです。斬新なイベントにしたいので、若いスタッフを集めました……こちらは刑事さん。水上さんの事故を調べているそうだ」
テーブルの前で立ち止まった羽場が、前半は時生と南雲、後半は三人に告げる。
「お仕事中すみません。楠町西署の小暮と南雲です」
進み出て自分と隣を指し、時生は一礼した。三人が会釈を返し、羽場が、スーツ姿の男性は広報課の恩田諒太、シェフコートを着た女性はホテル内にあるフレンチレストランのスーシェフ・酒井菜穂、腰にギャルソンエプロンを締めた男性はホテルのカフェのギャルソン・花江心平だと紹介してくれた。それから、羽場は来客の予定があると厨房を離れ、時生は聞き込みを始めた。
「水上さんはイベントの企画と運営を請け負っていたんですよね。どんな方でしたか?」
「真面目で熱意に溢れた方でした。日高さんと一緒に、イベントを盛り上げようとがんばってくれていました」
そう答えたのは恩田だ。面長で黒いプラスチックフレームのメガネをかけている。その隣で、小柄で小太りの花江も言った。
「頭の回転が早くて、こちらが無茶なお願いをしても『じゃあ、これはどうですか?』と対応してくれました」
「すごく気さくで明るくて、お話ししていると楽しいし刺激になりました。だから事故のことはすごくショックで、まだ信じられません」
最後に髪をショートカットにした酒井も言い、眉根を寄せる。場に重たい空気が流れる中、南雲が口を開いた。
「どんなイベントなんですか?」
「レストランやバーのスペシャルメニューと記念の宿泊プラン、ロビーでのトークショーやピアノコンサートなどを予定しています」
恩田が答え、脇に抱えていたファイルからパンフレットらしきものを出し、南雲に渡した。時生も覗くと、イベントでは他に記念グッズの販売や、ホテルの歴史を紹介する写真パネルの展示などを行うらしい。時生は目新しさはないなと思い、南雲はパンフレットの一部を指して訊ねた。
「この『館内アメージングツアー』というのは?」
「当ホテルの本館は、国の重要文化財に指定されています。内装にも歴史的価値の高いものが多いので、ガイド付きでお客様にご覧いただこうと考えています。ただ、それだけではありきたりなので、目玉になる仕掛けを加えるつもりです」
「どんな仕掛けですか?」
今度は時生が訊ねる。
「マイ企画さんにお任せしていて、『アメージングのタイトルにふさわしいものにしたい』と、案を練って下さっています」
「ふうん」と南雲は何か考えるような顔をしたが、時生は話を元に戻した。
「水上さんは一昨日の午後十時過ぎに、こちらで打ち合わせをするためにマイ企画を出たそうです。打ち合わせをされたのはどなたですか?」
どなた=生前の水上さんに会った最後の人物だな。そう考えつつスタッフたちに視線を巡らせたが、三人とも困惑したように顔を見合わせている。時生は訊ねた。
「どうされましたか?」
「打ち合わせの相手は、総支配人の折坂です。イベントの責任者で、プロジェクトチームのリーダーなんですが」
恩田が口ごもり、酒井と花江は目を伏せる。違和感を覚えたが表には出さず、時生はさらに問うた。
「折坂さんは今どちらに?」
「それが」
答えようとした恩田が、言葉に詰まる。場に気まずい空気が流れた矢先、「お待たせ」と声がして、通路をシェフコート姿の男が近づいて来た。男は腕に複数の皿が載ったアルミ製のトレイを抱えている。
「できた?」
酒井が目を輝かせ、他の二人も「おお」と声を上げる。男がトレイの皿を作業台に並べて立ち去り、三人はそれを取り囲んだ。時生も皿を覗くと、薄くスライスしたフランスパンにローストビーフやサーモンを載せたもの、ピザのようなもの、野菜を煮たものなどが盛り付けられている。
「これはアペロ用だね。アペロとはアペティリフの略で、日本では食前酒という意味合いが強いけど、フランスでは親しい人とお酒やおつまみを楽しむ時という意味に使われる」
作業台の前に立って料理を見回し、南雲が言った。感心したように、酒井が返す。
「よくご存じですね。イベントのオープニングパーティでお出しする料理の試作品です。パーティは立食なので、気楽に食べられるものをと思って。でも、何か物足りない気がして悩んでいます……召し上がりますか?」
「もちろん」
待ち構えていたように答え、南雲は酒井が差し出すフォークを受け取り、襟元に白いナプキンを押し込んだ。「ちょっと」と時生はその腕を引いたが、南雲は構わず左手で握ったフォークを料理の皿の一つに伸ばした。そこにはスライスしたタコと野菜を和えた、マリネのようなものが盛り付けられている。
ああ、この人は左利きだったな。とっさに時生が思った直後、南雲は料理を頬張り、目を見開いて言った。
「これ、おいしい!」
その様子に酒井たちが笑い、時生は焦る。が、南雲は口の中のものを咀嚼しながらさらに言った。
「真ダコの歯ごたえと、アンチョビの風味が最高。ワインが欲しいな。ロゼ……いや、辛口の白か。シャブリのグラン・クリュ、ブーグロの二○一七年ものとか?」
「いいチョイスですね。でもオープニングパーティでお出しするには、予算オーバーかな」
花江が少しおどけた口調で返し、酒井と恩田が笑う。口の中のものを飲み込み、南雲は続けた。
「何か物足りないと言っていたけど、スイカのサラダはどうですか? 昔ノルマンディーで食べたんだけど、スイカとカマンベールチーズをスプーンで丸くくりぬいて、ドレッシングで和えるだけ。簡単だし、見た目も涼しげでしょ」
この敬語にタメ口が交ざる話し方。昔と同じだ。時生はうんざりし、恩田と花江もきょとんとする。しかし酒井は、
「そのアイデア、いただきます。すごくいいです」
と興奮気味に言い、「ありがとうございます」と一礼した。「それは何より」と微笑み、南雲はフォークをテーブルに置いて酒井たちに向き直った。
「で、折坂さんって何者?」
「このホテルの創業者の孫です。二カ月前に先代の総支配人が体調を崩して入院したので、その長男の真守が跡を継ぎました」
サラダの件で恩を感じたのか、酒井が答える。チャンスだと判断し、時生は口調を砕けさせて訊ねた。
「御曹司ってやつですね。そういう人がリーダーだと、やりにくいこともあるんじゃないですか?」
「ええまあ。愛想はいいし、それなりに意見も言ってくれるんですけど、すぐにいなくなっちゃうし、連絡が付かないことも多いんですよ」
恩田も言う。口調と表情に不満が表れている。
「それは困りますね」
時生が苦笑すると、「ええ」と花江が頷いた。
「他のスタッフも困ってます。実質このホテルを仕切っているのは、総支配人じゃなく、副支配人の羽場さんですよ」
「そうでしたか」
相づちを打ちながら、時生は胸がざわめくのを感じた。
酒井と花江が職場に戻ると言うので、しばらくして厨房を出た。見送りに付いて来た恩田と三人で、もと来た道を戻る。ホテルの玄関を出て階段を下りていると、太く低いエンジン音が聞こえた。顔を上げた時生の目に、本館前の坂を上って来る濃紺のクーペが映った。国産のスポーツカーで、エンジンや足回りをかなりチューンナップしているようだ。
「折坂です。カーマニアで、他にも三、四台持っています」
恩田がそう囁いた直後、青いクーペは駐車場に入って停まった。「あの駐車場って、お客用だよね?」と問いかけた南雲に恩田は、「ええ」と眉をひそめて頷いた。
「万事あんな感じで。何とかしっかりさせようと、先代がお見合いをさせて婚約したんですけどね」
「へえ。相手は?」
「老舗の食器メーカーのご令嬢です。一廻り年下で、折坂にダイエットさせたり服装を変えさせたりしてるとか」
そう囁いた直後、恩田はこちらに歩いて来る折坂に「おはようございます」と声をかけた。「遅れてごめん。ジムのシャワー室が混んでて」とにこやかに応えた折坂は、三十五、六歳。背が高く顔立ちも整っているがややメタボで、身につけた黒いジャケットと白地に青のボーダーカットソーは、腹回りがきつそうだ。通路に下り、恩田は告げた。
「こちらは、楠町西署の小暮さんと南雲さん。水上さんの事故の捜査にいらしたそうです」
「それはどうも。折坂と申します」
真顔に戻り、折坂はジャケットのポケットから名刺入れを出して時生と南雲に名刺を渡した。それを手に、時生は訊ねた。
「一昨日の夜、水上さんと会われたそうですね」
「ええ。イベントのポスターの打ち合わせで、バックヤードで話しました」
「それは何時から何時まで?」
「十時半から十一時半ぐらいかなあ」
「そうですか。その時、水上さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「特には。お疲れだなとは思いましたけど、いつも通り手際よく応対してくれました。水上さんにはとてもよくしていただいていたので、残念です」
ため息をついて俯き、折坂はまだ少し濡れている髪に手をやった。
11
聞き込みの結果を村崎に報告するために、時生は南雲と楠町西署に戻った。駐車場にセダンを停めて降りると、隣のスペースにも白いセダンが停まった。運転席には剛田、助手席には井手が乗っている。
「お疲れ様です」
降車する二人に声をかけると、井手が言った。
「おう。お前の読み通り、本宮俊吾には何かありそうだぞ」
「と言うと?」
「クラブで飲んでいたというアリバイだが、仲間はその通りだと認めた。だが、防犯カメラの映像などの物証はない」
やり取りしながら通用口に向かった。その後ろを、何やら談笑しつつ南雲と剛田が付いて来る。
「本宮に頼まれ、口裏を合わせた可能性がありますね」
「ああ。で、改めて本宮を聴取するつもりでやつのセレクトショップに行ったんだが、閉まってた。自宅にもいねえし、携帯も通じねえ」
「飛んだってことですか?」
時生が驚くと、井手はネクタイを緩めながら「だろうな」と頷いた。飛んだとは警察の隠語で、行方をくらましたという意味だ。午前十一時前だが曇天で蒸し暑く、梅雨入りが近いことを感じさせる。井手が続けた。
「お前らと会った時、本宮は水上さんと先週別れたと言ったんだろ? で、マンションの管理人の話じゃ、水上さんは十一日前の夜、部屋で男と言い争っていた。となると、言い争いの相手は本宮と考えるのが自然だ。別れる時に何かあって、水上さんを恨んでいたんじゃねえか? 事故の裏には、本宮がいるってセンもあり得るぞ」
「ええ。でも水上さんの事故を報せた時、本宮は本気で驚いてショックを受けていたんですよね……今朝、お願いした件は?」
「水上さんのマンションの見張りか。取りあえず、地域課に本宮の情報を伝えてパトロールを強化するように言ったが」
その時、バタバタと足音がして通路の向こうから刑事が一人走って来た。
「地域課から連絡があって、水上さんのマンションに本宮が現れたそうです」
井手を見て、時生は「行きましょう」と身を翻した。驚き、南雲と剛田が話をやめる。
井手たちほか数人の刑事と、昼顔町五丁目に急行した。マンションの手前の路上にセダンを停め、みんなで降りていると、地域課の警察官が駆け寄って来た。
「捜査対象者は十五分ほど前に一人で現れ、マンションに入りました。キャップをかぶり、周囲を窺うような様子がありました」
後方のマンションを振り向き、緊張の面持ちで報告する。時生たちの間にも緊張が走り、井手が命じた。
「課長には、ここに向かう途中で報告した。任意で本宮を引っ張るぞ」
「はい」
時生たちは応え、井手を先頭に通りを進んだ。マンションの前まで行くと再び井手の指示が下り、井手と剛田はエレベーターで、時生と南雲は階段で水上の部屋に向かい、残りの数人はマンションの裏を固めることになった。地域課の警察官は通りで待機だ。
時生は周囲を窺い、足音を忍ばせてマンションの建物前の通路を進んだ。住人の大半が学生と単身の勤め人らしく、敷地内はしんとして人影もない。螺旋状の階段の前に着くと、南雲が口を開いた。
「僕はここにいるよ」
「はい?」
「僕は、ここにいた方がいい気がする」
「『いい気がする』って」
唖然とした時生だが、言い合っているヒマはない。「何かあったら報せて下さい」と告げ、階段を上り始めた。三階まで行き、先に着いて廊下を窺っていた井手と剛田に合流する。と、前方でがちゃりと音がして、三○八号室のドアが開いた。姿を現したのは、黒いキャップを目深にかぶった男。本宮俊吾だ。緊張しつつも平静を装い、時生は声をかけた。
「こんにちは」
「ああ、刑事さん」
そう返し、本宮はドアを閉めて廊下を時生の方に歩いて来る。黒いTシャツにデニムのハーフパンツという格好で、肩には昨日と同じリュックサックをかけている。
「今日はどうされました?」
時生も歩きだしながら問い、本宮は「えっ?」と訊き返して立ち止まった。目の前に時生が着いたとたん、本宮はリュックサックをぶつけるようにして体当たりをしてきた。顔面と胸に衝撃が走り、時生は廊下の傍らに飛ばされた。その隙に、本宮は廊下を走る。
「本宮!」
何とか踏みとどまり体勢を立て直した時生の目に、井手が伸ばした手を逃れ、剛田を突き飛ばして廊下を進む本宮の姿が映る。そのまま、本宮は階段に駆け込んだ。
「おい!」
時生も怒鳴り、急いで階段に飛び込んだ。コンクリート製のステップを下りながら急カーブを描く手すり壁越しに下を覗く。
「南雲さん!」
「了解!」
時生を見上げ、階段の下にいる南雲が親指を立てた。本宮はあっという間に階段を下りきって、通路に出た。その前に、南雲が立ちはだかる。通せんぼをするように両手を広げているが、微妙に腰が引けている。階段を駆け下りながら時生が見ていると、本宮は「どけ!」と怒鳴って南雲の脇を抜けようとした。体の向きを変えて手を伸ばし、南雲は本宮が肩にかけたリュックサックの上部を掴んだ。
「離せ!」
さらに怒鳴り、本宮はリュックサックを手前に引いた。しかし南雲はもう片方の手も伸ばし、リュックの側面を掴んだ。二人はリュックサックの引っ張り合いになり、時生はそれを横目で見ながら階段を下りきった。と、本宮がショルダーベルトから腕を抜いてリュックサックを捨て、走りだす。
「待て!」
時生も必死に追いかける。前方には、高さ二メートルほどのフェンスがそびえている。しかしフェンスをよじ登って逃げるつもりか、本宮は足を緩めない。
そうはさせるか。強い思いにかられ、時生は走りながら目の端で後ろを窺った。が、当然一緒に本宮を追っていると思った南雲の姿はない。うろたえたが頭を切り替え、時生は足を速めた。本宮の背中が近づき、時生は手を伸ばして本宮の片腕を掴み、足を踏ん張って立ち止まった。その勢いで、本宮も体をのけぞらせるようにして立ち止まる。
チャンス。時生は本宮の片腕を手前に引き、同時にもう片方の腕を本宮の首の下に廻して締め上げた。喉の奥で声を漏らし、本宮がその場に仰向けで倒れる。時生は本宮の腕から手を離し、腰のホルダーから手錠を抜き取った。そして、
「本宮俊吾。公務執行妨害で逮捕する」
と告げ、その手首に手錠をかけた。同時に井手と剛田が駆け付け、時生は二人に後を任せて通路を戻った。
南雲は階段の脇にいた。時生に背中を向けてかがみ込み、地面に置いた本宮のリュックサックの中を覗いている。
「何してるんですか」
腹立たしさを抑えて声をかけると、南雲はくるりと振り向き、白手袋をはめた手で何かを掲げた。見れば、英文字のストリートブランドのロゴが入ったウエストポーチだ。
「よくできてるけど、コピー商品。偽物だよ。こっちも同じ」
そう続け、南雲はリュックサックを掴んで立ち上がった。開いた口からリュックサックの中が見え、そこには昨日水上の部屋で見たストリートブランドのキャップと置き時計、ペンケースが入っていた。
12
眼差しを鋭くし、井手は身を乗り出した。
「じゃあ、お前はコピー商品を回収するためにあの部屋に行ったのか?」
「はい」
ぶっきら棒に、本宮は答えた。机を挟み、井手と向かい合って座っている。
「この商品は、きみが自分のセレクトショップで販売するために仕入れたものでしょ? 水上さんには、本物だと偽ってプレゼントしたの?」
小首を傾げ、友だちと話すような口調で剛田も問う。井手の脇に立ち、本宮を見下ろしている。「この商品」とは机上に並んだジップバッグで、中にはウエストポーチとキャップ、置き時計、ペンケースが入っている。
本宮は無言で頷き、井手は体を起こした。横を向き、傍らの壁に取り付けられた鏡を見てため息をつく。鏡はマジックミラーなので、その向こうにいる時生たちへの合図だ。
コピー商品の販売は商標法違反や詐欺などにあたる犯罪だけど、担当は刑事課じゃなく生活安全課。犯人もセイアンに引き渡すことになるし、「骨折り損のくたびれもうけだ」とでもグチりたいんだろうな。マジックミラー越しに井手を見返し、時生は推測した。
時生たちは逮捕した本宮を連れ、楠町西署に戻った。すぐに井手と剛田が刑事課の取調室で本宮の聴取を始め、時生たちはその様子を隣室のマジックミラー越しに眺め、天井のスピーカーから音声を聴いた。時刻は間もなく午後四時だ。
ふて腐れた様子の本宮だったが、聴取には素直に応じた。それによると、本宮は今回押収したもの以外にも有名ブランドのコピー商品を国内外から仕入れ、本物と偽ってセレクトショップで販売していたそうだ。水上と交際していて別れたのは事実で、時生たちと最初に会った時は、水上の部屋の私物を持ち帰り、カギを返すつもりだったという。しかし水上が亡くなったと知り、贈った品から自分の罪が発覚するのではと焦りが湧いた。そこで身を潜め、コピー商品を回収しようとマンションの部屋に行ったらしい。
ふと気配を感じ、時生は隣を見た。両手で抱えるようにスケッチブックを持った南雲が、穴の絵を眺めている。後ろに立つ村崎と藤野を気にしながら、時生は訊ねた。
「その絵。まだ持ってたんですか?」
「もちろん。この穴は、今回の事件の謎を解くヒントだからね」
「そうは思えませんけど」
呆れて時生が返した時、藤野に問いかけられた。
「水上さんの事故発生時、本宮はコピー商品の保管用の倉庫にいたんだって?」
「ええ。倉庫の防犯カメラで裏も取れました。コピー商品の件がバレてしまうので、僕の質問に仲間と飲んでいたと答えたんでしょう」
「水上さんの死を報せた時、本宮に焦る様子があったというのも、コピー商品の件が原因でしょう。小暮さん、よく気づきましたね」
村崎も言い、メガネのレンズ越しに時生を見た。体を反転させ、時生は一礼した。
「ありがとうございます。しかしこれで本宮のアリバイは立証されたし、水上さんの事故との関係は薄そうです」
「まだわからないぞ……気づいたと言えば、南雲もすごいな。さっき専門家に確認してもらったが、『ぱっと見は本物と区別がつかない』と話していた」
マジックミラー越しに机上の品を指し、藤野が話を変える。
「本庁では、コピー商品関連犯罪の捜査にも関わっていましたから。何より、偽りの美は美ではありません」
薄く微笑み、南雲はそう応えた。最後のひと言の意味がわからなかったのか藤野は訝しげな顔をしたが、時生ははっとして南雲に向き直った。
「ひょっとして昨日水上さんの部屋を見た時点で、ブランドアイテムがコピー商品で、それに本宮が関与していると気づいていたんですか?」
問いかけながら、南雲が水上の部屋の棚を眺めていたこと、本宮のアリバイの裏取りに行こうと提案した時生に「気が乗らないなあ」と返したことを思い出す。すると南雲はあっさりと答えた。
「うん。廊下で会った時に本宮が持っていたリュックサックも、コピー商品だったからね」
「だったら教えて下さいよ。二人で動く以上は、協力し合ってルールを遵守しようと言ったでしょう」
「言ったのは小暮くんで、僕じゃないよ」
またあっさりと返され、時生は腹立たしさを覚えた。さらに言い返そうとした矢先、天井のスピーカーから本宮の声が聞こえた。
「だからさっきも説明したでしょう。結芽とは別れたけど、揉めてない。ノリで付き合ってただけで、お互い本気じゃなかったんです」
こちらがやり取りしている間も聴取は続いていて、本宮と井手が睨み合っている。
「だが十日くらい前の深夜、お前は水上さんと言い争いをしただろう。マンションの住人から苦情が出ていたぞ」
「俺じゃない! 別れる前から、結芽には新しい男がいたんだ。連絡が取りにくくなったり、態度がよそよそしくなったりしてたから、間違いない」
いきり立ちながらも本宮が主張し、井手はまたマジックミラー越しに時生たちを見た。険しい顔をしているが、ぎょろりとした目には戸惑いの色が浮かんでいる。
新しい男? 時生も戸惑いを覚えた矢先、部屋のドアがノックされた。村崎が「はい」と応え、開いたドアから一人の刑事が顔を出した。
「本宮の店と倉庫を捜索したところ、大量のコピー商品が見つかりました。念のため水上さんの部屋も鑑識に調べてもらったんですが」
刑事はそこで言葉を切り、「どうした?」と藤野が促す。すると、刑事はこう続けた。
「室内からは三種類の指紋と毛髪が検出され、そのうちの二種類は水上さんと本宮のものだと判明しました」
「残りの一種類は? 誰の指紋と毛髪なんだ?」
「不明です。誰のものか、わからないそうです」
刑事が答え室内に緊張が走った直後、時生の胸がざわめく。同時に今朝のホテルカシェットで聞き込みした時の記憶が蘇る。気がつくと、時生は片手を上げていた。
「それは、この人のものかもしれません」
その言葉にみんなの視線が動き、時生は手を下ろしてスーツのジャケットのポケットを探った。
13
取調室の机に写真を二枚並べ、時生は顔を上げた。
「どちらも水上結芽さんの自宅マンションから採取された指紋です。これはバスルームのドアのレバー」
そう告げて、写真の一枚を指す。写っているのは白いドアに取り付けられたステンレス製のレバーで、その側面にはアルミニウムの粉末で黒く浮き上がった指紋が付着している。
「こちらはテレビのリモコン」
もう一枚を指し、時生は告げた。こちらも写っているのは黒い指紋で、白いリモコンの裏側に付着している。
「そしてこれが、あなたの指紋。昨日お会いした時にいただいたものから採取しました」
時生は言い、写真の横にジップバッグを置いた。ジップバッグの中身は名刺で、「ホテルカシェット 総支配人 折坂真守」としゃれた書体で印刷されている。ぎしっと椅子を軋ませ、向かいの折坂が身を乗り出した。
「何かの間違いです。水上さんとは仕事の付き合いだけで、自宅に行ったことはない」
自分の前に置かれたものには目を向けずに主張する。「なるほど」と返し、時生は机の端に置いたファイルから書類を出した。
「では、これも何かの間違いですか? 水上さんのマンション前の通りに設置された防犯カメラの映像です。マンションの管理人に確認しましたが、この映像が録画されたのは、水上さんの部屋から男女の言い争う声が聞こえたのと同じ夜です」
表情を動かさずに説明し、ジップバッグの横に書類を置く。防犯カメラの映像を印刷したもので、薄暗い上にモノクロだが、通りの端に停まった濃紺のクーペは折坂のもので、ナンバーも一致する。目を見開き折坂が何か言いかけたが、時生は話を続けた。
「さらに、あなたの自宅マンションの住人が、あなたの部屋に出入りする水上さんを見たと証言しています。いま、マンション内の防犯カメラの映像も解析中です」
すると折坂は絶句し、時生は目の端で後ろの様子を窺った。南雲はさっきから無言で、スケッチブックを抱えてドアの脇に置かれた机に寄りかかって立っている。
昨日、時生が提出した名刺は楠町西署の鑑識係に廻された。間もなく、名刺に付着した指紋は、水上の自宅から検出されたものと一致すると判明。そこで村崎の指示のもと、刑事たちは折坂を洗った。その結果、疑いが強まったので一夜明けた今朝、任意同行を求めた。息を吐く気配があり、時生は視線を前に戻した。折坂はしゃれた白いシャツに包まれた肩を落として俯いている。
「……わかりました。認めます。確かに僕は、水上さんと付き合っていました」
やっぱりか。昨日ホテルカシェットで感じたざわめきの正体は、これだったんだな。そう確信し、時生は質問を始めた。
「いつ頃から? どういうきっかけで?」
「ひと月ぐらい前です。水上さんは才気溢れる人でコミュニケーション能力も高いので、『今の会社じゃもったいない。大手に移るか、独立したら? 力を貸すよ』と話したんです。そうしたら水上さんは『独立したい』と言って、相談に乗っているうちに、つい」
「ふうん」
後ろで南雲が言い、時生は振り向こうとした。と、折坂はこう続けた。
「もちろん、僕に婚約者がいることは伝えました。水上さんは、『構わない。でも、独立したらホテルカシェットの仕事は私に発注して』と言い、僕は承諾したんです。ところが最近、『私を選んで』と言うようになって、ケンカが増えていました」
本宮の話といい、水上さんは恋愛には深入りしないタイプだったのかもな。でも仕事、とくに独立が絡むとなれば話は別だ。折坂が結婚するなり、別の女ができるなりすれば仕事の発注もどうなるかわからない。だから「私を選んで」となったんじゃないだろうか。そうよぎり、時生の頭に水上の顔が浮かんだ。と、折坂が顔を上げた。
「ひょっとして僕は疑われているんですか? 何もしていませんよ。そもそも、水上さんは事故で亡くなったんでしょう?」
戸惑いと焦りが入り交じった口調で訴える。壁の時計が午前十一時近いのを確認し、時生は「休憩しましょう」と告げた。
後を剛田に任せ、時生は取調室を出た。廊下を歩きながら隣の南雲に意見を聞こうとした矢先、「小暮さん」と呼ばれた。見ると、廊下の先にホテルカシェットの恩田と花江、酒井、さらにマイ企画の日高がいた。
「やあ。お揃いでどうしたの?」
嬉しそうに手を振り、南雲が恩田たちに駆け寄る。会釈して、時生も続いた。
「刑事さんに呼ばれたんです。折坂のことを、あれこれ訊かれました」
困惑したように恩田が言い、花江と酒井も口を開いた。
「折坂もここに呼ばれたんですよね?」
「水上さんの事故と、関係があるんですか?」
三人とも制服ではなく、Tシャツやポロシャツにジーンズとラフな格好だ。みんな、折坂と水上さんの関係を知らなかったのか。そう察しつつ、時生は答えた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません。ところで、一昨日の午前零時過ぎにはどうされていましたか? ただの確認で、関係者の方全員に伺っています」
「僕はホテルの従業員寮に住んでいて、その時間は寮で寝ていました」
まず恩田が答え、花江も続く。
「僕も同じ寮に住んでいて、風呂に入ってたんじゃないかな」
「私はホテルの厨房で、料理の試作をしていました」
最後に酒井が答え、時生は「わかりました」と頷いて視線を三人の後ろに移した。
「日高さん。ちょっといいですか?」
「はい」
頷き、日高が進み出て来た。ゆったりしたつくりの黒いワンピースを着ている。時生は日高と廊下の隅に移動し、酒井たちの前には南雲が進み出て「この間のオープニングパーティのメニューなんだけど」と話しだす。時生は質問を始めた。
「水上さんから独立の話を聞いたことはありますか?」
「一度もないです。水上さんは独立するつもりだったんですか?」
驚いて目を見開き、日高が訊き返す。
「水上さんと、そういう話をした人がいます」
「人って……ひょっとして、折坂さん? 水上さんと付き合っていたんでしょう?」
「知ってたんですか?」
「確認した訳じゃないけど、なんとなく。一昨日、最近水上さんは悩んでる様子だったと言いましたよね。あれは、折坂さんが開業五十周年イベントのプロジェクトチームのリーダーになってからなんです。いつも明るかった水上さんが、暗い顔をするようになって」
腹立たしげにそう説明した日高だったが、「でも、独立なんて」と呟き、呆然とする。慌てて、時生は返した。
「事実と決まった訳じゃありませんから。それより、一昨日の午前零時過ぎにどうされていたか教えて下さい」
「会社で仕事をしていました」
「一人で?」
「ええ。でも、零時ちょっと前にバイク便の配達員が来ました。デザイナーさんからの荷物を届けてくれたんですけど手が離せなかったので、玄関先に置いて帰ってもらいました」
「わかりました。ありがとうございます」
そう告げて時生が会釈した時、刑事が日高と恩田たちを呼びに来た。日高と恩田たちは刑事について行き、時生はジャケットのポケットから手帳とペンを出して聞いた話をメモした。と、「小暮」とまた名前を呼ばれ、顔を上げると井手が廊下を駆け寄って来た。
「水上さんの車から、折坂の指紋が検出されたぞ。しかも前輪のブレーキキャリパー。ブレーキの作動に影響を与えるパーツだ」
「ホテルカシェットの従業員が、折坂はカーマニアだと話していました。まさか」
そう応えた時生の頭に、昨日の恩田とのやり取りと折坂の愛車が浮かぶ。「ああ」と頷き、井手はさらに言った。
「折坂は水上さんと別れるつもりだったんだろう。だが水上さんは聞き入れず、関係を公にするとでも迫ったんじゃねえか? で、追い詰められた折坂は水上さんの車のブレーキに細工し、それが原因であの事故が起きた。これが俺の読みだが、どうだ?」
「あり得ますね。水上さんの車は?」
「破損がひどいが、本庁の科捜研に徹底的に調べさせる。俺らは折坂を洗い直すぞ」
力強く告げ、井手は踵を返す。時生も続こうとした矢先、南雲が口を開いた。
「それはどうかなあ」
その言葉に井手が足を止めて振り向き、時生はぎょっとする。井手は問うた。
「俺の読みに異論があるんですか?」
「ええ。関係が公になれば、水上さんがホテルカシェットの仕事を失う可能性も高くなりますよ。本末転倒だし、野心家で頭もいい水上さんがそんなことを迫るかな」
その敬語とタメ口が交ざった話し方に、時生は苛立つ。しかし、井手の顔が険しくなったのに気づき、苛立ちは焦りに変わった。井手が言う。
「そうですか。では、南雲警部補はこの事件をどうお考えですか?」
「よくぞ訊いてくれました……この絵なんだけどね」
いそいそと、南雲は抱えていたスケッチブックを開いた。時生は急いで告げた。
「南雲さんの考えは、僕が聞いて後で報告します。井手さんは折坂を洗って下さい。捜査は時間との闘いだって、前に教えてくれたでしょう」
「わかった」
納得がいかない様子ながらもそう応え、井手は廊下を戻って行った。ほっとした時生だが、顔を上げた南雲に「あれ。井戸さんは?」と問われ、苛立ちが蘇った。
「井手さんです。穴の絵を人に見せるのは禁止と言いましたよね?」
「だって訊かれたから。僕の考えを説明するのに、この絵は不可欠だよ」
「穴が怒りとパトスの象徴とかいうやつですか? だったら意味不明です。わかりやすく説明して下さい」
そう迫ると、南雲はスケッチブックを閉じて答えた。
「殺人事件の犯人が交際相手で、動機は痴情のもつれって月並みじゃない? 何より、折坂真守が水上結芽を交通事故に見せかけて殺害したという読みは、美しくない」
その自信たっぷりな口調に、この三日間で時生の胸に溜まった不満と苛立ちが一気に膨らみ、爆発した。
「ふざけないで下さい!」
と声を上げると南雲が驚き、廊下にいる署員たちも振り向く。構わず、時生は続けた。
「月並みとか美しくないとか、人が亡くなっているんですよ。真剣に取り組む気がないなら、捜査を外れて下さい。あなたは十二年前と何も変わっていない。あの時だって」
言いかけてはっとし、時生は口を閉じた。気まずさと後悔、そして十二年前と同じ苦い思いが胸に押し寄せる。
「小暮くん。僕はいつだって真剣だし、どんな事件も心から解決したいと願っているよ」
そう言われ、時生は南雲を見上げた。すると南雲はさらに続けた。
「それに、レオナルド・ダ・ヴィンチはこう書き記してる。『穴を掘る者の上に、穴は崩れる』と」
たちまち時生は脱力し、それ以上やり取りする気を失う。南雲に背中を向け、その場を離れた。
14
翌朝八時半。楠町西署二階の刑事課の会議室で、捜査会議が開かれた。そこで刑事たちが昨日の捜査結果を報告し、折坂は水上の車のブレーキキャリパーに付着していた指紋について、「以前頼まれて整備をした」と主張していること、事故前、折坂と水上がホテルカシェットのバックヤードで打ち合わせをしたのは事実で、また以後の折坂の行動にはアリバイがないことなどがわかった。加えて時生も、恩田と花江、酒井は従業員寮とホテルの防犯カメラ、日高はバイク便の配達員の証言でアリバイが立証されたという昨日の午後の捜査結果を報告した。
折坂を重要参考人としてさらに捜査し、容疑が固まり次第、逮捕状を取るという村崎の言葉で捜査会議は終了し、刑事たちは会議室を出た。時生も続こうとすると、村崎に呼び止められた。
「南雲さんは?」
「昨日の昼前から、姿が見えないんですよ。電話やメールでも連絡が取れません」
もはやフォローする気は失せ、正直に答える。表情を動かさずに「そうですか」と返し、村崎はこう続けた。
「南雲さんも小暮さんも、優秀な捜査員です。しかし十二年前の一件もありますし、くれぐれも慎重に行動して下さい。十二年前のような事態は、繰り返してはなりません」
だったらなんで、僕がいる署に南雲さんを配属して、コンビまで組ませたんだよ。そう浮かび、時生は理不尽さを覚えた。しかし表には出さず、「はい」と返して一礼した。
15
「──という訳で、この場合はアイテムの大きさではなく、形に着目するべきだね。なぜなら人間には、似た形状のものが並んでいると、線上に繋げて認識する習性があるんだ」
そう告げて、南雲は背後のホワイトボードを振り返った。下のトレイに置かれたペンを取ってホワイトボードに大きさの異なる丸を五つ、緩やかにカーブさせて描いた。近くのテーブルに着いた恩田、花江、酒井がそれを見守っている。描き終えた五つの丸を「たとえばこんな感じ」と指し、南雲は前に向き直った。
「そしてこれを効果的に使っているのが、フアン・サンチェス・コタンの絵画、『マルメロの実、キャベツ、メロン、胡瓜』──はい、検索して」
手前に座った恩田を促す。「はい」と返し、恩田は自分の前に置いたノートパソコンのキーボードを叩いた。間もなく、ホワイトボードの隣の壁に取り付けられたモニターに、一枚の油絵の写真が転送された。背景は黒で、手前に薄茶色の棚のようなものが描かれ、そこに紐で吊されたマルメロの実とキャベツ、棚板の上に置かれたメロンとキュウリが高さを少しずつ変え、ほぼ等間隔で並んでいる。メロンは三分の一ほどが切り取られて切り口が露わになり、傍らにその一切れが置かれていた。
「確かにそれぞれの野菜や果物は大きさも形も違うのに、一つの繋がったものに感じられますね」
恩田の隣に座った花江が感心し、向かいの酒井も頷く。
「それに自然に左上から下、つまりタイトル通りマルメロ、キャベツ、メロン、キュウリの順に眺めちゃいます」
「その通り。それは視線誘導、リーディングラインといって、絵画の技法の一つなんだけど、長くなるから解説はまたの機会に」
そう告げて南雲が話を切り上げると、恩田が言った。
「ありがとうございます。今のお話を参考に、展示の方法を再検討します」
「南雲さんには、何度も助けていただいて。お陰でやる気が湧きました。がんばります」
目を輝かせて酒井も言い、花江が頷く。満足し、南雲は「それは何より」と微笑んだ。
今朝は楠町西署には出勤せず、ホテルカシェットに来た。フロントで警察手帳を見せ、恩田たちの名前を告げるとバックヤードのこの部屋に案内された。小さな会議室で、ここが開業五十周年イベントのプロジェクトチームの拠点らしい。室内には恩田、花江、酒井が顔を揃えていたが、様子がおかしい。聞けば、ホテルの従業員たちの間で折坂と水上の関係、さらに水上の死に折坂が関わっているのではという噂が広まっているという。それを受け、恩田たちもこのままイベントの準備を進めていいのか、中止もあり得るのではと不安になっていたらしい。
そこで南雲はイベントの準備の進行状況を確認し、ホテルの歴史を紹介する展示で、キーとなるアイテムの配置をしていたと知った。さらにアイテムが掛け時計、料理の載った皿、花壇と丸い形のものが多いとわかったので、絵画の表現技法を活用した配置法をアドバイスした。
「でも、こんなところにいていいんですか? さっきから何度もスマホが鳴ってますよね」
恩田が言い、南雲のジャケットのポケットに目を向ける。手を横に振り、南雲は返した。
「大丈夫。気にしないで」
スマホには既に十件近い電話とメッセージの着信があり、発信者は全て時生だ。昨日の発言の何がいけなかったのかは不明だが、時生を怒らせたのは確かで、「美しくない」はともかく、「月並み」は言葉の選択を誤ったと思う。なので事件解決の糸口を求めてここに来たのだが、今のところこれといった収穫はない。
酒井が立ち上がり、ステンレス製のポットから紙コップにコーヒーを注ぎながら言った。
「私たちは南雲さんにいてもらえて大助かりですけど。夕方、日高さんが打ち合わせに来るので、いただいたアイデアを伝えたら喜ぶと思います」
「そう」
南雲は返し、テーブルに歩み寄って紙コップを受け取った。テーブルの上にはイベントのパンフレットやチラシの他、たくさんの書類と写真、グッズの試作品などが置かれている。コーヒーを飲みながらそれを眺めていると、あるものが目に付いた。
「あれは?」
テーブルの奥を指す。「これですか?」と、花江が差し出した三枚の書類を南雲は受け取った。
CGのイラストを印刷したもので、それぞれにイルカとキリン、ドラゴンが描かれている。三点とも胴体をくねらせたり、首を伸ばしたり、口から火を吐いたりと躍動感のある構図で、無背景だが体の下に影が描かれていた。
デッサンは正確だし、構図はダイナミック。イルカの皮膚やキリンの毛、ドラゴンのウロコの質感もリアルに描かれているが、オリジナリティーは皆無。南雲がそう分析していると、酒井の声が耳に届いた。
「それ、いいでしょう? 先月マイ企画で打ち合わせした時、イベントの書類に紛れ込んでいたんです。『いたずら描きなの。恥ずかしい』ってすぐ日高さんに回収されちゃいましたけど、すごく巧くて迫力もあるし、飛び出して来そうなくらいリアルですよね。何かに使えるかもと思ってこっそりスマホで写真を撮ったんです」
「ふうん」
相づちを打ち、南雲はイラストを見直した。
その直後、南雲の頭の中に水上の事件の捜査を通じて会った人たち、聞いた話がフラッシュバックされた。続けてある閃きがあって大きな衝撃が走り、頭の中が真っ白になる。
と、そこに傍らからあるものが現れた。螺旋状の骨組みに白い布を張ったスクリューの下に、それを回転させるためのレバーが並んだ軸と円形の土台が接続された装置。偉大なる芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチの手によるスケッチにある空飛ぶ機械、通称「空気スクリュー」だ。イラストに影響されたのか、スケッチの空気スクリューはCG化され、スクリューを回転させて南雲の頭の中を悠然と横切り、くるりと方向転換してどこかに飛び去った。
とたんに閃きは確信に変わり、南雲は知らず閉じていた目を開けた。その目に、驚いて自分を見ている恩田と花江、酒井の顔が映る。「大丈夫ですか?」という酒井の問いに南雲が答えようとした時、会議室のドアがノックされた。「はい」と恩田が応え、ドアが開く。顔を出したのは時生で、視線がぶつかるなり言う。
「南雲さん。捜しましたよ」
「小暮くん、見つけたよ。今回の事件の謎を解くカギをね」
そう告げると気持ちがはやり、自然と笑みが浮かんだ。
16
顔を上げ、時生は首のネクタイを少し緩めた。鉄製のベンチに座って片手でペットボトルのミネラルウォーターを飲み、もう片方の手でスマホを取って画面を見た。しかし南雲からの着信はなく、デジタル時計が示す時刻は「15:44」。
ここはホテルカシェットの敷地内にある庭園の温室だ。ドーム型の屋根も壁もガラス張りで、室内には花壇が設えられ、さまざまな植物が葉を茂らせ、花を咲かせている。外は曇天で屋根と壁にいくつかある窓は全開になっているので、そう暑くはない。しかし焦りと苛立ちを覚え、時生は立ち上がって花壇の間の通路を進んだ。突き当たりのドアを開けて外を眺める。
温室は庭園の奥にあり、周りにはバラやアジサイなどが植えられた花壇と小さな池、図形や動物の形に刈り込まれた立木があり、その間を縫ってレンガ敷きの入り組んだ通路が走っている。平日なので散策する客がまばらな庭園に、南雲の姿はない。
今日は捜査の傍ら南雲に何度も連絡したが、つかまらなかった。そこで心当たりの場所にいくつか出向いたところ、ホテルカシェットにいた。しかし南雲は「戻ったら全部説明するから、温室で待ってて」と告げ、どこかに行ってしまった。仕方なく、時生は恩田を通じて温室で待機する許可をもらいここに移動したが、一時間経っても二時間経っても南雲は戻らず連絡もない。途中、電話で村崎に状況報告をしたところ、「南雲さんに問題を起こさせず、署に連れ帰って」と命じられた。
やっぱり、あの人はまともじゃない。そう確信する一方、さっき事件の謎を解くカギを見つけたと自分に告げた時の南雲の目を思い出す。あの目をした時、南雲が必ず結果を出すことは、コンビを組んでいた時の経験でわかっている。
南雲が戻って来たのはさらに三時間経過した、午後七時前だった。
「お待たせ」
明るくそう告げ、温室の中の通路を歩み寄って来る。黒い三つ揃いのスーツを着て表紙が深紅のスケッチブックを抱え、ジャケットの胸ポケットには青い鉛筆という、出かけた時と同じスタイルだ。ベンチから立ち上がり、時生は返した。
「待たせ過ぎですよ。どこで何をしてたんですか?」
「ごめんごめん。ついでにもう少し待って。ここに犯人を呼んだから」
軽いノリで答え、南雲は「あ~、疲れた」と言ってベンチに座った。時生はさらに問う。
「犯人って誰なんですか? まさかホテルの関係者? でも、恩田さんと花江さん、酒井さん、ついでに日高さんも事件発生時にはアリバイがありますよ」
「だろうね。とにかく、ひと息つかせてよ。これ飲んでいい?」
そう訊ね、南雲は返事を待たずにベンチに置かれたペットボトルの緑茶を取って開栓した。さっき時生が、ミネラルウォーターと一緒にホテル内で買ったものだ。埒があかないので、時生は通路をドアに向かった。と、後ろで南雲が言う。
「外に出ちゃダメ。ホテルのベーカリーに寄ってクロワッサンを買ったから、食べようよ。ここの名物なんだって」
言うが早いか、片手に持ったクロワッサンが二個入ったビニール袋を掲げて見せる。呆れ返った時生だが言いつけは守り、開けたドアから出ずに外を眺めた。陽は傾き、点ったばかりの外灯が樹木と通路を照らしている。
「なんで出ちゃダメなんですか? 外に何か」
そう問いかけ振り向こうとして、足音に気づいた。誰かが通路をこちらに向かって歩いて来る。時生が緊張したその時、通路の向こうで短い悲鳴が上がった。反射的に体が動き、時生は温室を出た。
入り組んだ通路を進むと、前方にカーブが現れた。大きく茂った植え込みに左右を囲まれ、見通しが悪い。速度を上げ、カーブを曲がった。その直後、視界にあるものが入り、時生は「うわっ!」と声を上げて立ち止まった。
通路のすぐ先に穴があった。大きく深く、中は真っ暗。落とし穴!? 南雲さんが掘ったのか? そうよぎった矢先に気配を感じ、時生は顔を上げた。穴の向かい側に女がいた。小柄で黒いパンツスーツをまとっている。
「日高さん。大丈夫ですか?」
そう声をかけると、呆然と穴を見ていた日高が顔を上げた。
「は、はい」
ほっとして、時生は改めて足下を見た。穴は歪みのない円形で、直径一メートルほど。しかし身を乗り出し、傍らの外灯の明かりに目をこらすと、穴の縁にはわずかな厚みがある。縁を掴み上げた時生の指先に、すべすべとした布地の感触が伝わってきた。
「これ、マットですよ」
そう告げて、時生はマットを捲った。裏側には、滑り止めのゴムが張られている。よく見れば穴の中の闇も、グラデーションを付けて印刷された黒いインクだ。が、日高は何も応えず、戸惑ったような顔で立っている。違和感を覚え、時生は体を起こした。すると、
「驚いた?」
と声がして後ろから南雲が姿を現した。スケッチブックを抱え、クロワッサンを食べながら来たのか、もぐもぐと口を動かしている。
「やっぱり南雲さんの仕業ですか。驚いたなんてもんじゃありませんよ」
時生は抗議した。口の中のものを飲み込み、南雲は言った。
「ごめんごめん。でもこれ、よく出来てるでしょ?」
そう訊ね、南雲は日高に微笑みかけた。時生も目を向けると、日高は訝しげに答えた。
「何か御用ですか? 私は恩田さんに、『南雲さんが呼んでるから温室に行って』と言われたから来たんですけど」
「えっ。じゃあ」
言いかけた時生に頷き、南雲はこう告げた。
「犯人は日高さん。水上さんに事故を起こさせた張本人だよ」
驚き、日高は何か返そうとした。それを遮り、南雲は話し始めた。
「不況の煽りを受けて、マイ企画の経営は厳しかったようですね。資金繰りにも行き詰まって倒産目前だったところに、ホテルカシェットの開業五十周年イベントの仕事が入った。この仕事で起死回生を図るつもりだったんでしょ? 調べさせてもらいました」
外出の目的はそれか。時生は悟り、南雲は話を続けた。
「ところがその矢先、あなたは水上さんと折坂さんが交際し、水上さんは独立するつもりだと知った。あなたは以前から、折坂さんに好意を持っていたんでしょう? 水上さんはそれに気づいていて、折坂さんに『私を選んで』と迫ったんだ。しかも水上さんは、今後のホテルカシェットの仕事まで持って行ってしまう。当然あなたは、必死で水上さんを引き留めたでしょう。しかし事態は覆らず、あなたは水上さんへの怒りを増幅させ、やがてそれは殺意に変わった。同時に折坂さんへの想いも、憎しみに変わったんだ」
「違います。私は折坂さんに好意なんて抱いていないし、水上さんが独立を考えていることも、昨日小暮さんから初めて聞いたんです。ましてや、殺意なんて」
ふるふると首を横に振り、日高は訴えた。それをなだめるように南雲は「まあ、最後まで聞いて」と返し、さらに語った。
「心を決めたあなたは、『開業五十周年イベントが終わるまでは辞めないで』とでも言って水上さんを説得したんでしょう。水上さんはそれを受け入れ、四日前の夜、あなたは水上さんがホテルカシェットに行くように仕向けた。そして、あらかじめ盗んでおいた水上さんのスマホのアカウントとパスワードを使い、ノートパソコンで位置情報アプリにログインして水上さんの動きを見張ったんです。そうとは知らない水上さんは、折坂さんとの打ち合わせを終えてホテルカシェットを出た。同時にあなたも、会社のワンボックスカーで出発。防犯カメラの設置されていない道を選んで葉牡丹町二丁目に向かい、目立たない場所にワンボックスカーを停めた。ホテルカシェットから水上さんの自宅マンションに行くには、事故現場を通ると近道になると知っていたからです」
そこで南雲が言葉を切り、時生は日高を見た。眉根を寄せ困惑した様子の日高だが、黙って話を聞いている。と、南雲が話を再開した。
「ノートパソコンで動きを追っていると、予想通り水上さんは事故現場に近づいて来た。水上さんの前後に他の車がいないのを確認し、あなたはワンボックスカーを降りた。で、事故現場のカーブに、この穴の絵が印刷されたマットを敷いたんです」
再び言葉を切り、南雲はスケッチブックを開いて掲げた。時生と日高が同時に目を向けると、そこには南雲が描いた穴の絵があった。
「だから、その絵は」
咎めようとした時生を無視し、南雲はスケッチブックを閉じて口を開いた。
「マットを敷き終えたあなたが物陰に隠れた直後、水上さんの車がカーブを曲がって来た。穴に驚いた水上さんは車のハンドルを切り損ね、崖から転落した。それを見届けたあなたは、マットを回収するために物陰から出ようとした。が、そこにスーツ姿の中年男が登場。中年男は事故と穴にうろたえつつも、助けを呼ぶために立ち去った。その隙にあなたはマットを回収し、来た時と同様に会社に戻った。そして事故の捜査が始まると、折坂さんに疑いの目が向くよう、僕らに事故前の水上さんの変化について話した……以上です。質問、異論反論、その他ご意見があればどうぞ」
話し終え、南雲は日高と時生の顔を見た。口調は軽いがその顔に笑みはなく、大きな目は強い光を放っている。
「そう言われても……訳がわからないし、私は何もしていません」
最初に日高が口を開いた。言われたことがショックだったのか、呆然としている。時生も問うた。
「南雲さん、どういうつもりですか。相談もなくこんなことを。そもそも、穴とかマットとか何なんですか? 勝田さんが見た穴は、酔いによる幻覚ってことになったでしょう」
「よくぞ訊いてくれました」
そう応えて目を輝かせ、南雲はまた語りだした。
「今回の事件のカギは、錯視という現象なんだ。錯視とは何かというと、いわゆる目の錯覚。そのメカニズムは解明されていないんだけど、僕は脳内の情報加工だと考えてる。人間は光や音、匂いといった刺激を脳で知覚する。でも脳は刺激をそのまま受け取らず、より現実世界に即した見え方になるように調整するんだ。錯視にはたくさんの種類があって、代表的なのが同じ長さの直線に長短があるように見えたり、静止画が動いているように見えたりするもの。現象を利用した絵画や立体作品もあるよ」
「3Dアートってやつですか? なら、家族と美術館に見に行ったことがあります」
つい反応してしまった時生に南雲は「そう、それ」と頷き、さらに続けた。
「モチーフの配置と模様、色のグラデーション、加えて鑑賞する位置によって平面の絵が立体的に見えるんだ。3Dアートの多くは写真に撮って鑑賞することを前提にしているけど、中には肉眼で立体に見えるものもある。今回の穴もそうで、水上さんは錯視の罠にはまってしまった」
最後のワンフレーズは口調と眼差しを強め、南雲は日高に向き直った。
「あなたは開業五十周年イベントのスタッフに、館内アメージングツアーを『アメージングのタイトルにふさわしいものにしたい』と話したそうですね。錯視を使ったアート作品の展示を予定していたんじゃないですか? たとえば、こんな素材を使って」
そう告げてスケッチブックを捲り、間に挟まれていた書類を取って掲げる。それを見た日高ははっとし、時生も脇から覗く。書類にはイルカとキリン、ドラゴンのCGイラストが描かれていた。表情を固くし、日高は反論した。
「それはただのいたずら描きで、アメージングツアーで錯視を使うつもりもありません。どうしても私を犯人にしたいんですか? 水上さんが亡くなった時、私は会社にいたんですよ。どうやってマットを敷いたり、片付けたりできるんですか」
「そうですよ。さっき言った通り、日高さんにはアリバイがある。零時ちょっと前に、バイク便の配達員が荷物を届けに来たんです。配達員から裏も取れてるし、マイ企画から事故現場は二キロ近く離れています」
記憶を再生しながら時生も告げたが、南雲は「わかってる」と頷いた。
「マイ企画まで行って確認したけど、門柱のインターホンはスマホ連携型だね。親機がインターネットに接続されていて、来客があるとスマホを使って外からリアルタイムで応対できる。その機能を使ってあらかじめ配達員が来るように段取り、アリバイ工作をしたんだ」
「違います! 本当に会社にいたんです。葉牡丹町なんかに行ってない!」
体の脇で拳を握り、最後は語気を強めて日高は反論した。時生も言う。
「日高さん、落ち着いて……南雲さん、もうやめましょう。いくら暗かったとはいえ、マットの穴を本物とは思いませんよ」
と、それを待ち構えていたように南雲はスケッチブックをぱたんと閉じ、告げた。
「そう? ほんのちょっと前、きみたちはまんまと騙されたじゃない。昼間、僕が渋谷の雑貨店で買った三千二百九十円のマットにね」
「あっ!」
声を上げ、時生は足下のマットを見た。一方日高は目を伏せ、口を引き結んだ。その表情に、時生の胸が騒ぐ。
「そんなの憶測だし、何の証拠もないじゃない」
声と眼差しを尖ったものに変え、日高が南雲を見上げた。その通りなので、南雲は黙る。が、時生の胸騒ぎはさらに強まり、頭が勝手に回りだす。気がつくと、言っていた。
「日高さんの言うとおりです。あまりにもバカげてる。人を殺すのに、錯視なんて方法を選ぶ犯人はいませんよ」
すると一瞬の間の後、「バカげてる?」と日高が問うた。頷き、時生はさらに言う。
「ええ。バカげています。脳の情報加工だか何だか知らないけど、子どもだましもいいところだ。もっと確実な方法が──」
「バカげてなんかいない!」
日高が裏返った声を上げた。時生が口を閉じ、南雲が目を向けるとこう続けた。
「錯視はすごい現象で、私はその価値を知ってる。だからアメージングツアーのテーマに選んだの。錯視を目玉にすればイベントは必ず成功するし、会社も持ち直すはずだった。なのに水上さんは……見た目も若さも、かなわないのはわかってた。でも仕事だけは私が上だと思ってたのに、あの子は自分の武器を使ってそれを奪った。独立すると言われ、頭を下げて思い直すように頼んだ私に、あの子が何て言ったと思う? 『ホテルカシェットにも折坂さんにも、私の方がふさわしかったってだけです』。絶対許さないと決めたわ」
語るほどに取り乱し、両目からは涙も溢れた。表情を動かさず、南雲は返した。
「それであなたは、自分の切り札である錯視を殺害方法に選んだんだね。現場に敷いた穴のマットは、イベントで使うと言って業者に作成させたんでしょ?」
「ええ。確実な方法とか、あの子が死ぬとか死なないとかは関係ないの。一番驚かせて騙したい相手にトリックを仕掛け、成功させた。十分気が済んだし、この後どうなっても受け入れるわ」
声を震わせながらも断言し、日高は目を伏せた。やがて嗚咽を漏らして泣き始め、その頬を伝った涙がマットの穴にぽたぽたと落ち、吸い込まれていった。
日高が落ち着くのを待ち、時生は彼女を水上結芽に対する殺人容疑で逮捕した。それを電話で村崎に報告すると、すぐに楠町西署の捜査員たちが駆け付けて来た。
後処理があるので、時生は日高を村崎に託した。手錠をかけられた日高は村崎と藤野に付き添われ、庭園の出入口前に停められた署のセダンに乗り込んだ。時生は南雲と、少し離れた場所からそれを見ていた。その周りを、捜査員たちが慌ただしく行き交っている。
遠ざかって行くセダンを眺めていると複雑な気持ちになり、時生は言った。
「日高が水上さんを信頼し、誇りに思っていたのは本当でしょう。しかし水上さんに引け目も感じ、『仕事では私が上』と考えることで自分を保っていたのかもしれません。一方水上さんはそれに気づいていて、日高と張り合う意味もあって折坂さんと付き合い、独立を決めた。ひと言で言えば女性同士の隠れたライバル心、マウントの取り合いってことになるんでしょうけど、男性同士でもあり得るし、人ごとじゃないな」
最後にため息をついた時生に、南雲が「だね」と頷く。時生はさらに言った。
「『穴を掘る者の上に、穴は崩れる』……言い得て妙だな。南雲さん。日高が犯人だと気づいていましたね? いつから?」
「二人でマイ企画に行った時からだよ。壁に飾られていた写真の中に、日高のOL時代のものがあった。あそこに錯視を利用した道路標示が写り込んでいたんだ。白やオレンジ、青を使った矢印で、車に乗ってる人からは立体的に見える。あれが勝田さんが見たという穴と結び付いて、ピンときた」
そう答え、南雲は身を翻して庭園の中に戻り始めた。後に続き、時生は頷いた。
「その矢印なら、覚えています。変わったデザインだなとは思いましたけど」
「あとは日高の服装。写真ではカラフルなものを着ているのに、僕らの前では黒い服ばかりだった。色彩心理学的に黒を好むのは、人と比べられたくない、同時に自分を評価して欲しいという相反する気持ちの表れだと言われている。まさに日高の心理状態でしょ?」
時生の頭にOL時代の写真を「嫌だ。恥ずかしい」と言いつつ、南雲に作業服とヘルメットが似合うと褒められ、はにかんだように笑っていた日高の姿が蘇った。「確かに」と頷いた時生に、南雲は続けた。
「でも確信を得たのは今朝、日高のCGイラストを見た時だよ。さっき見せたイルカとキリン、ドラゴンだけど、どれも3Dアートでよく使われるモチーフなんだ。体の大きさと長さが十分あって、躍動感のあるポーズを取らせやすいからね。あとはイラストの構図。3Dアートの絵は左右の壁と床の三面を使って描かれることが多くて、これは鑑賞者が絵の中に入り込むようにして、モチーフが飛び出して来るみたいな迫力を出すため。僕はモチーフのチョイスと構図、さらに影の付け方でこれは3Dアートのために描かれたものだと悟ったんだ」
「そうだったんですか」
もろもろ納得し感心もした時生だが、本宮の時と同じように「だったら教えて下さいよ」とも思う。それを伝えようとした矢先、南雲はスケッチブックを開いて語りだした。
「現場の穴も、日高の精神的メタファーと考えれば腑に落ちるんだ。言ったよね? これは怒りと痛み、パトスの象徴で」
とたんにうんざりし、時生は「はいはい」と返して足を速めようとした。
「昨日小暮くんは僕が十二年前と変わってないと言ったけど、きみも同じだね。時間が止まってるみたい」
ふいに話を変えられ振り向いた時生と、笑顔の南雲の目が合う。
昨日と同じように「若いまま」と言いたいのか? あるいは……。戸惑って警戒感も覚え時生が黙っていると、「南雲さん」と通路の向こうから刑事が一人駆け寄って来た。手に南雲が持ち込んだ穴のマットの写真が表示されたタブレット端末を持っているので、何かの確認だろう。立ち止まった南雲は刑事と話しだし、時生はその脇を抜けて通路を進んだ。すると今度は、「よう」と井手が現れた。
「お手柄だな。被害者の雇い主が犯人で、凶器が偽物の穴だったとはな。完全に読み間違えてたよ」
気まずそうに言い、片手で禿げ上がった頭を叩く。向かいで足を止め、時生は返した。
「いえ。僕も折坂がホシだと思ってました。日高を逮捕られたのは、南雲さんのお陰です」
「ダ・ヴィンチ刑事の名に恥じねえ名推理って訳か。で、そのダ・ヴィンチ殿だけどな」
そこまで言うと井手は時生の肩に腕を回し、一緒に南雲に背中を向けさせた。そしてその姿勢のまま、囁きかけてきた。
「小耳に挟んだところじゃ、ダ・ヴィンチ殿はあの立ち振る舞いが原因で上層部を怒らせ、本庁を追い出されたらしい。腕はいいから現場からは外せねえが、片っ端から断られて引取先が見つからねえ。で、『南雲の相手をできるのはあいつしかいない』ってことで、かつての相棒のお前にお鉢が回ってきたんだ。つまり、うえは始めからお前と組ませるつもりで、ダ・ヴィンチ殿を楠町西署に配属したんだよ」
だから、小耳に挟んだんじゃなく調べたんでしょ。突っ込みは浮かんだが、時生の頭はすぐに別のことを考え始める。
「納得いかねぇだろうが、がんばれよ。俺もできるだけのことはするから……昨日、署の廊下でダ・ヴィンチ殿とやり合ったんだってな。原因はダ・ヴィンチ殿が俺の読みを否定したからだろ? 嬉しかったよ。ありがとな」
「えっ? いや」
訂正しかけた時生だが思い直し、「ええ。今後も力を貸して下さい」と返した。「任せとけ」と井手が時生の肩を叩き、二人で通路を進みだした。時生が振り向くと、南雲はまだ刑事と話していた。
17
後片付けを済ませた時生は、南雲たちと署に戻った。刑事課の取調室では既に聴取が始まっていて、日高は素直に応じているという。その後は事件解決後の恒例の飲み会が開かれたが、主役の南雲はいつの間にか姿を消していた。そこで時生が南雲の分まで飲んで食べ、帰宅したのは午前一時過ぎだった。
既に家族は就寝し、時生は物音を立てないように家に入り、風呂場で冷たいシャワーを浴びて酔いを醒ました。Tシャツとハーフパンツに着替え、二階に上がって自室に入った。
明かりを点け、壁際の棒を取って天井に向けた。耳を澄ましてから棒で扉を開け、梯子を下ろした。梯子を上がり小屋裏収納に入ると、埃の匂いをはらんだむっとした空気が顔に当たった。こちらの明かりも点け、天井高が一メートル弱しかない狭いスペースを這うようにして進み、奥の小窓を開けた。両脇には段ボール箱や古い家具、おもちゃなどが山積みにされている。
体を起こし、時生は窓の少し手前にあぐらをかいて座った。身を縮めつつも顔を上げ、深呼吸してから合板が張られた左右の壁を眺めた。
小窓の周りの壁には、大量の書類と地図、写真などが重なり合うようにして貼り付けられている。どれも捜査資料で、中には古びたもの、時生の書き込みがされたものもあった。写真には上から吊されたり、水中に横たえられたり、バスタブの中やベッドの上に倒れていたりする男女の遺体が写っている。
時生は床に置いたファイルを取って数枚の写真を出し、押しピンで壁に貼った。そこに写っているのは南雲で、黒い三つ揃いを着て手に蓋付きの紙コップを持っている。二日前の朝、署にほど近いコーヒーショップから出て来たところを盗撮したものだ。
「『取りあえず』じゃなく、コンビ再結成は確定か。それならそれでいい。絶好のチャンスだ」
そう呟くと胸がざわめき、様々な感情が湧き上がった。一方で頭は冷たく冴え、時生は眼差しを鋭くして写真の中の南雲を見つめた。
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