飲み過ぎた。いや、今夜はいくら飲んでもいいだろう。相反する思いが胸をよぎり、勝田照信は息をついた。初夏の風が気持ちいい。
 子会社への出向を命じられて三年。このまま定年を迎えるのかと思っていたところに、本社への帰任を命じられた。いきさつはよくわからず、一抹の不安も覚えるが、サラリーマン人生を本社で終えられれば言うことはない。
 と、脚がふらついて通りの真ん中に出てしまった。後ろから車のヘッドライトに照らされ、勝田は端に寄った。その脇を抜け、赤い車が走って行く。
 ここは高台の住宅街だ。昼間の交通量は多いが、午前零時を過ぎた今は閑散としている。通りの先には大きくて急なカーブがあり、そこを曲がれば勝田の家は目の前だ。
 見るともなく見ていると、赤い車は前方のカーブを曲がって行った。その直後、薄暗い通りに甲高いブレーキ音が響いた。驚いて勝田が立ち止まった矢先、大きく重たい衝撃音が続いて空気が揺れた。気づくと、勝田は駆けだしていた。すぐに脚が重たくなって息も上がったが、必死に走ってカーブを曲がる。
 カーブの先は幅四メートルほどの通りで、片側に家が並び、反対側は高さが三十メートルほどある崖だ。崖の手前には金網フェンスが張られているのだが、途中から外側になぎ倒され、一部はなくなっている。カーブを曲がりきったところで立ち止まり、勝田は視線を巡らせた。赤い車は見当たらず、崖下からはかすかな煙が立ち上っている。
 大変だ。焦りが湧き、勝田は崖に歩み寄ろうとした。と、視界の先に何か見えた。とたんに、
「うわっ!」
 と声を上げ、勝田は後ずさった。しかし脚がもつれ、その場に尻餅をついてしまう。
 外灯がアスファルトの地面を照らしている。そこにはぽっかりと、深く大きな穴が開いていた。



 雑念を捨てろ。失敗は許されない。
 自分で自分に言い聞かせ、小暮時生は身をかがめた。目の前のダイニングテーブルの上にはピンク色の小さな弁当箱があり、中には鶏の唐揚げと卵焼き、プチトマト、丸いおにぎりが二個詰められている。おにぎりの中央にはスライスした魚肉ソーセージが一枚載せられ、その両脇に丸く切った海苔が貼り付けられている。
 息を詰め、時生は右手をおにぎりの一個に近づけた。指先につまんだ一粒の白ごまを、魚肉ソーセージの中央右側に縦に載せる。続けて、もう一粒つまんで中央左側に載せた。完璧だ。達成感を覚え、時生は白ごまが吹き飛ばないように顎を上げて息をついた。
「パパ。これ読んで」
 絵本を手に、四歳の次女・絵理奈が近づいて来た、黒く艶やかな髪をツインテールに結い、幼稚園の制服を着ている。
「絵本は帰ってから。それより、今日は上手くできたよ。ブタさんのおにぎり~」
 そう返し、時生はテーブルから弁当箱を取って絵理奈に差し出した。魚肉ソーセージが鼻で、白ごまは鼻の穴、海苔は目のつもりだ。おにぎりの上部左右には、半円形にスライスしたウィンナソーセージを、耳に見立てて載せている。が、絵理奈はおにぎりを一瞥すると言った。
「ブタさん、いや。クマさんがいい」
「えっ。絵理奈が、ブタさんがいいって言ったんだよ」
「いやなの。香里奈ちゃんと一緒がいい」
 首をふるふると横に振り、絵理奈は主張する。香里奈は絵理奈の双子の妹だ。テーブルには、先に完成した香里奈の弁当も載っている。詰めたおかずは絵理奈のものと同じだが、おにぎりの上にはスライスチーズと黒ごま、ケチャップでクマの顔を作った。
 脱力しつつ、時生は頭を巡らせた。魚肉ソーセージから白ごまを外し、ウィンナソーセージの上下を逆にし、半円形の弧を描いた部分が上に来るようにしておにぎりに載せ直す。
「はい、できた」
「え~っ。なんか違う」
「なんで? この丸い耳とか、クマさんそのものでしょ」
 おにぎりを指し時生が言い含めていると、後ろで声が上がった。
「パパー! お兄ちゃんが歯磨きしないよ」
 バタバタという足音が続き、香里奈がダイニングキッチンに駆け込んで来た。こちらも幼稚園の制服姿だが、長い髪を肩に下ろしている。弁当箱をテーブルに戻して時生が振り向くと、もう一つの足音が部屋に入って来た。
「仕方ねえじゃん。お姉ちゃんが、洗面所を使わせてくれないんだもん」
 小さな口を尖らせ、そう訴えたのは長男の有人、十歳。小柄だが手脚の長い体を、パーカーとジーンズに包んでいる。まず「『仕方ねえ』じゃなく、『仕方ない』って言いなさい」と注意し、時生は開いたままのドアから洗面所を覗く。洗面台の前には、長女の波瑠が立っている。
「いい加減にしなさい。後が詰まってるんだから」
 廊下から声をかけたが、返事はない。波瑠は中学校の制服を着て、真剣な顔で洗面台の鏡を覗いていた。ストレートヘアアイロンを、額に下ろした前髪にあてている。
「もう八時過ぎたぞ。そろそろ出かけないと。遅刻が多いって、先生から」
 そう続けた時生の耳に、強い苛立ちを漂わせたため息の音が届く。ヘアアイロンをあてる手は止めない波瑠だが、鏡に映った顔は鬱陶しげにしかめられている。
「波瑠。そういう態度はよくないぞ。言いたいことがあるなら」
 首を突き出しつつ極力穏やかに語りかけた直後、香里奈が「お姉ちゃん。髪結んで」と、時生の脇を抜けて洗面所に駆け込んだ。
「また~?」
 面倒臭そうに声を上げた波瑠だったが、香里奈が「だって、パパは下手なんだもん」と言うと、ヘアアイロンを洗面ボウルの脇に置いた。香里奈からヘアゴムを受け取って前を向かせ、両サイドの髪を掴んで束ねる。時生はその慣れた仕草に感心しつつ、まだ十四歳の波瑠が母親代わりをしている姿に、いじらしさも覚えた。
 波瑠が髪を結い終えると、香里奈は嬉しそうに洗面所を出て行った。時生は言う。
「いつもありがとう。波瑠のお陰で、すごく助かってるよ」
「はあ? 何それ」
「でも、パパの前では強がらなくていいんだぞ」
 そう続け、時生は手を伸ばして波瑠の頭をぽんぽんと叩いた。とたんに、
「ウザっ! キモっ!」
 と返し、波瑠は後ずさった。奥二重の目には、拒絶の色が浮かんでいる。ショックとともに時生が言い返そうとした矢先、スラックスのポケットでスマホが鳴った。取り出して画面を見ると、新着メッセージの通知があり、送信者は「刑事課 井手さん」とある。
 素早くメッセージを読み、時生は「ごめん。行かなきゃ」と身を翻した。ダイニングキッチンに入り、つけていた花柄の胸当てエプロンを外す。リビングのソファにエプロンを置いてスーツのジャケットを取った。子どもたちに「パパ、お仕事に行くね」と告げ、踵を返した。玄関の手前で足を止め、傍らの部屋のドアをノックして呼びかける。
「仁美姉ちゃん。後を頼んだよ!」
 しかし部屋の中からは、返事どころか物音一つ聞こえない。呆れながらも、時生は革靴を履いた。三和土に並んだ家族の靴をまたぎ、ドアを開けて施錠する。
 挨拶を忘れたと気づいたのは、門の外に出てからだった。時生は振り返って小さな二階屋に「行って来ます」と告げ、通りを走りだした。



 大通りに出ると、車道の端に白いセダンが停まっていた。歩み寄り、時生は開いた窓から車内に声をかけた。
「おはようございます。事件ですか?」
「ああ。現場への通り道だから、お前をピックアップして行こうと思ってな」
「ありがとうございます。運転を代わります」
「おう」
 という返事とともにセダンから降りたのは、井手義春。浅黒い肌と禿げ上がった頭、ぎょろりとした目が印象的だ。運転席に乗り込んだ時生は、井手が助手席に着くのを待ってセダンを出した。スーツのジャケットの裾を直し、井手が言った。
「波瑠ちゃんはどうだ?」
「相変わらずですよ。朝から『ウザっ! キモっ!』って言われちゃいました」
 ハンドルを握りながら時生が苦笑すると、井手も顎を上げて笑った。が、すぐ真顔に戻って返した。
「口を利いてくれるだけマシだ。うちの柚葉は、俺と一緒の時はイヤフォンを外さない」
 目に浮かぶようで、時生は眉根を寄せて「ああ」と頷いた。五十二歳の井手と三十八歳の時生は楠町西署の刑事で、階級は巡査部長。年頃の娘を持つ父親という共通点もあり、時生にとって井手は頼りになる先輩で相棒だ。
 二十分ほどで目的地に着き、住宅街の一角にセダンを停めた。井手と降車して通りを進むと、前方に規制線の黄色いテープが見えた。警備の警察官が持ち上げてくれたテープをくぐり、時生たちはさらに通りを進んだ。
 間もなく現場に着いた。雑草の生えた広い空き地の中を、両手に白い手袋をはめた刑事たちが行き来している。その奥に見えるのが、横倒しになった赤いコンパクトカー。フロント部分はぐしゃりと潰れ、ルーフもへこんで窓ガラスは割れている。周辺の雑草はなぎ倒され、車の部品やひしゃげた金網フェンスなどが散乱していた。赤いコンパクトカーのさらに奥には、コンクリートで覆われた崖が見える。崖は高さ三十メートル、傾斜四十五度といったところか。
「車の破損状態からすると、ドライバーはよくて重傷、下手すりゃ即死だな」
 ややハスキーで鼻にかかった声で言い、井手は崖を見上げた。隣で時生が頷いていると、男女二人が近づいて来た。
「ええ。ドライバーの女性は病院に搬送されましたが、全身を強打してほぼ即死でした」
 女の方が無表情に告げ、時生たちの横に立った。上半分が縁なしのメガネをかけ、ライトグレーのパンツスーツを着ている。小柄で目鼻立ちも小作りだが、楠町西署刑事課長の村崎舞花、二十九歳。階級は警視だ。
「おはようございます。遅くなりました」
 時生は背筋を伸ばして一礼したが、井手は無言で横を向いている。村崎が「おはようございます」と返すと、男の方も口を開いた。
「交通課の実況見分と鑑識係の作業は済んでる。だが不審点があるとかで、刑事課に臨場の要請があったんだ」
 身振り手振りを交え、説明する。背が高く痩せたこの男は、藤野尚志。刑事係長で警部と、村崎に次ぐポスト・階級だが、歳は四十九だ。
「不審点って何ですか?」
 向き直って井手が訊ね、藤野は「先に車を見てくれ」と返して前方に歩きだした。井手も倣い、二人で赤いコンパクトカーに近づいて行く。時生も続こうとしたが、「小暮さん」と村崎に呼び止められた。
「はい」
「本日付で、刑事課に警察官一名が配属されました。アテンドをお願いします」
「この時期に? 珍しいですね」
 怪訝に思い時生は問うたが、村崎は「よろしく」とだけ告げて藤野たちに続いた。その背中に「わかりました」と返し、時生は辺りを見回した。しかし配属された刑事と思しき人物は見当たらない。首を傾げつつ空き地を眺め直すと、あることに気づいた。
 崖の上に誰かいる。日射しがまぶしくよく見えないが、スーツを着た男のようだ。身を翻し、時生は歩きだした。通りを五十メートルほど進むと、十字路に出た。その一方は急な坂道だ。迷わず、時生は坂道を上った。気温はそう高くないが湿度は高く、坂道を上りきって崖の上の通りに出ると、額に汗が滲んだ。そこには住宅が並び、向かいの崖の手前には金網フェンスが張られている。
 こちらの規制線のテープもくぐり、時生は通りを進んだ。と、前方にカーブが見え、その手前の路上に黒々としたタイヤ痕が付着していた。赤いコンパクトカーのドライバーは急ブレーキをかけたのか、タイヤ痕は弧を描き、崖に向かっている。周辺には鑑識係の作業の痕跡と思しき、白いチョークの書き込みもあった。
 カーブを抜けたあと曲がりきれずに金網フェンスを突き破り、転落したんだな。そう推測し、時生はタイヤ痕の先を見た。金網フェンスがないので、崖とその下の空き地がよく見える。
 さっきの人は? ここに立ってたはずなんだけど。我に返り、時生は左右を見た。そのとき傍らの住宅の門が開き、男が二人出て来た。一人は五十代半ばぐらいで、これから出勤するのかスーツにネクタイ姿でビジネスバッグを提げている。もう一人は黒い三つ揃いのスーツをノーネクタイでまとい、歳は四十代後半か。
 と、三つ揃いの男が顔を上げ、時生ははっとする。さらに男が脇に表紙が深紅のスケッチブックを抱えているのを確認し、時生の胸はどきりと鳴った。
「まさか」
 思わず口に出してしまい、それが聞こえたのか三つ揃いの男が振り返った。一瞬きょとんとしてから笑顔になり、男は片手を上げた。
「やあ。久しぶり」



 大きく息をつき、井手は言った。
「なあ。最近、書類仕事が増えたと思わねえか?」
 ノートパソコンのキーボードを叩く手を止め、時生は向かいを見た。
「いえ。前からこんなものだったと思いますけど」
「いいや、増えた。調書だ報告書だと、形式にばっかりこだわりやがって。これだから頭でっかちのエリートは」
「しっ。聞こえますよ」
 小声で時生に咎められ、井手は不満そうに口を閉じて部屋の奥を見た。そこには時生たちのものより一廻り大きな机が置かれ、村崎が着いている。村崎は東京大学法学部卒のいわゆるキャリア警察官で、楠町西署の刑事課長にはこの春、捜査現場を経験するための研修で着任した。叩き上げの刑事を自任する井手はそれが気に入らないらしく、何かと言えばグチと文句を言う。
「ところで、新入りは?」
 話を変え、井手は周囲を見回した。ここは楠町西署の二階にある刑事課で、広い部屋には向かい合って置かれた机の列が三つ並び、二十人ほどの刑事が着いている。ノートパソコンの液晶ディスプレイに視線を戻し、時生は答えた。
「さあ。課長に言われて迎えに行ったんですけど、『この辺をふらふらする』って言っていなくなっちゃいました」
「なんだそりゃ。こんな時期に異動って珍しくねえか? 訳ありだな。だろ?」
 全く同じ疑問をさっき時生も村崎に投げかけ、訳ありだなとも思った。しかし井手には「はあ」とだけ返し、報告書の作成を再開した。
 と、ドアが開いて藤野がフロアに入って来た。後ろには、男が一人いる。時生ははっとし、井手も「噂をすればだな」と呟く。二人が見守る中、藤野と男は通路を進み、村崎の机に歩み寄った。藤野と二言三言話し、村崎は立ち上がった。そのまま並んだ机の前に進み出て、片手を上げる。「注目」の意思表示らしいが、「みんな、聞いてくれ」と告げたのは、藤野。それが気に障ったのか、向かいで井手が鼻を鳴らした。刑事たちが振り向くと、村崎は話しだした。
「午後二時になったので、定例のミーティングを始めます。まず、本日付で配属された警察官を紹介します。南雲士郎警部補です」
 そう告げて、村崎は自分の斜め後ろに立つ南雲を指した。刑事たちの視線が動き、拍手が起きた。南雲はそれに「どうも」と応え、顔の横でひらひらと手を振った。「軽いな、おい」と井手が突っ込み、時生は南雲を見つめた。
 南雲は三つ揃いを着て脇にスケッチブックを抱えるという、さっきと同じ格好。よく見れば、ジャケットの胸ポケットには真新しい青い鉛筆が一本、差し込まれている。体つきは警察官としては華奢で、髪はクセが強く量も多い。面長で、大きな目と歪みのないまっすぐな鼻が印象的だ。隣に立つ南雲を見て、藤野が補足する。
「南雲警部補は東京藝術大学の美術学部絵画科卒という、異色の経歴の持ち主だ。長らく本庁刑事部で美術品関係の犯罪捜査に関わり、成果を上げてきた。付いたあだ名が、『ダ・ヴィンチ刑事』だ」
 最後のワンフレーズに刑事たちはざわめき、それを南雲がにこやかに見返す。と、井手が囁きかけてきた。
「そんなご立派な警部補殿が所轄の刑事課に? やっぱり訳ありだな。そもそも、なんでダ・ヴィンチなんだよ」
「すぐにわかりますよ」
 複雑な思いが胸に湧くのを感じつつ、時生は返した。井手が怪訝そうな顔をした時、藤野が言った。
「じゃあ、南雲。着任のスピーチを」
「スピーチですか」
「そう。簡単でいいから、よろしく」
 当たり前のように頷いた藤野に、南雲は笑顔のままこう返した。
「僕の敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチは、手記にこう記しています。『歳月より早いものはない』『我々のみじめな時の流れを、虚しく過ごさないようにしよう』と」
 その言葉に藤野と刑事たちがぽかんとし、場に沈黙が流れる。と、村崎が言った。
「それはつまり、スピーチは時間の無駄、やりたくないということですか?」
「勘がいいですね」
 嬉しげに南雲に返され、村崎も絶句する。すると南雲は、
「ミーティングを続けて下さい。私物が載っているから、僕の席はあそこかな」
 と告げ、何か言おうとした藤野を「あ、大丈夫です」と制して歩きだした。
 場に戸惑いの空気が流れる中、南雲は通路をすたすたと進んで時生の隣の席に来た。机にスケッチブックを下ろし、脇に置かれた段ボール箱を開けて中身を取り出し始める。それを呆然と眺めていた井手だったが、南雲が取り出したものの中にレオナルド・ダ・ヴィンチの画集や手記、伝記などがあるのに気づき、「マニアかよ」と呟いた。
 覚悟を決め、時生は隣に語りかけようとした。が、動揺しながらも藤野が「では、ミーティングを続ける」と告げたので、視線と意識を部屋の奥に戻した。
「葉牡丹町二丁目の事案だが、崖から転落した自動車を運転していたのは水上結芽さん、二十九歳だ」
 表情を引き締めてそう言い、藤野は手前の席に着いた中年の刑事に目をやった。「はい」と応えて中年の刑事は席を立ち、書類を手に報告を始めた。
「水上さんは小手毬町一丁目のイベント企画会社に勤務。事案が発生したのは本日の午前零時十五分頃で、現場近くを通りかかった会社員・勝田照信さん、五十六歳が携帯電話で救急要請を行いました」
 報告を終えて中年の刑事が席に着き、入れ替わりで奥の席の若い刑事が立ち上がった。
「勝田さんは現場に急行した交通課の課員に、事案発生直前に水上さんの自動車を目撃し、崖から転落する音を聞いたと話しています。同時に、『現場に駆け付けたら穴があった』とも証言しました」
「それがうちに臨場要請が来た理由だな。どんな穴だ?」
「幅三メートル、奥行き一・五メートルほどで、自動車が転落した箇所の五メートルほど先の路上にあったそうです。しかし勝田さん立ち会いのもと確認したところ、現場に穴は確認できず、埋めたような痕跡もありませんでした。なお、現場付近に防犯カメラはなく、水上さんの車に、ドライブレコーダーは未設置です」
「じゃあ、確認しようがないな」と藤野が返し、時生は六時間ほど前に現場に行った際、路上に穴やその痕跡はなかったと思い出した。若い刑事が着席し、村崎が口を開いた。
「事案発生時、勝田さんは飲酒後で酩酊初期の状態だったようです。さらに水上さんは仕事が立て込んでおり、このところ毎晩遅くまで残業をしていたとの証言も得ています。よって水上さんは疲労から居眠り運転をし、ハンドルを切り損ねて崖から転落した可能性が高い。本事案は事故であり事件性なしと断定し、その旨交通課に報告を──」
「ふうん」
 ふいに上がった声に、村崎は口をつぐんだ。刑事たちの視線が一斉に動き、時生も後ろを振り返った。
 南雲は数分前と同じように机の前に立っていた。手にした本に目を落とし、ゆっくりページを捲っている。その横顔に向かい、村崎は問うた。
「南雲さん。何か?」
 すると、南雲は顔を上げた。
「あれ。聞こえちゃいました? 申し訳ありません。どうぞ続けて下さい」
 と、にこやかに、しかし申し訳なさは微塵も感じられない口調で答え、視線を本に戻す。その態度に村崎が顔を強ばらせ、慌てて藤野が告げた。
「課長。そろそろ会議が始まります……言い忘れたが、小暮。取りあえず南雲と組め」
「えっ!?」
 驚き、椅子から腰も浮かせかけた時生だが、藤野は「以上。解散!」と告げて身を翻した。刑事たちも席を立ったり作業に戻ったりして、部屋に雑然とした空気が戻る。藤野は村崎の後に付き、通路をドアに向かった。それを呆然と見送る時生に、井手が言う。
「そうか。お前には、まだまだ教えたいこともあったんだがなあ」
 残念そうな口調だが、からかいのニュアンスが漂っている。しかし反応する余裕はなく、時生は隣を見た。南雲は本を机に置き、段ボール箱から上部にスクリュー形の翼の付いた乗り物の模型を取り出している。高さや角度を変え、いかにも楽しげに模型を眺めるその姿に、時生はため息をついた。



 前方の信号が赤になり、時生はセダンを停めた。横目で助手席を窺うと、南雲は俯いて何かしている。沈黙が流れ、時生は気まずさを覚えた。
 藤野にコンビを組めと命じられたものの、いま刑事課はこれといった事件は抱えていない。そこで時生は「パトロールを兼ねて管内を案内します」と南雲に告げ、二人で楠町西署を出た。しばらく逡巡した後、時生は口を開いた。
「楠町西署は、署員数三百名弱の中規模署です。管内の大半は住宅街で、豪邸が建ち並ぶエリアもあります。かと思うと歓楽街や雑木林、畑もあって、発生する事件も様々──聞いてます?」
 言葉を切って問いかけると、南雲は顔を上げ、「ごめん。聞いてなかった」としれっと答えた。呆れた時生だったが、南雲がスケッチブックを手にしているのに気づき、訊ねた。
「それ、例の穴ですか?」
 スケッチブックには鉛筆らしき黒い筆記具で、穴の絵が描かれていた。穴は歪んだ楕円形で、切り立った縁やあちこちに走るひび割れなど、リアルな筆致もあっておどろおどろしい雰囲気だ。頷き、南雲は答えた。
「うん。僕も勝田さんから話を聞いて、スケッチしたんだ」
「そうだったんですか」
 相づちを打ちつつ、時生の頭には崖の上で会った時、南雲といた中年男の姿が蘇る。
「この穴、面白いよ」
 自分で描いた絵を眺め、南雲が言う。時生が横を向くと、南雲も時生を見た。
「絵画にも、穴をモチーフにしたものはある。たとえばカルロス・シュヴァーベの『墓掘り人夫の死』や、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』。解釈としてはそれぞれ、死の擬人化とか反社会的思想とか言われているけど、この穴はどちらでもないね。この穴から感じるのは、強い怒り。そして形而上的な痛みと悲哀」
 熱っぽい早口で語り、時生に穴の絵を見せる。「はあ」と相づちを打った時生に、南雲はさらに続けた。
「だから勝田さんもそういう精神状態で、それがアルコールの作用と相まって、現場の通りに穴の幻覚を見たと思ったんだ。ところが話を聞くと、勝田さんはつい最近、出向していた会社から本社にカムバックしたらしい。大喜びのやる気満々で、怒りやパトスとはまるで無縁……ね、面白いでしょ?」
 目を輝かせて迫られ、時生は「顔、近いです」と訴えた。南雲が身を引き、時生は「どこがですか?」と問い返した。すると南雲は前に向き直って話を変えた。
「行きたいところがあるんだけど」
「どこですか?」
「昼顔町五丁目」
「構いませんけど、何で」
 そう続けかけた時生に笑顔で「よろしく」と告げ、南雲はスケッチブックの絵に見入った。こうなると何を言っても無駄なのはわかっている。理不尽さへの苛立ちが胸に湧いたが押しとどめ、時生はハンドルを握り直した。

 十五分ほどで目的地に着いた。通りの端にセダンを停め、時生は訊ねた。
「ここに何があるんですか?」
「水上結芽さんの自宅。あのマンションだよ」
 明るく答え、南雲は通りの向かいの建物を指してシートベルトを外した。
「えっ!」
「あ、管理人さんだ。行かなきゃ」
 そう続け、南雲はスケッチブックを抱えてセダンを降りた。通りを横切り、マンションの玄関から出て来た年配の男に歩み寄る。「南雲さん、ちょっと」と声をかけ、時生も小走りで後を追った。年配の男の前で足を止め、南雲はジャケットのポケットから出した警察手帳を見せた。
「どうも。こちらに水上結芽さんという女性が住んでいますね。部屋を見せて下さい」
「水上さん、亡くなったんだって? ニュースで見たよ。でも、事故なんじゃないの?」
 そう問いかけ、管理人の男は南雲とその横に駆け寄った時生を見た。ベージュの作業服の上下を着て、手に箒とちり取りを持っている。
「念のためです」
 南雲が答え、管理人の男は「そう。じゃあ、いまカギを持って来るから」と告げて玄関に戻って行った。南雲はその後に続き、時生を手招きした。仕方なく、時生も歩きだした。
 短いアプローチを抜け、ガラスのドアを開けてマンションのエントランスに入った。傍らの壁にステンレス製のポストが並び、向かい側は管理人室だ。管理人の男はドアを開けて管理人室に入り、南雲はドア脇の小窓を開けた。
「水上さんはどんな人でしたか?」
 小窓に身をかがめ、管理人室の中に問いかける。時生も隣から覗くと、壁に取り付けられたキーボックスの前に立つ管理人の男が見えた。
「礼儀正しくて、いい人だったよ。ゴミ出しとかもちゃんとしてたし」
「恋人はいました?」
「そんなことまで知らないよ……でも、苦情が来てたな。隣の部屋の人に、『夜中に女と男が言い争う声がして眠れなかった』って言われたよ」
 テンポよく答えながら、管理人の男はスラックスのポケットから出したカギでキーボックスを開けた。続けて、南雲が問う。
「それはいつ頃?」
「最近だよ。確か、十日くらい前かな」
「ふうん」
 そう呟き、南雲は体を起こした。そこに管理人の男が戻って来て、「はい。三○八号室だから」とカギを差し出した。
 カギを受け取り、南雲と時生はエントランスのドアを開けてマンションの中に進んだ。建物が古いせいか、オートロックではないようだ。エレベーターで三階に上がり、長くまっすぐな廊下を進む。廊下の一方には各部屋のドアが並び、反対側の腰壁の向こうには、外の通りと時生たちのセダンが見える。
 と、腰壁の中ほどに設えられたコンクリート製の階段から、人影が現れた。若い男で、背が高くがっちりした体を白いTシャツと黒いダメージジーンズに包み、肩に黒いリュックサックをかけている。男も廊下を奥に向かって歩きだし、時生と南雲はその後ろ姿を眺めながら前進した。
 間もなく、若い男は奥の三○八号室の前で立ち止まった。足を速め、時生は警察手帳を掲げて声をかけた。
「すみません。水上結芽さんのお知り合いですか?」
「そうですけど」
「失礼ですが、どういったご関係でしょう?」
「どうって……何かあったんですか?」
 時生とその後ろからやって来た南雲に目をやり、若い男は問い返した。浅黒い肌に、サイドを刈り上げた明るい茶色のツーブロックヘア。肩にかけたリュックサックはナイロン製で、前面に白く大きな英文字が入っている。若者に人気のストリートブランドのロゴだ。一呼吸置き、時生は答えた。
「残念ですが、水上さんは亡くなりました」
「マジ!?」
 声を上げて目を見開き、若い男は「いつ? なんで?」と続け、時生の顔を覗き込んだ。
「今日の午前零時過ぎで、自動車の運転中でした」
「じゃあ、事故? 何だよ、それ」
 眉根を寄せて俯き、若い男はリュックサックを床に下ろしてうずくまった。ショックを受けた様子だが、俯く直前、男の目に焦りの色が浮かんだのを時生は見逃さなかった。すると、南雲が口を開いた。
「どうも。南雲士郎です。あなたは?」
 唐突な自己紹介に、若い男が顔を上げた。にこやかに自分を見下ろす南雲に、若い男は戸惑いながらも答えた。
「本宮俊吾」
「本宮さんは水上さんの元カレ? 彼氏なら、亡くなったのを知ってるはずだからね」
「ええ。先週別れました。だから、合いカギを返しに来たんですけど」
 そう答えて立ち上がり、本宮はダメージジーンズのポケットからステンレス製のカギを出した。
「わかりました。念のために、連絡先を教えて下さい」
 そう時生が乞うと、本宮はダメージジーンズのヒップポケットから名刺入れを出し、名刺を抜き取った。受け取って見た名刺には「select shop EYES」とあり、肩書きは「owner」。店の住所は渋谷だ。
「セレクトショップをご経営ですか。これも念のためですが、今日の午前零時頃はどちらに?」
「店の近くのクラブで、仲間と飲んでいました」
 そう力のない声で返し、時生が「わかりました。ご協力ありがとうございます」と会釈すると、ふらふらと廊下を歩きだした。それを「ちょっと待って」と南雲が止め、抱えていたスケッチブックを開いた。そして時生が止める間もなく、
「これ。知ってる?」
 と訊ね、さっき自分で描いた穴の絵を見せた。一瞥した本宮は怪訝そうに「知りませんけど」と答え、歩きだした。すると南雲はスケッチブックを閉じて三○八号室のドアの前に進み出た。借りたカギで解錠し、当然のようにドアを開けて玄関に入る。
「部屋には上がらないで下さい。さすがにまずいですよ」
 慌てて告げ、時生も後に続く。と、南雲は狭い三和土に立ち、部屋の中を見ていた。家探しをすると思っていたので拍子抜けし、時生も部屋の中を観察した。
 六畳ほどのワンルームで、手前の壁際に小さなクローゼットとシステムキッチンがあり、その奥にシングルサイズのベッドとローテーブル、液晶テレビが載った棚が置かれていた。ベッドの上には衣類が脱ぎ棄てられ、フローリングの床にも書類や雑誌が散らばっている。
 水上さんは仕事が立て込んでいて、このところ毎晩遅くまで残業をしていたと課長が言ってたな。時生がそう思った矢先、隣で「ふうん」と声がした。見ると、南雲は部屋の一点を凝視している。視線を追った時生の目に、液晶テレビが載った棚が映る。白い合板製で本や映像ソフト、雑貨などが詰め込まれている。その中には、本宮のリュックサックと同じストリートブランドのロゴ入り置き時計とペンケースがあり、棚の上にはキャップとウエストポーチも載っていた。
「本宮さんからのプレゼントでしょうか。あのブランド、若い子にすごい人気だけど高いんですよね」
 時生はそうコメントしたが、南雲は無言。くるりと身を翻し、ドアを開けた。管理人にカギを返し、礼を言ってマンションを出た。セダンに戻ると、南雲は告げた。
「次は小手毬町に行こう」
「水上さんの勤め先ですか? ダメです」
 運転席に着き、シートベルトを締めながら時生は却下した。きょとんとして、南雲は問うた。
「なんで? 小暮くんも、引っかかるものを感じたんでしょ?」
「ええまあ」
 つい正直に答えてしまうと南雲は「やっぱり」と笑い、こう続けた。
「じゃあ行こうよ。いいじゃない。帰り道だし」
「ダメです」
「あっそう。じゃあ、僕一人で行こうかな」
 そう告げて、南雲は助手席のドアを開けようとした。慌てて、時生は「それはもっとダメ」と止めた。頭を巡らせ、隣に告げる。
「わかりました。行きます。でもあくまでも案内の一環、寄り道ですから。それと、誰かに穴の絵を見せるのは禁止」
「これも捜査の一環だよ。さっきも言った通り、この穴は怒りとパトスの象徴で」
 スケッチブックを手に語りだそうとした南雲に「シートベルトを締めて下さい」と告げ、時生はセダンのエンジンをかけた。



 小手毬町に着いた頃には、陽が傾き始めていた。水上の勤務先は、古い平屋の戸建だ。コンクリート製の門柱には、「日高」と「(株)マイ企画」の二つの表札が取り付けられていた。敷地の脇の駐車場には、白いワンボックスカーが停まっている。
 時生がインターホンのボタンを押すと、ややあって玄関のドアが開いた。顔を出したのは三十代半ばぐらいの女で、スマホを耳に当てて誰かと話している。
「突然すみません。日高舞子さんですか? 少しお話を伺わせて下さい」
 警察手帳を見せて会釈した時生に、日高は「ええ。何とかします」と電話の相手に告げながら頷き、玄関から出て来た。そしてそのまま「はい。ちょっと時間をいただければ」と通話しながら門扉を開け、手振りで時生と南雲に家に入るよう促した。
 日高の後に付いて玄関に入り、三和土で靴を脱いだ。先に玄関に続く廊下に上がった日高は、「すみません」と繰り返して頭を下げ、通話を終えた。憔悴したような顔で時生たちに向き直る。
「申し訳ありません。ゴタついていて」
「大変ですね。水上さんの事故の影響ですか?」
 時生の問いかけに日高は「ええ」と返し、廊下を歩きながら続けた。
「取引先のみなさんが、ニュースで事故を知ったらしくて。社員二名の会社ですから」
 三人で廊下を進み、奥の部屋に入った。小さなキッチンがあるダイニングで、四人がけの白いテーブルが置かれ、隣は庭に面した十畳ほどのリビングだ。日高は時生たちに椅子を勧め、壁際の冷蔵庫に歩み寄った。小柄で、黒いブラウスに黒いスラックスという格好だ。
「お構いなく。すぐに失礼しますから」
 手前の椅子を引き、時生は告げた。冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出しながら、日高が「はい」と返す。
「いろいろあるなあ。見てもいいですか?」
 リビングを指し、南雲が問うた。そこにはパソコンの液晶ディスプレイが載った机と棚、デジタル複合機が並び、脚立やカラーコーン、大工道具なども置かれている。
「ダメです。まずは、日高さんのお話を聞いて」
 時生はそう囁きかけたが、日高は「どうぞ」と促す。「やった」と目を輝かせ、南雲はスケッチブックを抱えてリビングに向かった。諦めて時生が椅子に座ると間もなく、日高は緑茶を注いだグラスをテーブルに運んで来た。
「こちらは日高さんのご自宅兼オフィスですか?」
「はい。親戚の家なんですけど、住む人がいなくなったので使わせてもらっています」
 テーブルの時生の前とその横にグラスを置き、日高が言う。「なるほど」と頷き、時生はスーツのポケットから手帳とペンを出した。
「イベントの企画会社なんですよね。水上さんはいつから勤められていたんですか?」
「三年前。会社を立ち上げた時からです。ずっと二人でがんばって来たんですけど」
 うなだれて答え、日高は時生の向かいに座った。美人ではないが清楚な顔立ちで、長い髪を頭の後ろで束ねている。時生は「残念ですね」と返し、話を変えた。
「水上さんは昨夜何時頃こちらを出ましたか?」
「午後十時過ぎです。日を改めたかったけど、スケジュールが差し迫っていて。今うちは木槿町にある、ホテルカシェットのイベントの準備をしています。私が他の作業で手が離せなかったので、水上さんに行ってもらいました」
「そうでしたか」と返しつつ、時生は頭を巡らせた。ホテルカシェットは、古い洋館を改築した高級ホテルだ。客室数は六十ほどだが、趣のある佇まいは人気がある。水上がホテルカシェットから自宅マンションに帰ったのなら、事故現場の通りを使うと近道になる。
「水上さんに変わった様子はありませんでしたか? 最近、恋人と別れたと聞きましたが」
 そう時生は切り出し、日高は答えた。
「そうだったんですか。言われてみれば、少し悩んでるような様子はありました。仕事が一段落したら話を聞こうと思ってたんですけど、とにかく彼女はモテるから。美人で明るくて、人付き合いも上手いんです」
 後半は誇らしげな口調になり、薄く微笑む。「そうですか」と返した時生の頭に、刑事課の資料に添付されていた水上の写真が浮かぶ。目鼻立ちのはっきりした美人で、意志の強そうな大きな目が印象的だった。
「少し悩んでるような様子というのは、たとえば?」
 時生が一歩踏み込み、日高は頭を巡らせるような顔をした。と、プピー! と細く甲高い音がして、日高と時生はリビングを見た。視線に気づいたのか、壁際の棚の前に立った南雲が振り向く。
「失礼。構わずに続けて」
 クマかイヌのぬいぐるみを手に告げ、棚に向き直る。ぬいぐるみは何かのイベントのグッズで、中に鳴き笛が入っているのだろう。リビングには、他にもイベントで使ったと思しき看板や幟旗、着ぐるみの頭部などが置かれていた。
「すみません。で、いかがですか?」
 謝罪して前に向き直り、時生は話を再開した。「いえ」と日高も視線を戻した矢先、今度は「ははは」という笑い声がリビングで上がった。息をつき、時生は手帳を閉じて立ち上がった。
「ちょっと、南雲さん」
 苛立ちを抑えながら言い、棚の前に行く。改めて見ると南雲は、「ミスたぬき町商店街 グランプリ」と文字の入った白いたすきを体に斜めがけにし、壁に飾られたフォトフレームを眺めている。時生も目を向けると、そこには写真が収められていた。写っているのは日高と水上で、旅行先で撮影されたものなのか、日高は赤、水上は黄色いアロハシャツを着て腕を組み、楽しそうに笑っている。フォトフレームは他にもあり、イベントの現場で撮影されたものが多い。と、「おっ」と呟き、南雲がダイニングを振り返った。
「日高さん。作業服が似合いますね」
 そう問いかけ、別のフォトフレームの写真を指す。写っているのは淡い緑色の作業服を着て頭に黄色いヘルメットをかぶった日高で、他に四、五人の男女がいた。男女の後ろには黒々としたアスファルトと、そこに描かれたカラフルな矢印の路面標示も写り込んでいた。「嫌だ。恥ずかしい」と言って席を立ち、日高もリビングに来る。南雲が指す写真を見て答えた。
「私は五年前まで、道路標識や路面標示を製造販売する会社に勤めていました。施工に立ち会うこともあって、その時の記念写真です」
「なるほど。いい写真ですね。ヘルメットもよくお似合いで」
 相づちをうちつつ、南雲が返す。作業服とヘルメットが似合うって、褒めてるつもりか? 呆れながらも日高の反応が気になり、時生は隣を見た。「ありがとうございます」と頬を緩めた日高だが、すぐに真顔に戻って告げた。
「水上さんと知り合ったのは、会社を辞めてフリーターをしていた時です。歳は五つも離れていますけど気が合って、一緒に起業しました。商店街の福引きから始めて、大きな企業や一流ホテルのイベントを任せてもらうまでになったんです。なのに……私が無理をさせたから」
 声を絞り出すように言い、俯いて肩を震わせ始める。胸が痛み、時生は返した。
「辛いかもしれませんが、気持ちを強く持って今を乗り切って下さい。水上さんもそれを望んでいるはずです」
 すると日高が顔を上げたので、時生はイベント会場で撮影されたらしき写真を指した。どれからも、日高と水上が仕事を楽しみ、熱意を持って取り組んでいるのが伝わってくる。写真に目を向けた後、日高は時生を見返し、「はい」と頷いた。



 その後しばらくして、時生と南雲はマイ企画を出た。楠町西署に戻り、刑事課に向かった。自分の席に着こうとした南雲を時生が促し、一緒に村崎の机まで歩く。
「課長。ご報告したいことがあります」
 そう声をかけると、村崎は読んでいた書類から顔を上げた。机の前に立つ時生、その斜め後ろの南雲の順に見て問う。
「何でしょう?」
 それから時生は、南雲に管内を案内する道すがら偶然水上結芽の自宅前を通りかかり、水上の元恋人・本宮俊吾と会ったこと、さらにたまたまマイ企画の近くに行ったので、日高舞子とも話したことを伝えた。
「『偶然』『たまたま』ですか?」
 話を聞き終えるとまず、村崎は訊ねた。「はい」と返し、時生は背筋を伸ばした。わずかな沈黙の後、村崎が「それで?」と促したので時生は先を続けた。
「本宮俊吾、二十八歳。身元照会をしたところ前科はありませんが、不審点があります。まず亡くなったと報せた際、焦るような様子がありました。また、本宮は水上さんの部屋に入ろうとしていました。合いカギを返すだけなら、エントランスのポストに入れればいいはず。元恋人なら、平日の昼間は水上さんが不在だと知っていたでしょうし」
「私物を回収しようとしたのでは?」
「それはあり得ます。しかし勤務先の社長が、亡くなる前、水上さんには悩んでいる様子があったと話しています。水上さんの事故に本宮が関わっている可能性は、ないでしょうか」
 まっすぐに村崎を見て、時生は語りかけた。南雲に無理矢理連れて行かれはしたが、本宮に会い、日高から話を聞いて、時生の違和感と疑問は確かなものになった。その南雲は、スケッチブックを手に所在なげに周りを見ている。と、脇から藤野が近づいて来た。
「何を言ってる。この事案は昼間のミーティングで、村崎課長が事故で事件性なしと断定しただろう。お前、課長に恥をかかせる気か?」
 強い口調で問いかけ、時生を睨む。時生は「いえ、そんなつもりは。申し訳ありません」と頭を下げた。が、藤野はさらに何か言おうと身を乗り出した。その矢先、
「知ってます? 人に恥をかかせる気か? と騒ぐことこそ、その人に恥ずかしい思いをさせることになるって」
 と告げ、南雲が進み出て来た。はっとして体を起こした時生の目に、藤野に微笑みかける南雲が映る。同時に、部屋にいる刑事たちがこちらのやり取りを見守っているのに気づいた。たじろいだ藤野だったがすぐ険しい顔に戻り、言葉を返そうとした。それを遮るように、村崎が口を開く。
「事故発生時の本宮のアリバイは?」
「渋谷のクラブで飲んでいたそうですが、相手は仲間です」
 視線を村崎に戻し、時生は答えた。「なるほど」と呟き、村崎は告げた。
「いいでしょう。調べてみて下さい……お手並み拝見ですね」
 最後のひと言は、南雲を見て言う。「お手柔らかに」と笑顔のまま返し、南雲は身を翻して歩きだした。一方時生は捜査を許可されて胸が弾み、「ありがとうございます」と村崎に一礼した。時生も歩きだすと、入れ替わりで藤野が村崎の机に歩み寄った。
 さっそく捜査の段取りを考えながら通路を戻る時生に、「すみません」と男が声をかけて来た。
「剛田くん。どうかした?」
「今夜、南雲さんの歓迎会をやるつもりなんですけど、いつもの居酒屋で大丈夫ですか?」
 剛田力哉巡査長は刑事課の新人で、歳は二十六。名前は雄々しいが、本人は細身で色白のイケメン。しゃれたスーツに身を包み、髪はさらさら、肌はすべすべ、爪までつやつやだ。「趣味は美容。むさくて怖い刑事のイメージを変えたい」という目標はさておき、職務にも熱心で、流行りものやITに強い。
「せっかくだけど、やめておいた方がいいよ」
 時生の答えを聞き、剛田はきょとんとしてさらに問うた。
「何でですか? おしゃれなレストランの方がいいとか?」
「いや。南雲さんは飲み会には一切参加しないから。自分が主役だとか、何かのお祝いだとかは関係なし。そういう人なんだ。休日の遊びや署のサークルも、誘うだけ無駄だよ」
「そこまで徹底してると、逆に気持ちがいいですね。僕、好きかもです」
 小首を傾げて語った後、剛田は「ていうか、よく知ってますね」と不思議そうな顔をした。時生は笑ってごまかし、「じゃあ」と言って歩きだした。通路の先に見える南雲の席には既に主の姿はなく、スケッチブックもなくなっている。時生が自席に着くのを待ち構えていたように、向かいで井手が言う。
「警部補殿、やるな。課長の腰巾着の係長を黙らせた」
「腰巾着って。言い過ぎですよ」
 部屋の奥を気にしながら時生が返すと、井手は話を変えた。
「小耳に挟んだんだが、警部補殿と組んで仕事をしたことがあるんだって? お前も、以前は本庁の捜査第一課でバリバリやってたんだもんな」
 小耳に挟んだんじゃなく、調べたんでしょ。突っ込みは浮かんだが、いずれ知られることだと頭を切り替え、時生は笑顔で返した。
「昔の話ですよ」



 牛乳、イチゴジャム、焼肉のタレ……。
 エコバッグの口を開き、時生は中身を覗いた。買い忘れがないのを確認し、「よし」と呟いてエコバッグを片手に提げ直す。顔を上げ、外灯に照らされた通りを歩き続けた。時刻は午後八時前で、傍らに建つ家からはテレビの音声が漏れ流れてくる。
 家の前に着き、門扉を開けて玄関に進んだ。片手でノブを掴んで廻すと、何の抵抗もなくドアは開いた。またか。がっくりとうなだれながらも「ただいま」と声をかけ、時生は家に入った。とたんに奥のドアが開き、「パパ!」「おかえり」と絵理奈と香里奈が廊下を駆け寄って来た。二人ともパジャマ姿で髪を肩に下ろしている。
「ただいま。お風呂入った? ご飯は?」
 靴を脱ぎながら問いかける。絵理奈が「入った」と頷き、香里奈が「食べた。ハンバーグ」と答える。「よかったね」と返し、時生はまとわりつく双子と一緒に廊下を進み、ダイニングキッチンに入った。「ただいま」と声をかけ、テーブルにエコバッグを載せる。
「おかえり!」
 隣のリビングで、元気のいい声が応える。奥の液晶テレビの前の床に有人が座り、ゲームをしている。ワンテンポ遅れて、
「お疲れ」
 という愛想も抑揚もない声を返したのは、手前のソファに座った女。俯いてスマホを弄っている。時生の姉・仁美だ。まず有人を「テレビに近すぎるぞ」と注意し、時生は仁美の背中に告げた。
「姉ちゃん。また、玄関のドアのカギをかけ忘れてたよ」
「あっそう。家の中に人がいるんだからいいじゃん」
 スマホを弄り続けながら仁美が返す。エコバッグの中身をテーブルに出し、時生はさらに返した。
「ダメだよ。居空きっていって、住人が在宅中でも侵入する泥棒はいるんだから」
 すると仁美は顔を上げ、くるりと振り向いた。
「でもさ、ドラマなんかだと『ただいま~』ってドア開けてるじゃん。カギがかかってる家なんて、見たことないよ」
「何だよ、その理屈」と呆れながらも、時生も仁美を見て応えた。
「ドラマはドラマ。時間がもったいないとか、事情があるんだろ。とにかくカギはかけて。現役の警察官の家が泥棒に入られたりしたら、ご近所に示しが付かないから」
 すると仁美は時生を睨み、舌をべえと出してスマホに視線を戻した。子どもかよ。思わず言ってやりたくなった時生だが、双子が「牛乳飲みたーい」と寄って来たので堪える。
 仁美は四十一歳。離婚をきっかけに時生の家に押しかけてきて以来、家事と子どもたちの世話をするという名目で一緒に暮らしている。しかしもともとガサツでズボラな性格のため、役に立たない。そこそこ整った容姿なのに、いつもすっぴんで髪はボサボサ。着ているものも、色の褪せたスウェットの上下だ。
 双子のためにグラスに牛乳を注いでいると、波瑠がダイニングキッチンに入って来た。ピンク色のTシャツにデニムのハーフパンツという格好で、手に空のグラスを掴んでいる。グラスをシステムキッチンの天板に置き、冷蔵庫からペットボトルのオレンジジュースを取り出すその横顔に、時生は言った。
「波瑠、ただいま」
「……ああ」
 振り向きもせずにそれだけ返し、波瑠はペットボトルを出してグラスの脇に置いた。「ただいま」には、「おかえり」だろ。また言ってやりたくなった時生だが、「口を利いてくれるだけマシだ」という井手の言葉を思い出し、家族に告げた。
「じゃあ、パパは部屋に行くね。夕飯は食べて来たし、お風呂は寝る前に入るから」
「やだ~」
「パパと遊ぶ」
 牛乳入りのグラスを手に、双子が訴える。と、また仁美が振り向いた。
「絵理奈も香里奈も、おばちゃんと遊ぼう。パパはお勉強。来年こそ警部補の昇任試験に合格しないと、ご近所に示しが付かないから」
 最後のワンフレーズを当てつけがましく言い、ひひひと笑う。むっときた時生だったが、「パパ、がんばるから」と双子に笑顔を向ける。双子が仁美のもとに行き、時生はドアに向かった。すると後ろから波瑠に、
「がんばっても、ママは戻って来ないよ」
 と言われた。低く小さいが、尖った声だ。立ち止まり、時生は振り返った。グラスにオレンジジュースを注ぐその背中に何か返そうと口を開いたが、言葉が浮かばない。無力さと悔しさが胸を突き上げ、負い目も感じた。その全てを呑み込み、時生は前に向き直ってドアを開け、ダイニングキッチンを出て二階に上がる。短い廊下の手前が時生の部屋だ。
 ドアを開けて明かりを点け、部屋に入った。広さは六畳で、壁際にベッド、奥の窓の前に机と椅子が置かれている。室内を進み、時生はまず窓を開けた。外気が入って来て、むっとしていた部屋の温度が下がるのがわかる。
 視線を落とし、時生は机上のノートパソコンとその前に広げた警部補昇任試験の問題集とノートを見た。しかしすぐに視線を動かし、壁に立てかけられた金属製の細く長い棒を取って身を翻した。部屋の中央に移動し、天井を見上げる。天井の一角には縦一メートル、横五十センチほどの扉が作り付けられていて、そこには丸い穴の開いた金具がはめ込まれている。小屋裏収納の出入口だ。
 時生は腕を上げ、扉の金具の穴にL字型に曲がった棒の先端を引っかけて手前に引いた。乾いた音を立てて扉が開き、裏に折りたたんで収納されていたアルミ製の梯子が現れる。両手で梯子を掴んで伸ばし、床に下ろす。梯子の一段目に片足をかけてから振り向き、耳を澄ました。階下から子どもたちの声や物音は聞こえるが、この部屋にやって来る気配はない。
 よし。心の中で呟いて気持ちを切り替え、時生は梯子を踏んで小屋裏収納に上がった。

 

(つづく)