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ぶはあ。
記者席のハセガワは呼吸を再開するかのごとく濁った息を吐き出した。
「汚ねえ奴らだ」
「みんな……凄いよ。よく持ち堪えたよ」
隣のアタリはもう泣きそうだ。
試合に出ているわけでもないのに、腕や肩などの筋肉に痛みを感じている。ハセガワはノートの上にペンを乱暴に投げ捨てた。
「厳しいトレーニングの成果が肉体も精神もギリギリのところで支えているんだ。立知花監督のおかげだよ」
「だけど酷いやられ方です。まるで地獄の苦役だ。僕かぁ悔しくて悔しくて……」
「やられっぱなし、だもんな」
ハセガワはモニターをコツンと叩く。
「こいつも汚染されている」
ええ、とアタリも恨めしくモニターを見つめる。
「僕も気付きました。テレビ中継にもバイアスがかかってますね」
「中継スタッフがアルゴルの配下にある。ここに来てよくわかった」
スカイボックスにある液晶の4K画面には前半のハイライトが流されていた。
「全体を通して巧みなスイッチワークが施されている。ショッキングな場面があれば、家族連れの笑顔や投げキッスを振る舞う美女の映像に差し替えて、スコルピウスが視聴者に見られたくないものは決して映されない」
ハセガワは土産に貰ったヴィンテージワインをドボドボとワイングラスに注いだ。
「フレーミングも抜群だから、これだと悪質なファウルでも反則だと気付かれませんね」
そうなんだ、ハセガワはコップ酒を呷るようにワインをゴクゴクと喉に流し込んだ。
「リプレイ映像はジャッジが正しいと証明されたシーンだけを繰り返し再生しているから、この審判は激しいプレーもよく見極めている、上手いという印象を刷り込んでいる。視聴者は危険なファウルもミスジャッジもないと思うだろうな。いやあ、良く出来てるねえ、この作戦は」
ハセガワはまたワインをグラスに注ぐ。
「ハセガワさん、思い出した……」
アタリの声は少し震えていた。
「ああ? どうした」
「名前がまるで違うのでわかりませんでしたが、見たことがある選手が三人います。今、映像で確信しました」
「どいつだ? どこか辺境のリーグで見たってことだな」
「はい。囲い込んで潰したり、肘や膝を脛に当てて砕いたり、酷いファウルを重ねたことでみんな追放されたはずなんです。関節技で骨を砕く“アナコンディア”という技の遣い手もいます」
「お前、そいつらの写真やビデオは持ってるのか」
「あります、多少は。わかっていたら事前に資料を立知花監督に渡せたのに。悔しいです。僕たちの情報は間違っていたんですね」
「なんでかな。どこで間違えたのかな。だが、お前の話ではっきりした。スコルピウスは俺たちが考えていた以上に危険な選手を揃えたということだ」
エストレージャのドレスルームは包帯やガーゼが無秩序に散乱し、さながら野戦病院といった有様だった。
何から話すべきか。立知花は逡巡していた。
「MSF(国境なき医師団)として出掛けた紛争地域を思い出すのう」
消毒液の臭いが立ち込める中、ドクターの奈良丸は大声で笑い、乱暴だが手際良く治療を行っていた。
「ほお、お前は運がいい。大腿部の肉をザックリえぐられるとこじゃったな。だが、これなら後半もやれんことはない。ほれ、ぐわ~っと吸え、酸素を。ぐわ~っと。痛みを堪えていると吸い込めんぞ。こら! そこのお前は氷水に足首をつっこんでおけっ!」
元気付けようと明るく振る舞っているのか、血だらけの怪我人の治療が楽しいのかはわからなかったが、奈良丸がいることで重苦しい雰囲気は和らいでいた。
まったく駄目な監督だ。だが、ここは選手達に素直に詫びた上で、もう一度信じてもらうしかない。
「さて、と」
床に座り込んだ選手達に楽にするように言って立知花は話し始めた。
「まず、言いたいのは……、あいつら“汚い”けど“巧い”な」
まずは謝罪だ、と決めていたのに、思わず本音が出てしまった。
たちまちヴァッサーマンが苦言を呈す。
「感心している場合ではないだろう。しかるべき抗議をすべきだ」
「はん!」
馬鹿を言うなと思った。この際、本音で話すべきかもしれない。却って勢いがついた。弱気な発言で動揺させては命まで落としかねない。
「こんな経験はなかなかできんぞ。男の勝負だ。性根を据えろ。相手が世界最高のフットボールをしているわけではないが、この激しさは無視し難い。こういう試合の重要性をまず理解しろ」
そうだ、これでいい。自分を鼓舞しながら、がなるようにしゃべり続ける。
「相手の強さは買収された審判がいるから、と考えるな。誰が審判でもバレない反則は反則ではない。できるなら高いレベルでやり返せ。ある程度は鈍感になることも大切だ。いちいちジャッジに反応していたら頭が疲れて二倍消耗するぞ」
それから、立知花はスコルピウスが極めて正確な情報に基づいて訓練を積んでいることと、その戦術的な特徴をかい摘んで伝えた。
「奴らは完膚なきまでに我々を潰し、心を折るつもりだ。だが、そうはさせるか。確かに丸裸だ、前も隠せないほど研究されている。普通なら玉砕しかないだろう。だがな、わしらだってタフなチームだ。勝負は二つのゲームで決するものだ」
立知花はありったけの情熱を込めて語り続ける。
「勝ち上がるんだ。世界を渡っていくお前達は、決定的なゲームに負けてしまうというDNAを持ってはいけない」
そして、一人一人の顔をゆっくりと見渡した。
「いいか、最優先すべき約束だ。スリートップは下がるな。守備のために中盤に戻ることは断じて許さん。最前線に留まってゴールを奪うことだけを考えろ」
サターナとヴァッサーマンが渋い顔を見合わせた。ハルは目を吊り上げ、唇を尖らせたが、黙って聞いている。ラフィはあからさまにため息をついた。
「監督の仕事は試合に向けてどう準備するかということだ。その点は謝罪する。――もう時間がないな。奴らはどこかのタイミングで攻撃にシフトする。後半の立ち上がりには特に気をつけろ」
もうピッチに送り出さないと、そんなサターナの視線を感じて立知花は締めくくった。
「アタッカー三人で二点取れ、そうすれば明日が見えてくる。いいか、いつも誰かのために走るんだ」
バシン、と掌を合わせた分厚い音に続いてドスの利いたサターナの号令が響く。
「時間だ! 戦ってこい。身につけたすべての知識と技と体力を駆使して対処しろ。以上だ」
手負いの選手達は、おお! と声を出して立ち上がり、気持ちを前面に押し出そうと力強く歩き出した。
ヴァッサーマンはいつも通り教え子の肩を抱く。
「フェルナンド、お前の出番が来る。せめてクリーンシートを持ち帰ろう。それでエストレージャには立て直しの機会が与えられる。これはお前にしかできないことだ」
「師匠、あなたの信頼に応えてみせます」
フェルナンドは豊かな髪をカチューシャで留め直すルーティンを行った。
「そうだ、どんな試合でもゴールキーパーが主役だぞ」
背中を叩いて送り出したフェルナンドの後ろでヴァッサーマンは十字を切った。
口をへの字に曲げた立知花の横に、無表情のサターナと厳しい顔のヴァッサーマンが立った。
「本当に二点が必要か?」
サターナが前を向いたまま聞いてきた。
「そう思い続けなければ集中が途切れて危険だ」
「中盤から後ろは見殺しか? 非情の采配を日本では鬼と言うそうだな」
「わしは出来損ないの鬼だが、この勝負に負けるわけにはいかんのだ」
立知花はペットボトルの水を口にした。「本当にいたらない。こんなことだから実戦より育成の監督と言われるんだ」
「大丈夫さ」ヴァッサーマンが口を挿む。
「私たちの育てた選手を信じよう」
「そうだ、大丈夫だ」
不安を打ち消すようにサターナが大声で言った。
わしも選手たちを信じている。だが……、できればもう一人、ずば抜けた闘争心をチームに伝播させられる鋼の心と身体を持った選手がいてくれたら。
立知花は震える手で掴んでいたペットボトルを握り潰した。
アウェイゲーム前半を満身創痍で終えたエストレージャFC。はたして逆転のチャンスはあるのか!?
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