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 その日も、向日葵は臙脂の暖簾を店先にかけた。

 祖父母の代から使っているので色あせて、生地もよれている。けれども、見慣れたものなので新しくする気にはならなかった。

「うぅー……寒っ」

 向日葵は両手をこすりあわせて温めながら、店内に入った。ちょっと外へ出るだけだからと、上着を羽織らなかったらこれだ。雪があまりふらない地域とは言っても、二月はさすがに寒い。

 身を震わせながら、向日葵は厨房へ入った。鉄板が熱いおかげで、身体が温まる。そのうち、汗だくになるのだけれど、この瞬間ばかりは鉄板に感謝した。

「こんばんは」

 早速入店したのは、竹下だった。

 中華料理店の制服に筋肉を詰め込んで、紙袋を手に提げている。竹下が持つと、なんでも小さくて可愛く見えた。

「いらっしゃい。どうしたの? こんな時間に珍しいじゃない」

 向日葵が何気なく問うと、竹下は紙袋を示した。

「今日はお裾分けっす。うちのお客さんから差し入れなんすけど、食べきれないんで」

 紙袋を受けとると、もみじ饅頭であった。宮島発祥の銘菓で、もみじの形をしたカステラ生地に、こしあんが詰まっている。広島県にとどまらず、日本全国に知れ渡る菓子だ。

「甘いもの、好きなんじゃないの?」

「うち、親父もお袋も糖尿病を気にしてて。さすがに、三箱を一人で食べるのは無理なんですよね。バイトの子も、やめちゃったし」

「あー、なるほどね。二箱は一人でイケるんだ?」

 向日葵は笑いながら、紙袋を受けとった。

「揚げもみじ饅頭にしたら、美味いんで」

「ウイスキー垂らすのも最高だよ」

「いいっすね、それ。やってみます」

 食べ慣れた味ゆえに、向日葵はアレンジメニューも楽しんでいる。竹下も同じようで、意気投合してしまった。

「じゃ、店あるんで」

「はいはい、ありがとうねー」

 足早に去る竹下に、向日葵はひらひらと手をふった。

 しかしながら、あれだけ甘いものを食べていても、竹下は太らないどころか筋骨隆々だ。体質なのだろうか。本人は不服かもしれないが、うらやましい。そういえば、桂斗も割と頻繁に来店して気にせず居酒屋メニューを頼んでいるのに、こちらもスタイル抜群。

 持って生まれたものがすべてとは思わないが、体質ばかりは努力ではどうにもならない。向日葵は運動していないと脂肪が気になる。されど、運動すると筋肉がついてしまう。可愛い服が似合う華奢な体格になるのはむずかしい。

 人間、ないものばかりが欲しくなる。

「……こんばんは」

 向日葵が一人で嘆息していると、ドアチャイムと同時に引き戸が開く。

 紅葉だった。頬を桃色に染め、グレーのマフラーを首から外している。暖かい室内へ入ったせいで、眼鏡が曇って表情がよく見えなかった。

 それでも向日葵には、紅葉の声が沈んでいるのがわかる。

「紅葉ちゃん」

 昨日、紅葉の話を聞けなかった。そのことが、ずっと引っかかっていたのだ。

 昔から、困っている人に声をかけずにはいられない。母親譲りのお節介だ。放っておいたほうがいいのに、そうしてしまう。

 でも……向日葵が好きな『ひなたぼっこ』は、そういう店だ。

 お客さんの話を聞くのは、母から引き継いだ向日葵の役目であった。いつだって、温かく安らげる場所にしたい。

 向日葵にとって、みんな家族のようなものだから。

 母・菊美は向日葵を女手一つで育ててくれた。早くに父が亡くなった向日葵にとって、家族と呼べるのは母と祖父母だけだ。幼いころから、店の奥の座敷で遊んでいたし、小学校にあがると手伝いもはじめた。

 祖父母は亡くなり、母は旅行中。家を守るのは向日葵の責任である。

「なにかあった?」

 向日葵は紅葉に手を差し伸べる。

「え……っと」

 紅葉は戸惑ったように目を伏せてしまった。

 一瞬だけ向日葵を見て、なにかを訴えかけようとして口を噤んだ。

 向日葵は、紅葉の懸念を察する。

「ご両親には、絶対言わない」

 紅葉の事情は知っている。なにか問題やトラブルがあれば、アイドル活動をやめさせられてしまうと、恐れているのだ。

「一人でなんとかできる話なの?」

「それは……わたしが……」

 紅葉の唇が震える。綺麗な声が崩れて、頬に涙がこぼれた。紅葉の表情が、いままで見たことがないくらい歪んでいる。必死で涙を堪えて、声を抑えて泣いていた。

「わたしが悪いんです!」

 顔を手で覆って、紅葉はその場に泣き崩れる。

 何度も何度も、同じ言葉を繰り返しながら。

 

 店の表には、「本日貸し切り」の札をかけておいた。

「落ちついた?」

 店の奥には座敷が一間ある。向日葵は座敷に座った紅葉に、温かいお茶と菓子を出す。

 もみじ饅頭だ。さきほど、竹下がお裾分けしてくれた品が役に立った。

「……はい」

 紅葉はタオルハンカチで涙を拭いながら、小さくうなずいた。嗚咽はおさまったようだ。

 外していた眼鏡をかけて、紅葉は顔をあげた。

「泣いちゃって……本当にすみません」

 さきほども、紅葉は「わたしが悪いんです」と言っていた。繰り返し、繰り返し……まるで、自分を責めているかのように。

「紅葉ちゃん、話を聞いていい?」

「……悪いんです。わたしが」

 紅葉は暗い顔でうつむきながら、鞄に手を伸ばし、中身を取り出す。

 教科書とノート、ペンケースに……それから、折りたたまれた便箋。『めぇ〜ぷるず』が公式に販売しているものだ。隅に、手でハートを作って笑う紅葉の姿が印刷されている。

「これは?」

「……わたしの……自宅のポストに入っていました。帰ったら、いつもわたしが確認するんです。消印がないので、郵便じゃなくて直接入れたんだと思います……」

「見てもいい?」

「おねがいします……」

 向日葵は便箋に手を伸ばす。

 そこには歪な文字が並んでいた。

 おそらく、左手で書いたのだろう。よく目を凝らさなければ、文字が読みとれない。

「なにこれ」

 内容を読解して、向日葵はさらに眉根を寄せた。

 

 いつも もみじを みている

 ステージの もみじは キラキラしてる

 ほんとうの あこがれ

 わたしの ほし

 だけど ステージの そと きらい

 うつむいてる あなたが きらい

 だいきらい

 もっと かがやいて

 うたも ダンスも がんばって□

 

 最後の一文字はペンが震えていて、とくに読みにくい。はっきり言って、ミミズが這ったような文字だ。最後の最後に、気が抜けたのか、力んでしまったのか。

「最後って、なんて書いてるんだろう……」

 向日葵が指さしながら問うと、紅葉は目を伏せる。

「たぶん、【よ】だと思います……」

「なるほど?」

 紅葉の返答を受けて、向日葵は改めて目を凝らす。たしかに、文脈から「がんばってよ」と読めるような気がした。

 前半では紅葉が好きだと伝わってくるが、後半には「だいきらい」と書かれている。しかも、ステージをおりた紅葉について言及していた。

「これって、アイドルじゃない紅葉ちゃんも、見てるってこと……?」

 不安になりながら問うと、紅葉はこくりとうなずいた。

「わたし、お仕事のときは、スイッチが入るっていうか……ちゃんとしてるつもりなんです。スポットライトが当たると、べつの自分になれる気がして……」

 アイドルとしての紅葉は、向日葵から見ても自信に満ちあふれていて、キラキラしていた。声を張って歌い、ダンスも堂々としている。

 けれども、普段の紅葉は自信がなさそうで奥ゆかしい。いつもうつむいている印象だ。

 つまり、この手紙……いや、怪文書の送り主は普段の紅葉を知っている。そのうえで、「もっと かがやいて」と、注文をつけているのだ。

 ストーカー。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

「昨日も、誰かにあとをつけられていたみたいなんです……でも、ストーカーがいるなんて知られたら、アイドルやめろって親に言われるかも……」

 ご両親に心配をかけたくない気持ちはわかるが、ストーカーは警察に相談したい。だが、警察に相談したからといって、被害がなくなるとは言い切れなかった。いいところ、巡回が増える程度だ。歯がゆい問題である。

「わたしが悪いんです」

 紅葉がまたぽつりとこぼす。

「歌もダンスも未経験からはじめたから、みんなより出遅れていて。なのに、センターなんて大役……いま、『めぇ〜ぷるず』に人気があるのは知ってます。ありがたいことです。わたしがしっかりしなきゃいけないのに……わたし、全然完璧じゃないんです」

 紅葉は再びうつむきながら吐露する。

「ストーカーに狙われてるなんて言い出したら、事務所にもみんなにも迷惑がかかります。ただでさえ、お荷物なのに……」

「そんなこと──」

「そんなことあるんです。わたし、全然できてない!」

 徐々に紅葉の声が大きくなっていく。瞳が揺れて、また泣き出してしまいそうだ。

 これは……冷静ではない。向日葵は、そう分析した。

 この状態になっている人間に、いくら「大丈夫だよ」と言っても無駄だ。なにも響かないし、届かない。ここで無理矢理わからせることなんて、できやしないのだ。

「……わかった」

 向日葵は短く言って、紅葉に改めて向きなおる。正座したスカートのうえで、ギュッと丸められた拳を、向日葵は両手で優しく包んだ。

「ご両親には言わない。でも、ストーカーの対処はしなきゃいけないね」

 紅葉にも受け入れてもらいやすい言葉を選びながら、向日葵はできるだけゆっくりと話した。

「うちの二階に寝泊まりするのは、どう? お母さんが使ってた部屋が空いてるから。事情を話せば、きっと許可してくれるよ。ご両親には、テスト勉強に集中したいって言おう。来週から学年末テストでしょ?」

 そう説得すると、紅葉から徐々に興奮が抜けていく。

「わたしが守ってあげる」

 紅葉をのぞき込みながら、向日葵は口角を持ちあげた。

 元空手部主将の出番だ。無論、基本的に寸止めなので、人を殴ったことはない。ただ、ストーカーの撃退くらいはできるだろう。社会人になってからも、毎日早朝、平和記念公園までジョギングしている。

 紅葉は悩んでいるようだった。唇を引き結んで、目を伏せてしまう。

「……おねがいします」

 けれども、ほかに案はなかった。紅葉は向日葵の提案を受け入れる。

「ほら、大丈夫だよ。心配しないで。もみじ饅頭でも食べる?」

 向日葵はお菓子を示す。地元の人間には馴染み深い味だ。

 紅葉はうつむいたまま、もみじ饅頭を見つめている。食べる気分ではないと言いたげだった。

「よし、魔法をかけよう」

 向日葵は元気よく言って立ちあがる。もみじ饅頭を持って、厨房へと急いだ。紅葉は不思議そうに首を傾げながら座っている。

 しばらくしてから、向日葵は座敷へ戻った。

「じゃん!」

 もみじ饅頭の個包装を破って、皿にのせただけではない。

「レンチンしたあとに、軽く表面を焼いたんだよ」

 もみじ饅頭は温めると、楽しみ方がガラリと変わる。そのまま食べるのもいいが、向日葵はときどきこうして楽しんでいた。

「あとね、これ。バター」

 向日葵は笑いながら、温かいもみじ饅頭にバターを一かけのせる。すると、黄色いバターが少しずつ、じわじわと溶けはじめた。

 感情を押し殺したような、紅葉の目の色が徐々に変化する。笑顔とまではいかないが、瞳に輝きが宿った。

「ほら、美味しいよ?」

 向日葵は自分のもみじ饅頭を口に運ぶ。温まった生地はふわふわでやわらかい。餡子の甘みが増しているが、溶けて染みこんだバターの塩気が中和してくれる。表面を鉄板で焼いたおかげで、香ばしさもプラスされていた。

「いただきます」

 紅葉も向日葵に続く。熱々のもみじ饅頭を指でつまみあげて、ふうふうと息を吹きかけていた。

「……美味しい」

 紅葉の気持ちが少しでも和らいだなら、よかった。

 彼女が直面している問題はむずかしいものだ。

 けれども、目の前に困っている人がいるのに、放っておけない。

 紅葉はわたしが守ると、改めて心に誓った。

 

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