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 鉄板焼き屋『ひなたぼっこ』は、十七時開店だ。

 向日葵は店の前で背伸びする。

 二月の日没は早い。白い吐息を漏らしながら空を見あげると、茜と藍が混ざりあい、美しい色彩を作りあげていた。あいにく、周囲はビルやマンションが並んでいるので、夕焼けの太陽は確認できない。だが、薄い紫色に染まったグラデーションは、狭い空の隙間からでも堪能できた。

 ランチタイムの営業をしていた時期もあるのだが、菊美が膝を悪くしてからは夜の営業のみとなった。向日葵が正式に店を継げば、そのうち復活させるかもしれない。

 お店は広島市の中心部。広島城へと至る鯉城通りからは、少しばかり西に入っている。広島電鉄宇品線の市役所前駅と中電前駅、どちらからも似たような距離に位置し、マンションと金融会社のオフィスが多く並んでいた。観光客の一番多いエリアではないものの、平日ランチの需要は高い。

 店の売りあげを考えるなら、ランチ営業はしたほうがいいだろう。しかし、向日葵が一人で店を切り盛りしはじめて間もない。急いで利益を取りにいくよりは、営業の地盤を固めるのが先だった。

 菊美は個人的な資産で旅行へいったが、向日葵の貯金はあまりない。店の資金に余裕はあるけれど、物価もあがっていることだし、なにか手を打ちたいところではある……。

「やるか」

 向日葵は店の前を箒で掃除する。一人での営業をはじめて間もないせいか、我ながら独り言が多い。寂しいわけではないが、話し相手がいない環境に、口が不慣れなのだ。

「こんばんはー」

 道行く人々が、向日葵にあいさつしてくれる。この辺りはマンションが多く建ち並んでおり、昔からの住民ばかりではない。しかし、こうして毎日、似た時間に掃除をしていると、よく顔をあわせる人も増える。店のお客さんばかりがつきあいではない。

「こんばんは……」

 手早く掃除を済ませた向日葵の背に、小さくて可愛らしい声が投げかけられる。

 向日葵の見知った少女であった。

 鹿野紅葉。制服から見える手脚が、抜群のスタイルを誇っている。ただ痩せているのではなく、健康的に引き締まった、若さあふれる美少女だ。制服は近所にある高校のものなのに、テレビドラマの世界から飛び出してきたかのような立ち姿であった。

 くるりと大きな目と、ぱっちりとあがった睫毛は、化粧をせずとも愛らしい。黒縁の眼鏡越しにも、魅力が伝わってくる。

「いらっしゃい! 紅葉ちゃん、今日も可愛いね」

 向日葵は店の引き戸を開いてみせる。内側につけたドアチャイムの音が、紅葉を迎えた。

 紅葉は恥ずかしそうに目を伏せながら、店の暖簾を潜る。白い頬を桃色に染める様が奥ゆかしい。

「お世辞はいいですよ……向日葵さんのほうが、素敵だと思います」

 完全なる謙遜だ。紅葉の言葉こそが、お世辞であると向日葵は息をついた。

 向日葵なんて、長く伸ばした髪を首のうしろでシンプルに一括り。どうせ崩れるからと、ファンデーションを塗って眉毛を描いただけの簡単な化粧しかしていない。

 それでも、気休め程度のお洒落のつもりで、襟と肩にフリルのついた花柄のブラウスを着ている。ワイドデニムの足元も、フリンジでふわふわしていた。そのうえから、赤いエプロンをつけているので、大して目立たないが。

「服が素敵? ありがとうね!」

 向日葵はニカッと笑って親指を立ててみせる。

 だが、紅葉は眉根を寄せた。

「服は……はい。可愛い、ですね」

 もじもじと目をそらしながら、紅葉はテーブル席に荷物を置く。

 店の奥側に設えられたテーブル席は、彼女の定位置であった。高校指定の鞄から、筆記用具やノートを取り出す。

「いつも綺麗で素敵なお姉さんって感じで……わたしも、向日葵さんみたいにしっかりした女性になりたいです」

 十代の紅葉には、向日葵が自立した大人にでも見えているのだろう。

「大丈夫でしょ。紅葉ちゃんは学校行きながら、アイドルもやってるし。充分、しっかり者だよ。わたしの高校時代なんて、なんの自慢にもならないからうらやましい」

 言いながら、向日葵は店に飾られたポスターを示す。赤い服を着た女の子がにっこり笑って、両手でハートマークを作っていた。

 紅葉は、ご当地アイドル『めぇ〜ぷるず』のセンターを務めている。結成二年目。高校生のメンバーで構成されており、地域のイベントや広報等で活躍していた。広島の大手飲料メーカーのテレビCMにも出演を果たしている。素人の目から見ても、勢いのあるグループだ。

 ポスターで笑う紅葉は、とにかくキュートでキラキラと輝いていた。全国放送のテレビ番組に映るアイドルたちと並んでも遜色ない。

 とくに、メンバーカラーが赤なのが最高だ。赤を背負う者を、向日葵は全力で応援したい。

「向日葵さんの高校時代の話、聞きたいですけどね……空手部の主将だったって、菊美さんから聞きましたよ」

「そうだったけど……そんなの自慢でもなんでもないよ?」

「……すごいですよ。自慢してください。全国大会行ったんでしょう?」

「そうかなー? 優勝できなかったし……」

 余計な自分語りをしたくなくて、向日葵は笑って誤魔化した。アイドル活動をする現役女子高生に聞かせるエピソードなどない。もう十年以上は前の話だ……って、もう? 頭の中で、指折り数えて向日葵は静かに絶望した。いくらなんでも、時が経つのが早すぎる。

「そのうち聞かせてください」

 向日葵が打ちのめされている傍らで、紅葉は教科書を広げていた。

 紅葉は高校生をしながら、ご当地アイドルの活動を行なわなければならない。公私ともに充実しているが、多忙だ。学校の成績を落とせばアイドル活動も休止と、事務所の規約にもあるらしい。

 紅葉は『ひなたぼっこ』を、自習室に使っていた。これは、向日葵の母である菊美の厚意である。週一回の塾もあるが、それ以外の自習に店の使用を許可していた。紅葉によると、静かすぎる図書室や、誘惑の多い自宅よりは集中できるらしい。高校がすぐ近くなので、通いやすいという利点もある。

 紅葉は向日葵の従姉妹だ。しかし、親族ゆえの特別待遇でも、甘やかしでもない。『ひなたぼっこ』の店主たる菊美は、お節介が好きな性分だった。それだけだ。

「今日は……」

 向日葵は、腕まくりした。ブラウスの袖が落ちてこないように、ゴムで留めておく。

 がんばる若者向けに精のつくメニュー。紅葉は細くて奥ゆかしいけれども、食欲旺盛だ。

 紅葉に提供する飲食代は、ご両親からすでにいただいている。自習室代わりにする利用料も含まれていた。その範囲内で、向日葵がメニューを選ぶのが常だ。

 向日葵は手際よく、冷蔵庫から食材を取り出す。鉄板は温まっているので、いつでも調理可能だった。

 さきに、深めの皿にごはんを綺麗に盛っておく。じゅわー……と、熱い鉄板のうえでバターが溶けて跳ねる音。教科書を読んでいた紅葉の視線が、一瞬、こちらに向けられる。少し遅れてやってくる食材の匂いに、唾を呑み込んでいた。

 鉄板に広がったのは、とろとろの卵液だ。生クリームを混ぜ込んでいるので、白っぽくてコクがある。

 向日葵は両手に構えたヘラで、卵を手早くかき集めた。満遍なく火がとおるように、よく混ぜる作業も含まれている。また、空気を含ませることでふわふわの仕上がりになりやすい。

 シャッシャッシャッと、鉄板のうえに素早くヘラが滑る音が響く。そうしているうちに、卵液が少しずつ、一塊になっていった。向日葵はていねいに、しかし迅速に、卵の形を整える。

 ふわふわで、ぷるんぷるんのプレーンオムレツ。ヘラでひっくり返すと、スライムのように震えた。

 向日葵は綺麗なオムレツを、ごはんにのせる。

 最後の仕上げは、デミグラスソース。小鍋に入れ、鉄板のうえで温めておいた。肉の切れ端を煮込んだ特製ソースは、母の直伝だ。ハッシュドビーフのように、単体でシチューとしても楽しめる。

 ソースをたっぷりかけると、ごはんが沈み、盛りあがった卵が島のようだった。生クリームで白い模様を描き、パセリを散らすと……ふわとろオムライスが完成する。

「紅葉ちゃん、どうぞ」

 向日葵は、オムライスを紅葉の席へと運んだ。すでに、紅葉の視線は教科書から外れ、オムライスに釘づけであった。

「いつも、ありがとうございます」

 紅葉はひかえめな声で言いながら、教科書を閉じる。

「いただきます」

 銀色のスプーンが、卵をひとすくい。ふわとろの卵があふれ出て、デミグラスソースと混ざりあう。紅葉は小さな唇で、ふーふーと息を吹きかけた。

「あふ……」

 はふはふと、口から白い湯気を漏らしながら、紅葉がオムライスを咀嚼する。

「美味しい。卵がとろとろで、ソースもシチューみたいで……これ、飲み物ですか?」

 今日初めて、紅葉が笑った。さすがはアイドル。笑顔がまぶしすぎて、同性ながらキュンと胸が疼く。そして、食レポが上手い。

「いつもSNSに投稿したくなるんですけど……もったいない。もっと、お店が流行ってほしいのに」

「はは。そりゃあ、紅葉ちゃんのSNSで紹介してもらったら、バズりそうだけど」

 紅葉のSNSフォロワー数は、ご当地アイドルながら六桁を超えている。可愛い自撮り写真や、手作りお菓子などの投稿が人気で、県外のファンも多かった。

 しかしながら、自習室に使っている常連のお店を公開することはできない。通っている高校も近いし、紅葉のプライバシーのほうが重要だった。

「お客さんが増えるのは嬉しいんだけどね。急にたくさん来ても人を雇えないし。地道に稼ぐのが一番よ」

 同業者の間でも、SNSの効果は話題にあがる。一過性の流行りで終わることも多く、そうなると店がパニックになるだけだ。話題に踊らされる一見さんではなく、何度も足を運んでくれる常連客を増やしたいというのが向日葵の考えだった。

「人気が出ればいいってわけじゃ、ないですもんね……」

 紅葉は目を伏せた。

 その様が物憂げに感じられて、向日葵は引っ掛かりを覚える。紅葉はひかえめな性格ではあるが、元気のないときくらいはわかった。

「なにか、あったん──」

「こんばんはー」

 ドアチャイムと引き戸の音が響いた。

 

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