かつての大津波で、沖晴は《喜び》以外の感情を死神に差し出して生還した。高校時代、音楽教師の京香と出会ったことで心を取り戻したものの、がんを患っていた彼女は亡くなってしまった。

 そして時は流れ、社会人となった沖晴は東北に転勤となる。そこで出会ったのは、自分と同じように、死神と取引した過去を持つ喫茶店の店員・万智だった。

 

「小説推理」2026年11月号に掲載されたライター・あわいゆきさんのレビューで『沖晴くんは死神と笑う』の読みどころをご紹介します。

 

胸なんて夢と希望でふくらみません

 

■『沖晴くんは死神と笑う』額賀澪  /あわいゆき [評]

 

過去からいまへと向き直り、未来に進んでいく「恋愛」のはじまり

 

 人間には、五つの基本感情があるとされる。《喜び》《悲しみ》《怒り》《嫌悪》《怖れ》だ。これらの感情は、はっきりした形のある概念ではない。だからこそ、自分には欠けているのではないかと疑う瞬間がある。

 

 志津川沖晴は幼いころ、東北を襲った津波に吞まれた際に死神と取引し、生き延びるかわりに《喜び》以外の感情を失った少年だ。高校生になった彼は『沖晴くんの涙を殺して』で余命一年の音楽教師・踊場京香と出会い、欠けていた感情を取り戻した。

 

 続編となる本作では大人になった沖晴が、勤めている建築会社の再開発事業に携わることになり東北に転勤。その先で、《喜び》を失った大浪万智と知り合う。彼女も津波に吞まれた際に死神と取引したのだと知り、二人はプライベートでも交流するようになる。

 

 作中で繰り返し描かれるのは、自身に対する確信の持てなさだ。感情を取り戻して大人になった沖晴は、当時の自分が本当に《喜び》以外の感情を失っていたのか、単なる妄想だったのではと思う。また、亡くなった京香の声が時折聞こえてくるようになり、これも思い込みではないかと疑う。目に見えないものは確信を抱けない──沖晴は京香との思い出が詰まった過去の記憶を忘却してしまう、その可能性を怖れている。

 

 ただし、目に見えない感情だからこそ捏造できるものもある。自分自身への「噓」だ。沖晴は自分がいまも《悲しみ》を失っていると万智に噓をついてしまう。

 

 沖晴が噓をついたのは、万智を気遣ってのものだ。一方、沖晴には《悲しみ》を失っていると捏造することで、過去の出来事が妄想ではないと確信したい──京香との思い出を忘れたくない思いもあったのではないか。沖晴の噓は、過去を守るための噓でもあるのだ。

 

 しかし、万智は「いま」沖晴と接している相手だ。やがて沖晴は過去の自分を確かめようとするのではなく、いまの自分を見つめる。そして目の前にいる万智への想いに気づいていく。過去からいまへと向き直り、未来に進んでいく恋愛のはじまりが刻まれた一作だ。