「呼ぶ声」
池間さん(二十代・男性)は、一人暮らし用の物件を探していた。不動産屋に連れられて内見に訪れたのは、十階建てマンションの八階の部屋だった。
「うわ……」
ドアを開けた瞬間、池間さんは引いてしまった。
床が汚い。ホコリやゴミが散乱しているのに加え、フローリングのあちこちに黒ずみが付着している。
「まだクリーニング前ですから」
三十過ぎの男性の不動産屋はこともなげに言い、スリッパを池間さんの前にそろえる。
「どうぞ」
スリッパに足を通し、ゴミを避けて部屋の中に入る。間取りは1LDK。不動産屋の案内に従い、トイレやバスルームを覗いて回る。汚いが使い勝手はよさそうだった。
「おっと」
不動産屋が上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
「すみません。ちょっと電話に出てきます」
池間さんを置いて玄関から外へ出ていく不動産屋。別に一人でもいいやと思い、リビングへ進んでいく。広さは十分だが床が汚く、なんとなくピンとこない。この部屋はナシだ、と心の中で決めた。
(ん……?)
ふと壁の一部に目が留まった。穴が開いている。大きさや形、ヒビの入り具合から考えて、誰かが思い切り拳で殴りつけた跡のようだった。
(前に住んでたの、ヤバいやつだったんだな)
そう思いながらベランダのほうに進んでいくと、
──おーい
どこか遠くから男性の声が聞こえた。
──おーい、おーい、おーい
不動産屋が呼んでいるのかと思ったが、それにしては横柄な感じがする。外から聞こえているのかとベランダを見るが、どうもそんな様子がない。
部屋の中から聞こえているのだ、と思った。
(どこからだ?)
よく耳を澄ませて、はっとした。さっき見つけた、壁の穴から聞こえている。
──おーい、おーい、おーい、おーい
(気持ちわる……)
池間さんはすぐに部屋を出た。外廊下でちょうど通話を終えていた不動産屋に「ここはいいです」と告げた。
その日、帰宅してから穴のある部屋のことが気になった。
パソコンを立ち上げ、事故物件公示サイトを調べて凍り付いた。
あの部屋で、八年前に男性が一人、殺されていた。
(うわー、やっぱりあの部屋にしなくてよかった)
そう思った瞬間、ぷつぅ、とパソコンの画面が暗くなった。
(えっ、えっ……?)
焦る彼のすぐ背後から、声がした。
──おーい
「女と壁」
九月のある日、練馬区の馴染みのない町で雰囲気のあるコーヒーショップに入った。
カウンター七席、BGMはジャズ、おススメメニューは一杯一二五〇円。ほとんどバーのようなその店で、僕は七十代くらいの男性マスターに怪談話はないかと訊ねた。
「前に来ていたお客さんに、霊感があるっていう人、いましたよ」
マスターは天井を見上げ、ゆっくり話しはじめた。
その人は当時三十代の会社経営者で、名前を戸田さんという。身なりも話口調もしっかりした真面目な人だったが、たまに幽霊を見る話をしてくれたそうだ。
あるとき戸田さんは、一人で車を運転して家を目指していたが、急ブレーキを踏んだ。
(なんだ、これ?)
車の前に、ブロックを積んだ壁がそびえていた。今の今まで、確実に道だった。何度も通っている道なので、迷うはずもない。
瞬間、背中に氷のような寒気を覚えた。後部座席を振り返ると、見知らぬ女が座っていた。
(誰だ?)
女は口を開いた。
「みちがー、あぁーりませーんよおぉー」
テープをスロー再生したような、間延びした声だった。フロントガラスの前には壁。後部座席には女。
ためらう時間は一瞬だった。戸田さんは、アクセルを踏んだ。
壁は消え、いつもの道に戻った。だが、後部座席の気配は消えない。ルームミラーを見ると、女はまだ座って何かをつぶやき続けている。
そこから戸田さんは車を走らせ続けたが、同じ景色を三、四回、繰り返した。
「戸田さん、来なくなっちゃったなあ」
懐かしそうにマスターは言った。
この続きは、書籍にてお楽しみください