第1話 間取りのススメ 真奈美32歳
もし戻れるなら六年前に戻りたい。
うーんとりあえずまだいいか、そうだね子供のこともあるし二人でまたよく考えようよ。などと悠長なことを言って、みすみす機会を逃したあの頃の自分たちをグーで思いきり殴ってやりたい。
せめてあの頃だったらまだ手が届いたかもしれないのに。
宮下真奈美は先ほどまでのやり取りを思いだし、ふたたび血圧が上がるのを感じた。
予約したマンションのモデルルームは広告で見たままの雰囲気だった。
〝都会と自然の狭間に……静けさをまとう贅沢な空間〟
東急東横線の綱島駅から徒歩十分。
都心からのアクセスもよく周辺には緑も多い。
インテリアは清潔感に溢れていて眩いほど白いクロスに、床はオーク材のフローリング。リビングの壁の一部にはモザイクタイルが貼られ、間接照明の淡い光に照らしだされていた。
子供が生まれてからカオスと化している我が家のリビングとはまさに別世界だ。
ここで暮らせたらと夫の裕司とともにしばらく見入ったが、今はあのポエムチックな売り文句すら憎々しい。
一通り部屋を見たあと、営業担当者に提示された金額を見て真奈美は息をのんだ。
「七千九百万円……?」
やたら日焼けした担当者が「はい」と白い歯を見せる。
「でも、広告には四千万円からって……」
「それはこちらの1LDKになります。宮下様ご希望の3LDKですと一番お値打ちの部屋でも七千万円から。ひとまずこちらの部屋でローンシミュレーションをしてみましょうか」
「そうですね、せっかく来……」
と言いかけた裕司の足をテーブルの下で蹴る。隣で目を剝くのがわかったが、真奈美は担当者に向き直るとやんわりとした口調で言った。
「持ち帰って二人で検討してみます」
帰りの車中、見慣れた多摩川沿いの景色が近づいてくるのを真奈美は苦々しく見つめた。
六年前にもまったく同じセリフを口にした。
裕司と結婚することになり新居を探していたのだ。賃貸とあわせ、たまたまネットで見つけた、やはり綱島の新築分譲マンション。間取りは2LDKだったけれど金額は先ほどの1LDKと変わらなかった。
結局当時の二人に決断できる金額ではなくて、見送って現在の二子新地にある2LDKの賃貸に落ち着いたのだけど。
「やっぱりあの時無理してでも買っておけばよかったな。新綱島駅ができて路線が増えたこともあるんだろうけどさ、ほぼ倍じゃん」
裕司も同じことを考えていたのか、信号待ちのハンドルに顎を乗せる。
そう、もっと早く動いていればと嘆いてもあとの祭り。
出産、そしてほぼワンオペで子育てしながらの仕事復帰。また裕司の転職などもありこの六年間は怒涛の日々で、毎日をやりこなすのに精一杯だった。金利が上がり続けているのでさすがに動きだしたが、すでに手遅れだったようだ。
「今さら言ってもしょうがないじゃん。切り替えようよ」
「でもこれじゃあ新築は無理かもしれない。中古もあたってみるか」
「明日の話を聞いてからでもいいんじゃない? 新築マンションよりはまだ割安って言うし」
明日は同じマンションに住む、栗山夫妻に勧められたコーポラティブハウスの説明会を聞きに行く予定だった。
コーポラティブハウスはマンションと同じ集合住宅でも、入居者が事業主となって設計や建設まで関われるシステムだ。間取りなども相談しながら決められるため注文住宅に近く、プランやかける内装費によっては新築マンションより安くなるらしい。
そうだなぁ、のつぶやきはため息まじりだった。
このところ、二人の週末はほぼ家探しで埋まっている。先週、先々週は戸建の住宅説明会を聞きに行ってみたが、建材費と人件費が高騰しているとかで予算には程遠い金額だった。
「どうする、夜ファミレスにする? 真奈美も疲れてるだろ」
後部座席では先月五歳になったばかりの亘が、チャイルドシートに首を埋めるようにして寝ている。
「起こしちゃうし家でいいよ。それに外で食べると高くつくし」
そうは言ったものの、今は家で作ったところでたいして安くすませられないのだった。まったく現実を突きつけられるたびに財布の紐が固くなる。締めつけすぎてそろそろぶちっと切れそうだ。
宮下家の家計を圧迫しているのは物価高による食費の高騰だけじゃない。先月は暖房をよく使ったからか電気代が二万を超えていた。裕司の奨学金の返済もあり、近ごろは家計簿をつけるたびに頭が痛くなる。
せめて明日の説明会で収穫があればいいけれど、これだけいろいろと値上がりしているとやはり同じような結果になるんじゃないか。
流れる景色を見つめながら、どこかでそう感じている自分がいた。
週が明け、亘を保育園に迎えに行くと、ちょうど同じマンションの栗山春香と出会った。
さっそく帰りがてら昨日のコーポラティブハウスの話をすると、春香はもともと大きい目をさらに見開いて丸くした。マスクをしているのでまるで顔半分が目になったような印象になる。
「えー、手付金を払ってから引き渡しまでそんなに時間かかるの?」
前方では亘と春香の息子の礼央君がじゃれ合うようにして歩いている。
「そうなの。旦那も二年以上はちょっとねって」
「次の契約更新までに出たいって言ってたもんね」
「それに内装次第ではやっぱり高くついちゃうみたいで。建築費も国際情勢の悪化でさらに上がってるんだって。結局予算内には収まりそうになかったから、うちは中古もあたってみることにしたよ」
「そっか。ごめんね、無駄足になっちゃったね」
「ううん、いろいろと勉強になってよかった。そっちはどう?」
「そう、聞いて聞いて。ようやく希望に近い土地が見つかってね、今度建築士の人と一緒に見に行くことになった」
「そうなの? いいなあ」
ふふっと春香が目を細めた。モヘアのニットに包まれたお腹は、だんだん張り出してきている。
第二子の出産を控え栗山家も新居を探していた。
今彼女が住んでいるのは真奈美の一つ下の階の1LDKで、四人で住むとなるとかなり手狭だ。第一希望は注文住宅で、すでに依頼したい建築士も決まっている。
おかげで会えば互いに情報交換に余念がないが、違いといえば春香は多摩川の向こう側で、真奈美はこちら側で探しているということだろう。川向こうに見えるのは二子玉川の商業施設だ。東京と神奈川の間に流れるこの一本の川に、今じゃ橋で渡れないほどの距離が感じられる。
角を曲がると白とグレーのタイルに覆われた六階建てのマンションが見えてきた。途端に子供達が走りだす。
「ちょっと気をつけてよー!」
真奈美が声をかけても二人は鉄砲玉のように家に向かっていく。男の子ってどうして目を離した一瞬でワープするんだろう。
「そう言えばもう性別ってわかったの?」
「多分次の検査でわかると思う。できれば女の子がいいなぁ」
「あーわかる。私も次は女の子がいい。男の子同士だと一緒に遊べるかもしれないけど、やっぱり女の子と将来一緒に買い物したりしたいよね」
すると春香が足をとめた。どうかしたのかと振り返ると、困ったような表情を真奈美に向けている。
「あのね……実は私、不妊治療頑張ってたの。だからもし……」
「……え?」
「ママ早くー!」
オートロックの扉の前で礼央君が叫んでいる。
「はーい! 真奈美さん、じゃあまた今度ゆっくり話そ」
「あ……うん」
エレベーターで三階に着くと、ひらひらと手を振って春香が去っていった。
あれ。もしかして、できないと思われてる?
別れた後も気になり、ほぼ無意識で家の鍵を開けると思わず「うっ」と声が漏れた。
ただでさえ狭い玄関に傘が横倒しになり、亘のおもちゃが廊下にまで転がっている。そう言えば裕司から「出掛けにぐずった」とラインが来ていた。
いつもは裕司より出勤が遅い真奈美が、保育園まで亘を送り、帰りも時短勤務の真奈美が迎えに行く。ただ今日は会社にいつもより早く行く用があったので変わってもらったのだ。
それにしてももう少し片づけられなかったのか。リビングはさらにひどく、床に落ちているパジャマや絵本を真奈美は拾い歩く。キッチンにいたっては洗い物がそのままになっていて、見た瞬間カッと頭に血がのぼった。
結局全部私がやらなきゃいけない。結婚する前は俺も家事をすると言っていたのに、蓋を開けてみれば口だけ。
裕司は一昨年、新卒から働いていた都内のITコンサル会社を辞め、教育系の業務支援ツールを開発する会社に転職した。職場は近くなったが残業が多く、プロジェクトによっては終電で帰ってくることも少なくない。そのせいで家事も亘の世話も今じゃほとんど真奈美がやっている。
「ねぇママ、見て」
亘がポケモンのカードを持ってやってくる。
「片づけてるからあとでね」
「見ーて。いーま!」
「あーとーでー」
「見てってばあ!」
「だからあとでって言ってるでしょ!」
腰にまとわりついた手をつい強めに払ってしまう。亘の表情はみるみる歪み、近くにあったクッションに顔を埋めると背中を震わせはじめた。
やってしまった、と途端に罪悪感が押し寄せる。同時に今のうちに皿が洗えると思ってしまった自分が怖い。
真奈美は丸くなった亘に「すぐ終わるから待ってて」とやさしく声をかけると、手早く洗い物をすませ、干してあった洗濯物を取りこみ始めた。
四階のベランダからは晴れ渡った空と多摩川沿いの景色が見える。夕陽がゆっくり沈んでいくのを見て真奈美は思わず手を止めた。いつしか日が長くなってきたようだ。
この眺望を真奈美は気に入っていた。
春は河川敷の桜並木を拝めるし、秋には多摩川花火大会を間近で見ることができた。この日はどの部屋のベランダも鑑賞に集まった人たちで賑やかになり、同じ状況を住人同士で感じられるのもまた楽しい。
河川敷は歩いて十分ほどなので土日はたいてい夫と亘を連れて散歩したり、サッカーボールを持っていって遊んだりする。
ただこのところは家探しに亘をつき合わせてしまうことが多かった。週末のどちらかは外で食べることが多かったがそれもご無沙汰だ。
部屋へ戻ると亘がぐずりながらカードを並べていた。その小さい背中に胸が締めつけられる。
「亘、川に行こうか。ボール持っていこう」
声をかけると、亘が弾かれたように振り向いた。
「行く!」
ミニトートにお茶だけ用意して、早く早くとせかす亘を追いかける。繫いだ手は小さく温かかった。
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