ブラ氏の噂を、私も聞きました。
「このあたりで夜、トレンチコートの中にブラジャーを着けた男が出る」
娘の、中学時代の母親仲間が教えてくれたのです。ちょうどひと月前のことでした。駅前の交番の掲示板に注意喚起の貼り紙があったと、その奥さんは言いました。そういう不審者情報に神経質になっていたころが私にもありましたが、ひとり娘が結婚して家を出てからは、とんと疎くなっていました。
「ブラ氏って呼ばれているらしいわ」
「ブラジャー? 下は?」
と私は思わず聞きました。
「さあ、そこまで知らないけど。でも、そういう人なら下は穿いていないか、穿いていても女性ものを穿いてると思うわ、きっと」
芸能ゴシップを話すような調子で奥さんは答えました。残暑の厳しい日でした。奥さんがレースクイーンのような日傘をさしていたので、私はその陰に入れてもらいながら、話を聞きました。彼女の化粧品の香りが濃くなって、陽を受けたコンクリートや電信柱が発光しているように見えたのを覚えています。
私は、コートの中にブラジャーをしていて、もしもパンツもちゃんと穿いているなら、それだけでは犯罪にならないのでは、とも少し考えていました。
「コートの前をはだけて、見せつけてきたりするタイプの人ってことかしら」
不審者を擁護しそうになった自分をごまかすように、そう聞きました。
「注意喚起をされてるくらいだから、そうなんだと思うわ。小太りの男らしいんだけどね、それで、ブラジャーがすごくいいやつらしいの」
「いいやつって」
「ゴージャスっていうか、華やかっていうか。あのお金持ちのなんとか姉妹みたいなイメージ。それで、桜色だったんですって」
「まぁ、そんなことまで掲示板に」
「まさか、その部分は松居さんちの奥さんから聞いたの。とにかく、素敵ないいブラジャーしてるんだって。私たちなんかよりずっと」
その奥さんと下着を見せ合ったことなどないはずでしたが、私も常日ごろ素敵じゃないブラジャーをしていると決めつけられていて、そしてそれは間違ってはいませんでした。私は頷きました。
「なんとか姉妹といえば、あの二人、本当の姉妹じゃないって知ってた?」
奥さんの話がゴージャスななんとか姉妹に逸れていったので、私はまた何度も頷きながら聞いていて、そのうちに、あっ、と思ったのです。
その不審者は、私かもしれない。もしくは、私がものすごく、よく知っている人かもしれないと。
だからこのひと月、考えて考えて、私はここへ来たんです。すべてを、話すことにしたんです。
本当の話をします。私は一度、なんとか姉妹が着けていそうな下着に囲まれたことがあります。二年前の夏のことです。
四年ほど前から、家事代行サービスのパートを始めました。それまでやっていたスーパーの固定シフト勤務より、時間の融通が利くんです。スタッフ登録の際、希望する作業を選ぶことができ、私は掃除と洗濯だけを希望しました。社員からは、料理も希望すれば紹介できる案件が一気に増えると説明されましたけれど、選びませんでした。他人の作った汚れを落とすということと、他人が口にする食べ物を作るということの間には、大きな隔たりが感じられるからです。
その夏のある日、私は部屋の片づけのみという案件を紹介され、電車で一時間弱かけて都心に建つマンションの一室を訪ねました。六本木の駅から徒歩数分という立地から、豪華な高層マンションを想像していたのですが、着いてみると路地裏の古い三階建てアパートで、風呂なしのワンルームでした。
事前に教えられたように管理事務所から借りた鍵を回して扉を開けると、中には下着だけが、どっさりとありました。
熱がこもった部屋には、むっとするような重く甘い香りが満ちていました。たとえるなら、夏が腐った匂いです。
下着とそれを積み上げた鉄製ラック以外、ほぼなにもない部屋でした。最高気温は確か三十度以上という予報だったので、冷房のリモコンを見つけたときは、ほっとしました。ひとつだけあった正方形の窓は、ブラインドがきっちり閉められていました。依頼主からは、空気を入れ替えるために窓を数分開けるのはよいが、それ以外は極力閉め、ブラインドは上げないようにとの指示もされていました。
私はまず、夏の腐った匂いを薄めたいと思って、言いつけどおりに少しだけ窓を開けました。隙間から外を覗くと、切り取られた青い空と、テレビでよく見る六本木ヒルズの円柱形のビルの一部がすぐそばに見えて、気持ちが高揚しました。
依頼人の詳しい事情は知らされないものですが、女性だということは、書類上で知っていました。そこは、下着を保管するためだけに借りられた場所であるようでした。ブラジャーもパンツも、都心の百貨店に並んでいるような上等の品ばかりに見えました。同じ色、同じデザインはなく、ひとつひとつがオーダーメイドの作品のようにも見えました。でも、それにしては下着の保管状況にはこれといった愛情が感じられませんでした。どれも、使い古されているわけではなさそうでしたが新品というわけでもなさそうで、身に着けられた形跡があるのかどうかも、よく分かりませんでした。ただ部屋の右側に並ぶラックにはパンツが、左側のラックにはブラジャーが、雑然と積み重なっているだけでした。
依頼人が留守の間に、一人で作業を進めることになっていました。ラックの下着をひたすら段ボールに詰め、指定された配送伝票を貼る。送り先の名前も、依頼主と同じでした。終わったところで、宅配業者を呼ぶという流れでした。畳んだり整えたりせず、放り込むだけでよいと指示書には書かれていました。
窓を再び閉め切って、冷房を入れてから作業に取り掛かります。
保管は雑でも、一枚一枚手に取ると、いちいち胸の奥がすぼまって、そこから甘いものが染み出てくるような気持ちになりました。やはり、高級な品だったのでしょう。艶のある生地に触れたとき、溶けかけた氷の表面を指が滑っていくように感じました。こまやかなレースに揺れるリボン、縫い付けられたビーズ、シルエットをきれいに見せるワイヤー、小さなホックに細い肩ひも。まじまじ見てはいけないと思い、わざと焦点をぼやかすようにしていましたが、そうするとばらばらの下着がひとつの大きな集合体となって、さらに輝くように感じました。舞踏会場の、天井を覆うほどのシャンデリア。そんなイメージです。
狭いワンルームの中は、窓を閉め切ると、降りた地下鉄の駅の喧騒など嘘だったように静かでした。図書館のようでした。この世で今、動いているのは自分だけなのかもしれないと想像してしまうほどで、その中でひとり、壊れ物のような下着に触れ続けていると、なにかが麻痺していくような、別の自分が、作業をしている自分をシャンデリアに腰かけて見下ろしているような感覚にもなってきたのです。
やがてブラジャーのサイズがすべて同じであるらしいことに気が付きました。いけないと思いつつも、いくつか見えてしまった洗濯表示のタグにはどれもA70とあったからです。つまり持ち主は、ささやかなサイズの胸を、このように素晴らしい下着で包んでいるのだ。そう思うとますます、愛おしさに似た気持ちが湧きました。なぜかというと、出産するまで、私の胸もA70だったからです。過去の、まだ若かったころの自分へ向けて、大丈夫、がんばれと、届かない言葉を、つぶやきたくなりました。
そうしているうちにふと、魔が差しました。まさに魔が差したとしか言いようがない感じです。一枚もらっていってもよいのではないかと思ったんです。
私は今ではそのような記号が用いられないカップ縫い付け型のタンクトップばかり着ていますし、アンダーバストの周囲を示す70は、恥ずかしながら、おそらく85くらいまでに成長しているでしょう。ですが、ああ、この下着は、出産をしない選択をしたほうの自分の下着だ、と天からのお告げのように思ったのです。
きょうの依頼主はもうひとりの私。産まないほうを選んでいたら着けていたはずの下着が、行き場をなくし、ここに溜まっているのだ。不思議なくらいの確信が湧き始めました。
今振り返るとどうかしていたと思いますが、その時の私にとっては、納得のいく理論と結論でした。作業を続けながら、そのことに気づいてしまったからには、ひとつもらっていかねばならない、それが当然の権利だとまで思っていました。同じ数だけブラジャーとパンツがありましたが、意識はブラジャーにばかり向かいました。
作業は午後五時までとされていましたが、予想以上のスピードで進めることができ、午後一時をまわるころには、終わりに差し掛かっていました。私はこういった単純作業の手際がよいのです。部屋の隅には中身の詰まった段ボールが溜まっています。
ひとつもらっていくのは当然の権利だと思う一方で、ばれないだろうか、ばれたらどうなるのだろうかという罪悪感も同じくらいにあり、手が震えたのも事実です。
私は、目をつむり、最後の段ボールに右の腕を肘まで突っ込んで、ほとんどくじ引きのようにひとつのブラジャーを選んで引き抜くと、そのまま自分のかばんの奥に仕舞い込みました。レースとワイヤーが一体になったものの手触りは、幼いころの秋の夕方、兄と大きなとんぼを鷲掴みにしたときのものと似ていました。とんぼのように飛んで逃げてしまわないように、私はかばんをきっちり閉めました。
段ボールを宅配業者がひとつ残らず運び出してしまっても、まだ午後二時三十分を過ぎたばかりでした。私は五時を待たず、その部屋を後にしました。
あの日、私が選んだのは、どんなブラジャーだったんでしょうか。そこを思い出そうとすると、あの日のこと自体が夢の中の出来事だったかのように、ぼんやりと靄がかかってしまうのがもどかしいです。
下着部屋を出たあと私は、かばんの奥に秘密を潜めたまま、地下鉄へ乗りました。裕福な家庭の子が通うとされている私立小学校の制服を着た、女の子四人組も同じ駅から乗り、私の向かい側に並んで座っていました。その中のひとりは、おしゃべりに加わっていませんでした。私のことを、観察しているようでした。艶のある髪をふたつに結って、ちいさな唇が聡明そうな女の子でした。
彼女から見たら、私の世代はおばさんどころか、おばあちゃんでしょうけれど、私はこわくなってきました。その子に盗ったブラジャーを持ち歩いていることを見透かされている気がしてきたのです。寒いくらいの車内で、上半身にだけ気持ちの悪い汗がにじみました。やがて私は少女の視線に耐えられなくなって、今まで降りたことのない駅で途中下車をしてしまいました。そのまま構内のお手洗いに駆け込んで、個室の中の汚物入れにブラジャーをぐしゃっと押し込みました。
私がもっと若いころ、どの駅だったかは忘れましたが、同じような都内の地下鉄のお手洗いのくず入れに、まだ瑞々しい花束が捨てられていたのを見たことがあります。薄紫色を基調とした花をリボンでまとめた、大きな花束でした。どんなに美しくても、捨てられるときは捨てられるのだと思いました。美しいということは非日常なのだと思いました。そのときのことを、思い出しました。
さようなら、さようなら、ごめんなさい。こんなところに置き去りにしてごめんなさい。着けてあげられなくて、ごめんね。似合わない私になってしまって、ごめんなさい。蓋を閉じて見えなくなった下着へ、子どもを産まなかったほうの自分へ、謝っていました。私はあなたを選ばなかった。日常を選んだ。
結婚して、娘を産んで、そのことに後悔など一切ないつもりでした。その代わりに自分が得たいものなんて、ないつもりでした。むしろ、ひとりでいたって私は、何も得られなかったでしょう。だけれど謝っていました。とんでもない間違いのほうを選んでしまった気持ちになっていました。私はここまで来てしまったのだから、もう取り返しはつかない。涙がこぼれそうでした。化粧直しの道具は持っていなかったので堪え、代わりに水洗のスイッチを一度押しました。大げさなほどの音がして、水は流れていきました。
個室を出ると、大きな荷をひとつ下ろしたような、妙にさっぱりとした気持ちになっていました。私は帰宅し、いつものように夫と夕食をとりました。
奥さんからその不審者の噂を聞くまで、不思議なほど、その夏の一日のことを忘れていたのです。持ち出したブラジャーの色を、やはり今も思い出せません。というより、おそらく私は最初から最後まであれを直視していなかったのではないでしょうか。
でも、思ってしまったのです。あの日、私が盗って地下鉄のトイレに捨てたのは、桜色のブラジャーだったんじゃないかと、思ったのです。
ここで、本題です。
例のブラジャーの不審者、私ではないでしょうか。
私だと思うんです。二年前、あのような盗みを、今思えば異常なほどに淡々と犯し、きれいさっぱり忘れていた自分がいかにもやりそうなことです。あの時のように私は、ほとんど無意識のうちに、やってしまっているのではないかと思うんです。
近所の奥さんは小太りの男って言ってましたけど、あなたもお察しのとおり、私だって暗いところで遠目に見れば、小太りの男なんです。いえ実際、私は生物学的には女です。ですけどあなた、私が男か女か、夜道ですぐ見分けがつきますか? 私だって、松居さんちの奥さんを遠くから見かけて手を振って近付いてみたら、松居さんちのご主人だったってこと、ありますよ。それくらい、我々の世代の体形って、だんだん男も女もどっちにも見える感じになっていくみたいですし、夫婦で似てくるんです。
不審者が私なのだという証拠ですか? ……そうですね、パート先に聞いていただければ、二年前の夏にそのアパートへ派遣された事実は証明できると思います。地下鉄の防犯カメラの映像は、二年も残っているものですか? ああ、それか、もしかしたら家のたんすやクローゼットや棚、すべてひっくり返せば出てくるのかもしれませんね、桜色のブラジャー。
いえ、ちょっと待ってください、もしかしたらそれ、今も着けているかもしれません。最近、自分が怖いんです、無意識のうちに何かしていることが多いんですよ――。
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