しばらくの間公園に行かないで、テルちゃんにも会わず、家でも学校でもひたすらガンちゃんへの返事を考え続けた。ガンちゃんと暮らすということは花姉ちゃんや珠々と離れるということだ。テルちゃんとの関係も断たなければならないだろう。テルちゃんは恋人ではないけれど、あんなに嫉妬するなら。
あたしが高校を卒業する年、珠々は小学校に入学する。まだ幼くて、花姉ちゃん一人で世話するのはたいへんだろう。
「珠々ね、サイゴノバンサンはお母ちゃんの卵焼きが食べたい」
珠々は教会の幼稚園に通っていて、そんな言葉を覚えてきたらしい。
「お母ちゃんは?」
花姉ちゃんは苦笑しながら「穴子のお寿司」と答えていた。旬の初夏に、ふっくらと身の厚い、それでいてとろけるようなのを。タレは甘めで、ゆずの香りがするのがいいわ、と。
「桂ちゃんは?」
「コーヒー」
とあたしは答えた。コーヒーのおいしさを教えてくれたのはテルちゃんだ。育ちがよくてお人好しで社会のひなたしか知らない、ガンちゃんと正反対のテルちゃん。
「じゃあ、サイゴノバンサンは穴子のお寿司と卵焼きとコオヒイね」
どこまで分かっているのか、珠々がみんなで最後の晩餐を食べようと考えているのが可笑しく、愛しかった。
珠々はあたしを恋しがりはしないだろうか。ガンちゃんのことをなんて説明すればいい? お婿さん?
男のガンちゃんと「所帯を持つ」ことを花姉ちゃんはどう思うだろう。あたしの心は女で、ガンちゃんは唯一それを受けいれてくれる人なのだといったら──。
一生男のふりをするのは苦しすぎる。その点ガンちゃんといるのは楽だ。
そう、楽なのだ。楽だというのは恋じゃない。
ガンちゃんの気持ちに精一杯こたえていくことはできるだろう。でも、それであたしは幸せ? ガンちゃんは幸せ?
次の次の土曜日の学校帰り、あたしはガンちゃんへの答えを胸に銅像へ足を向けた。
植えこみの陰になった定位置にはいなかった。
仕事がまだひけないのだろうかとあたりをぶらついていると、汚い布帽子を目深にかぶった老人が段ボール小屋から顔を出した。わけ知り顔で小指を立て、
「ガンのコレだろ? ガンはもういねえよ」
歯が足りないらしく発音が不明瞭で聞き取りづらい。
「コレに連れてかれちまった。因縁のある連中だろう」
言葉は同じコレでも、今度は頰を指で斜めに切るしぐさをしてみせる。
「四、五ん日前だ。あきらめな。どこぞのドブにでも浮かんでんだろう」
「どうして?」
あちこちの温泉街をイカサマ賭博で荒らしたとはいっていたが、全部過去のことだ。それに、中指で落としまえをつけたのではなかったのだろうか。
「他人の名前が手に入る、これで別人になれるとかなんとかはしゃいでな」
象牙を売ったにしては安っぽい格好だったのは、誰かの戸籍を買うのにお金がかかったからだったのか。
「それもこれも可愛い花嫁を迎える準備だとよ。そっから足がついたんだろ。だから止めたんだ。ドブネズミのままでいりゃあ……。あのバカ野郎」
「その帽子、ガンちゃんの──」
「形見になっちまったな」
「見せてくれませんか」
老人が脱いでよこした帽子のふちの裏に、褐色の短い縦線三本が平行に引かれていた。
「ここ、線が三本あるのは?」
「指を嚙み切って、血で何か書こうとしたみてえだったが。急襲だったからな」
何も書けずに血で汚れただけならこんな三本線にはならない。
「もういいだろ、返せよ。それがねえと寒いんだ」
老人が帽子を奪い取る。それから少しだけ気の毒そうに眉尻を下げて、
「一晩寝たら忘れちまいな」
あたしのせいだ。ガンちゃんはあたしのために這い上がろうとした。あたしとの暮らしを立てるために、真っ当な人間としてまともな仕事につこうとした。テルちゃんに対抗心を燃やして、あせって。しかも、あたしはそれを断るつもりだった。
「バカ」
どうやって家に帰りついたのか憶えていない。玄関を上がると醤油と鰹出汁の匂いがした。台所で花姉ちゃんがお昼のうどんを煮こんでいる。
台所とひと続きになった茶の間では珠々が腹這いでおはじきをしていた。
右利きなのに、珠々はおはじきを左手で弾く。花姉ちゃんとあたしが左手で弾いて遊んでやるのをまねたため自然にそうなったのだ。
花姉ちゃんもあたしも左利きだった。あたしは鉛筆やお茶碗、お箸などの持ち手を厳しく直されたけれど、姉ちゃんは平気でなんでも左手でやった。
「桂ちゃん、お帰んなさい」
珠々がうれしそうに顔を上げた。花姉ちゃんが火を弱めながら振り返り、
「桂、ただいまくらいおっしゃいよ。珠々、お昼だからおはじき片づけてね」
かき集めそこねたおはじきが一つ、足元に飛んできた。押さえようとしてとっさに足を出すより一瞬早く、珠々が小さな手をのばす。
「痛っ」
手を踏んだと気づき、あわてて足を引っこめた。
「ごめんね、ごめんね。平気? ちょっと見せて」
珠々の手は、三本──人差し指と中指と薬指──の指先だけが赤くなっていた。小指と親指は短いから踏まなかったのだ。
それを見つめるうちに、ふと思った。一瞬で何かを伝えようとしたとき、三本の指の先をひとまとめにして嚙み切れば、血でいっぺんに三本の線が引ける。そこそこ平行に。
ならば三本線が示すものはなんだろう。数字の三? 川という漢字?
それとも……イソッコ?
「姉ちゃん、ごめん、ごはんいらない」
いても立ってもいられずに公園へ取って返した。池のまわりを探すとテルちゃんがイーゼルを立ててスケッチブックに写生していた。
「やあ、最近見なかったね。風邪でもひいたかと心配したよ」
「高雄さん……」
テルちゃんの安定感はあたしに自分を取り戻させてくれる。
「この近くで──ううん、東京でなるべくたくさんの骨董屋と質屋さんを調べられない?」
「うーん、ぼくはうといんだけど、何か売りたいのかい? それとも買いたいの」
「買いたいんだ。本当いうと買うふりをして、見たいものがある」
買い戻すお金はないが、知人のものかどうか確認したいと頼めば見せてもらえるだろう。
「詳しそうなやつにあたってみるよ。少し時間をくれないか? 急ぐかな」
「急がない」
急いだところでガンちゃんを助けられるわけではない。
あたしはただガンちゃんの最後の伝言を知りたかった。そのためにイソッコを確かめたい。今できることはそれだけだ。
テルちゃんが学友から集めてきてくれた情報をもとに、その日から都内の骨董屋と質屋をめぐり歩いた。どこにもなくて、最後に残ったのが店主の気まぐれで月に数日だけ営業するという湯島の骨董屋だった。
池之端の家から歩いて十分。天神様へ続く坂道の途中、路地の入り口にその店はあった。戦火を逃れた古い構えで、薄暗い上に少し引っこんでいるから、うっかりすると見過ごしてしまう。散歩がてら珠々の手を引いて訪ねたその日、はじめて屋号を染め抜いた紺の暖簾が出ているのを見た。
格子戸を開けると店内は六坪ほどの広さで、緋毛氈の上に中国風の壺が無造作に並べられ、壁にそってしつらえられた棚には国も時代も雑多な人形や小物類がごちゃごちゃに置かれている。甲冑や兜、槍や刀もあった。
珠々はものめずらしげに首をめぐらしている。
奥に和服を着た二人の大男がいた。年齢は異なるが、角ばった顔と細い目がよく似ている。派手な紫の着物を着た年嵩──といっても四十年配だろう──は青々とした禿頭で、渋い藍の和服姿の若い方はざんばらの長髪だ。
あとから知ったことだけれど、年嵩の方は名前を早坂青治といって、本職は名の知れた刺青の彫り師だった。若い方は早坂龍介、青治さんの甥であり弟子でもある。
ここは青治さんの祖母の店で、九十歳になるその人が寝たきりになりながらも「息をしているうちは店を閉めない」と折れないから、青治さんと龍介さんが手の空いた時にやって来て店番をしていたのだ。
龍介さん──龍さん──は渋さとオスくささが入りまじり、青治さんと並んでもひけをとらない貫禄があるけれど、実はあたしと同じ十七歳だった。高校には行かず、曾祖母の世話をしながら叔父のもとで彫り師の修業にいそしんでいた。
ちょうど棚の上に手をのばしているところで、龍さんの着物の袖がずり落ち、左腕が肘まであらわになっている。そこには目を射るようにあざやかな青と緑の染料で孔雀の羽根の刺青が彫られていた。
「すみません、麻雀牌を探しているんですが」
あたしがいいかけた時、あらたに一人の男性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
青治さんが最敬礼で迎えた。
客は伽羅色のウールコートを羽織った洋装の紳士だった。頭の鉢が大きく、髪は薄く、額が広い。鷲鼻の下には左右対称に整えられた口ひげが毛先を跳ね上げている。
あたしの顔を見るや、紳士は目を細くした。
「夢乃……」
ききまちがいだろうか。花姉ちゃんの源氏名をつぶやいた。
「お客さん、麻雀牌というと、どんな?」
青治さんが尋ねる。
「あ、象牙の。背中が竹で」
「もしや、ツバメのガン牌かね?」
紳士が言葉を挟んだ。
「はい、そうです。イソッコがツバメの」
「ふん、一足遅かったな。あれはわしが買った。半月前か。ところで学生さんかな?」
「高校生です」
「なじみだった女郎によう似とる。夢乃というんだが、ひょっとして血縁者ではないかね?」
「人違い……だと思います」
こんなぶしつけな人物に正直である必要もないはずなのに、嘘をつくやましさからあたしは目をそらした。
「わしから買い取りたいということなら応じんこともない。支払い方はいろいろとあるからな。気が向いたら連絡しなさい」
つきつけられた名刺には肩書きはなく、高倉武邦という名前と電話番号が記してある。拒めずに受け取り、ポケットに入れようとしたが、うまくできない。
最初に射すくめられた時から、ずっと指先がふるえているのだ。
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