珠々が生まれたのはあたしが十二歳のときだ。珠々が一つになるまでは子守として女中さんにいてもらったけど、いつまでもそんな余裕はなかったし、一般の家庭が女中さんを使う時代でもなくなっていた。幸い、洋裁の内職をして暮らしている二軒先の老姉妹がよろこんで珠々を預かるといってくれたから、あたしは中学校から帰るとそのお宅に珠々を引き取りに行き、家事をやりながら珠々の世話をした。
「真珠の〝珠〟にくりかえしで〝珠々〟って綺麗な名前でしょ? あたしがつけたの。あこや貝が真珠をはぐくむみたいに綺麗な心を持った子になりますようにって願いをこめたのよ。花姉ちゃんが持っている宝石であたしは真珠が一番好き」
ガンちゃんは麻雀牌の中からハクと呼ばれる白い牌をつかみ出した。
「真珠の肌もいいが、どっちかってえとケイはこっちだな」
「麻雀牌?」
「象牙だ」
「これ、象牙製なの?」
花姉ちゃんを身請けするのに、松尾の御前様は収集品の象牙の香炉と観音像を手放したときいたことがある。美術館に展示されるくらいの品物だったそうだ。
麻雀牌はガンちゃんのたった一つの財産だけれど、そんなに高価なものとは知らなかった。裏側は竹製で、よく見ると一つ一つ木目の幅や、線の数、濃淡が微妙に違う。
「いろんな模様があるのねえ」
「それが魔法だ」
見る者が見れば裏から牌の種類がわかる。目印の傷をつけてどの牌か区別がつくようにした麻雀牌をガン牌というが、これもその一種で、要するに最初からイカサマ用につくられたものなのだとガンちゃんは声をひそめた。
「牌の判別は目がよければ誰でもできる。むしろイカサマを疑われない打ち方、勝ち方にこそ熟練の技がいるのさ」
そうはいっても誰でもが容易に見分けられる代物ではない。
「一瞬で区別するの? 難しい」
あたしは牌を眺めてため息をついた。
「索子が一番わかりやすいかな。木目が並行で」
「イソッコは?」
索子牌は竹のような棒の数で数字を表した牌だが、一索牌──ガンちゃんはイソッコという──には鳥の絵が描かれる。
あたしはなんとなくこの牌が好きだった。孔雀が描かれるのが一般的らしいけれど、ガンちゃんのはツバメの絵だ。
「イソッコは平行な三本線だ」
「平行線三本、三本、三本……あった!」
手をのばしたとき、目を細めたガンちゃんの優しい視線に気づいた。
テルちゃんこと日下部高雄と出会ったのは高校一年生の秋、ガンちゃんより半年あとのことだ。その日もいつものように不忍池の側から公園に入った。
花姉ちゃんに引き取られた頃、この池は田んぼの姿をしていた。食糧難をどうにかしようとしたからだ。それがいつしか池になり、水面は大蓮に覆われた。
秋の蓮はふちが茶色くしおれて、伽羅色の蜂の巣のような花托があちこちから突き出している。その隙間を縫って水鳥が漂う。
池のほとりに画架を立てて写生する青年には以前から気がついていた。ひらひらしたスモックを着ている様子がまるで太りじしのてるてる坊主のようだ。心の中でテルちゃんと呼んで、見かけた日は吉、そこにいなければ凶、と、勝手な占いをやっていた。
ある日、テルちゃんが絵筆を振り回してあたしを呼んだ。
「ねえ、ちょっときみ、そう、きみ! きみ!」
「ぼく、ですか?」
手招かれるままそばに行くと食い入るように顔を見つめて、
「ああ、やっぱりだ。天上から舞い降りた白鳥の化身のようだ。本当に人間かい?」
「たぶん」
「男の子だよね?」
「……さあ」
服装を見る限り男子高校生みたいだけど、信じられないくらい長い睫毛が黒目がちの瞳に憂いの影をさして、眉は濃く、唇は紅く、水蜜桃のように瑞々しい頰にはひげの跡もない。きみの存在は性別を凌駕していると大仰に称えられ、あたしは曖昧に微笑んだ。
テルちゃんは湯上がりのようなつるりと血色のよい丸顔で、つぶらな目に円い眼鏡をかけ、キノコをかぶったような髪の下に福耳が見え隠れしていた。スモックは絵の具まみれだけれど、その下の身なりはいい。
彼は美術学校で油絵を専攻している日下部高雄と名乗り、どういう字を書くか律儀に説明した。
「週一回でいいからきみのこと描かせてくれないかな」
「その前にどんな絵を描くのか見せてもらえますか?」
「もちろんだよ。これは水彩だけど──」
スケッチブックの絵はすべて風景画だった。さだめし優しい絵本の世界のような画風なのだろうと思ったのに、情念の翼を筆にして描かれたような絵は見ていると胸がざわざわするのだ。
「絵のことはわからないけど、好きな絵です」
穏やかでとぼけた風貌との落差にひかれた。
「じゃあ、いいのかい?」
「どうぞ」
「謝礼の相場がわからないなあ」
「いいですよ、そんなの」
「貴重な時間をもらうのに、そういうわけにはいかないよ」
「それならキャラメルとかビスケットとか、小さいお菓子を一つください」
「お菓子が好きなの?」
「姪にやりたいんです。姪っていうか、妹みたいな」
モデルになるのは花姉ちゃんの仕事が休みの火曜日と決めた。珠々を迎えに行く心配をしなくていいから。
テルちゃんは豪農の次男として生まれ、道楽者の祖父にたいそう可愛がられたという。いろいろな意味で、芸術にうつつをぬかすことが許された幸運な青年なのだ。
あたしはガンちゃんには全部さらけ出したけれど、テルちゃんには生い立ちを語れなかった。住む世界が違いすぎて理解されないだろうという以上に、テルちゃんの前では翳りのない自分でありたかったのだ。なぜだか。
休日、珠々の手を引いて、せがまれるまま歌を歌いながら散歩している時にテルちゃんと行き会ったことがある。
「桂三ちゃーん!」
テルちゃんはいつものように絵筆を振り回した。筆先から滴る色水が鼻の頭や頰やスモックに降りかかるのを意にも介さない。あたしはテルちゃんには藤島桂三と名乗っていた。自分をぼくと呼び、少年としてふるまった。
ガンちゃんの前であれほど自由にふるまえたのは、よくも悪くもガンちゃんが世間の枠の外にいる人間だからだった。社会的な、人間的な、あらゆる束縛から自由な。
テルちゃんはしゃがんで珠々の視線の高さに合わせた。
「やあ。桂三ちゃんの妹さんかな? お名前は?」
「すず」
珠々は左右でわずかに形の違う瞳でまっすぐにテルちゃんを見つめ返した。
「鈴みたいな目、鈴みたいな声。ぴったりの名前だね」
「てるてる坊主さんは桂ちゃんのお友達? 本物のてるてる坊主さんってはじめて見たわ」
やっぱりてるてる坊主に見えるんだとあたしは笑いをこらえつつ珠々の手をにぎり直した。
「珠々ちゃん、この人は画家さんなんだよ」
「てるてる画家さん?」
「うん、てるてる画家でいいよ。まだ画学生だけどね。なでていいかい、ベルちゃん」
テルちゃんはすずの意味を勘違いしたまま、にこにこと珠々の髪をなでた。
そんなふうにして、銅像前から池のほとりまで、公園はあたしの居場所になった。ガンちゃんかテルちゃん、必ずどちらかと一緒にいた。
テルちゃんにはコーヒーを飲みに連れて行ってもらうこともあった。根津のカナリアという西洋料理店がテルちゃんの行きつけで、食事をしないでコーヒーだけの利用もできる。テルちゃんにとってコーヒーとケーキくらい贅沢でもなんでもないのだ。コーヒーは最初こそ苦いと思ったけれど、すぐ大好きになった。
学校へは最低限しか行かなかった。出席日数が足りて必要な試験を受けている限りうるさいことはいわれなかったのである。年度がかわると体育教師のDも転任した。
花姉ちゃんに対してだけは後ろめたく申し訳なかった。姉ちゃんはあたしがそんなふうに過ごしていることを知らない。家で女言葉を使うことはなかったから、あたしが男子であることに苦悩していることも想像していないだろう。
不審がられない程度にはとりつくろった。よけいな心配をかけたくないし、きらわれたくない。
九歳のとき、赤レンガの東京駅ではじめて会った花姉ちゃんはあんまり美しすぎた。抱きしめてくれた腕の中は夢心地半分、居心地の悪さが半分だった。そのまますぐに二人きりで暮らせばわだかまりは霧消したかもしれないけれど、松尾の御前様がいた。
御前様の生きている間、花姉ちゃんはあたしの母であるより姉であるより御前様の女だった。御前様が亡くなってすぐ珠々の「お母ちゃん」になった。
結果として花姉ちゃんとあたしの間には目に見えない壁が残された、気がする。
高校二年の秋。あたしは学校を昼で抜けてガンちゃんのところに行った。
「はい、今日は卵焼き入り」
小風呂敷に包んだままの弁当をさしだしてもガンちゃんはこっちを見ようともせず、背中をまるめて麻雀牌をかき回し続けた。
「いらねえよ」
「どうして? 姉ちゃんの卵焼きおいしいの知ってるでしょう?」
「うめえのまずいのって、贅沢な野郎だな」
今日は徹底して機嫌が悪いらしい。
「野郎じゃないわ」
ガンちゃんから少しだけ離れて座り、裏返した牌の一つにあたしは手をのばした。
「見つけた。イソッ……」
一瞬早く、ガンちゃんの指がひらめいて牌を掠めとった。
「画伯様とよろしくやってんだって?」
同じ公園でも二人が交わることはないはずで、必要もないと思って話さなかったが、どこからか噂をきいたらしい。おおかた仲間に「おまえのイロが浮気しているぜ」とでもいわれたのだろう。テルちゃんとの間にやましいことは何もないし、あったとしたってガンちゃんに咎められるいわれはない。
「いつからだ」
「ちょうど一年よ。いやらしい。モデルをやってるだけだわ」
「モデルってのはどこまで脱ぐんだ?」
下卑た笑いを浮かべて視線を下半身に向けたガンちゃんの頰を、あたしはぴしゃりと平手打ちにした。立ち上がりながら弁当の包みを手に取りかけて、やはりガンちゃんの膝に戻す。
「施しか?」
「そうよ!」
思い直して小風呂敷だけは取り返した。
「食べないなら野良犬にやって」
ガンちゃんは追ってこなかった。それからしばらくあたしは銅像の方へ行かなかった。
塗りの弁当箱は後日テルちゃんを通して返された。ちゃんと洗ってあった。
「知らない男性が来てね。残飯をあさっていたら綺麗な男子生徒がくれたって。ぼくと一緒にいるのをよく見かけるって。桂三ちゃんだろう?」
あとで久しぶりにガンちゃんのテリトリーへ行ってみたが、姿はなかった。
まもなく学校が試験期間に入り、それが終わると今度は風邪をひきこんでしまった。ようやく咳が治まり、あたしは三週間ぶりに桜並木の下を動物園の方向へ歩いていた。
いつのまにか桜の葉が色づいている。重なり合う桜紅葉を縫ってこぼれる陽は薄い赤茶色に透けて、足元に無音で降りそそいだ。
風が冷たくて、花姉ちゃんが編んでくれた象牙色のマフラーに首を埋めたとき、行く手をふさぐようにねずみ色の背広の男が立った。
最初、それが誰だか分からなかった。本当に。
「久しぶりだな」
と、褪せたカーキ色の破れ帽子をかぶってみせる。
「ガンちゃん……?」
髪を短く刈り、ひげもつるりとそられている。
「おれも捨てたもんじゃねえだろ?」
「ええ、かっこいいわ」
あたしは微笑んだ。背広は見るからに古着で袖丈が足りないし、ネクタイもぺらぺらだったけれど。多少不潔でも長髪のひげ面の方が好きだったような気もしたけど、口には出さない。
「就職を決めてきた」
ガンちゃんは頭の働きも悪くないし、頑健な肉体を持っている。何よりまだ若い。住所を確保して身なりを清潔にすれば働き口を見つけることは難しくなかっただろう。
昨年、青森からの集団就職列車がはじめて運行された。かつての魔窟──ノガミと恐れられた頃の闇だまりをそこここに残し、曝したまま、上野駅周辺は常に群衆であふれている。
得体の知れない速度と熱で焼け野原から復興を遂げたこの国が、もっともっともっとと九千万人を巻き込んで走り続ける。そんな時代だった。
「どうしたの、その服。靴も。床屋さんも行ったのね」
「どこにそんな金があったかって? もういらねえもんを売っ払ってやったのさ。さすが象牙だぜ。思ったよりずっと高い値がついた」
「牌を売ったの?」
ガンちゃんにとって命の次に大事なものだと思っていた。
「祝ってくれねえのか」
「おめでとう」
あたしはとまどいながらいった。
「しばらく寮に入るが、そのうちボロ家でも借りようと思う。そしたら──」
頭上でカラスが鳴き騒ぎ、ガンちゃんの声をかき消す。
「そうしたら?」
「一緒に暮らさねえか」
今度はちゃんときこえた。きこえたゆえに、あたしは返答に詰まった。
「高校が……」
「卒業してからでいい。いや、その方がいい。それまでには生活を安定させる」
けんかをした反動のように、今日のガンちゃんはやけに優しい。
「考えてみてくれ。土曜の午後と日曜はいつものあそこにいるから」
立ち尽くすあたしの脇をすり抜けてゆく。一番近づいた瞬間すら、異臭はしなかった。
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