最初から読む

 

 それから毎日のように公園へ足を運ぶようになった。たいていは学校帰りに、しばしば学校を抜け出して。

 ガンちゃんは雪か台風でもない限りここにいて──そういうときは駅の地下通路に逃げこむらしい──ここをねぐらにしているという。日雇いの仕事をすることもないではないが、かつての稼ぎを食いつぶす毎日。温泉地をめぐって素人客相手に麻雀で荒稼ぎした時代があったのだ。

 一面に伏せられた牌を意味もなくめくりながら、どこまで本当かわからないガンちゃんの武勇伝をきくのがあたしは好きだった。別に真っ赤な嘘でもいい。知らない用語や隠語ばかりで、どうせ何をいっているのかわからない。ガンちゃんがうれしそうに話すから、それでよかった。

 ガンちゃんはひどくおしゃべりなときもあれば、むっつりと黙りこくっているときもあった。

 あたしは沈黙がいやで、ガンちゃんが黙っている時には自分のことをしゃべった。生い立ちのこと、一緒に暮らす花姉ちゃんのこと、今年度から幼稚園に通いはじめた珠々のこと。

「姉ちゃんって呼んでるけど、本当はお母ちゃんなの。お母ちゃんだけど花姉ちゃんね。花姉ちゃんは吉原の最後の花魁っていわれた高級遊女で、玉虫楼の夢乃っていえば並の客じゃ手が出せない天女みたいな存在だったんだって」

 ガンちゃんは麻雀牌をめくる手を止めて破れ帽子の下から斜めにあたしを見上げた。

「ケイより別嬪なのかい?」

「花姉ちゃんには誰もかなわないわ。あたしなんかとても」

 ガンちゃんと話していると、つい気が緩んで女言葉が出る。あたしにとってはそっちが自然なのだ。ガンちゃんは気にするふうもなかった。

「藤島家って士族だったの。房州の下級武士だけど。明治になって仕事がなくなって、どういういきさつでか牛と山羊を買って酪農をはじめた。借金もこさえたし、貧しくてね。そのくせ藤島家の長男には学問をさせなきゃならんって、その資金のためにまだ八歳だった花姉ちゃんを女衒に売ったの。花姉ちゃん、八つのときから薄紅色の大輪の牡丹みたいにあでやかだったって村の人もいってた」

「ケイは、さしずめ白い芙蓉だな」

 ガンちゃんは手遊びの麻雀牌から目を上げずにいう。

「ふふ、うれしい。姉ちゃんは吉原でも百年に一度の上玉だって、楼主の手元で大切に育てられる引込禿になった。芸事も閨のこともみっちり躾けられて、十四歳で夢乃として初見世。初めてのお客は貴族様だったんだって」

 玉虫楼は大見世と呼ばれる高級妓楼だった。もともと客層はよかったが、花──夢乃のとる客は中でも最上級の部類だったのだ。

「遊女が妊娠すると闇で堕胎手術したり、わざと流させたり、ひどいこともあったみたいだけど、花姉ちゃんみたいな人気の遊女は丁重に扱われて、別荘で静養して出産が許された。もちろん、その費用は花姉ちゃんの借金になるんだけど。で、花姉ちゃんは十八の年にあたしを産んだの」

 このあたりの話は花姉ちゃん本人からきいたが、姉ちゃんは父親については何も話さなかった。本当にわからないのかもしれないし、隠す理由があるのかもしれない。

「父親のところなんて無理いわない、吉原のやっこにでも預けてくれりゃよかったのに、花姉ちゃんはあたしを藤島の生家にやったの」

「そりゃあ、あれだ、花姉ちゃんはおめえを陰間にしたくなかったんだろうよ」

 陰間が男娼を意味することはまだ知らなかった。

「建前は末っ子ってことになってたけど、物心ついた時から、おまえは遊女の子だって蔑まれて育った。よくいうよ。花姉ちゃんをそうしたのはあんたたちのくせに。花姉ちゃんを犠牲にして踏みつけにして、それでやっと家族全員人並以下家畜以上くらいに暮らしていたのにさ」

「ああ、ひでえやつらだ」

「きいてるの?」

「きいてる、きいてる」

 ガンちゃんはすごい速さで麻雀牌を二段に積み重ねては崩す。

 どんな役を積みこんだところで意味はないのに。麻雀だろうとチンチロだろうと、賭け事の輪の中に入ることはできないというのに。

「結局上の兄ちゃんは学問に挫折したの。頭が悪かったのよ。なのに花姉ちゃんの仕送りが少ないせいだって。父ちゃん母ちゃん──本当はじいちゃんばあちゃん──は冷たかった。兄ちゃんや姉ちゃん──おじちゃんおばちゃんね──は意地悪だった。あたしは昔からこんなで、力がないから満足に家畜の世話もできないし、家畜は役に立つけどあたしは役に立たない、無駄飯食いの厄介者だったの。あたしだけ家畜小屋で寝てた。本当よ」

「苦労したな。可哀想に」

 あたしはそのままつらつら話し続けた。

 

 年季が明ける前に、花姉ちゃんは松尾の御前様に身請けされた。数えで二十歳の時だった。

 御前様──松尾敬一郎は御年七十歳。直前に貴族院議員の座を退いていた。

 高齢ゆえ戦争に召集されることもなく、敗戦後その責を負うこともなかったが、御前様の身内は皆戦争で命を落とした。焼け残った本郷の本宅は進駐軍に接収され、花姉ちゃんのいた池之端の妾宅も空襲で焼失した。

 御前様がこれを再建し、あたしを呼び寄せたのが七年前、あたしが九つのときだ。

 立派なお使いの人が来て、みんなびくびくして両手をついた。なんだかとてもせいせいした。

 最初は田舎道を荷車でどこまでもどこまでもどこまでも行った。ようやく駅に着いて、ぎゅう詰めの電車に乗せられ、ぺっちゃんこになってたどりついた東京駅に花姉ちゃんが迎えにきていた。

 花姉ちゃんに会ったのはそれがはじめてだった。モンペ姿だらけの群衆の中、姉ちゃんはマーガレット柄のスカートを穿いて、つやつやの髪を腰までたらして、まるでマリア様みたいだった。マリア様なんてそのときは知らなかったけれど。

 お使いの人が鼻をつまみながら身なりを整えてくれたとはいえ、身体に染みついた飼料のにおいは消えなかったのに、花姉ちゃんは綺麗なスカートの膝をついて、ためらわず抱きしめてくれた。

 そこからはお使いの人と別れて、花姉ちゃんと二人でちんちん電車に乗った。

 あのときのことを思い出すと、夕日の中に果てしない焼け野原が広がっていた気がする。

 路面電車は生き物の影すらない焼け跡を走り、乗客は死者ばかり。生きているのは花姉ちゃんとあたしだけ。

 あたしは姉ちゃんの手をひたすらにぎりしめて──。

 御前様の別宅は路地のつきあたりにあって、黒塗りの板塀で囲われていた。

 門はちゃんとした構えのものではなく簡素な枝折戸で、かたわらに紅い椿が植わり、黒い水たまりみたいな敷石を二つ踏んだ先に格子の引き戸の平屋が建っていた。

 正直いうと、ちょっと拍子抜けした。うやうやしいお使いの人が来たからどんなお屋敷かと期待していたから。とはいえ水洗の厠や土間でない台所ははじめてだし、お湯の出るお風呂場にも驚いた。

 花姉ちゃんはまずあたしと一緒にお風呂に入り、長い時間をかけて身体と髪を洗ってくれた。女中さんが一人いたけど、姉ちゃん自身の手であたしを綺麗に綺麗にした。

 そうしてから、あたしを御前様に挨拶させた。

「桂三です。よろしくお願いします」

 穏やかな顔つきで髪も眉もひげも真っ白な御前様は昔話の「正直じいさん」みたいだった。

 ほう、と息をもらして、

「桂は月に生えている木のことだ。月から降ったようなおまえにふさわしい名だな」

 それであたしは〝桂〟の文字が好きになった。〝三〟はあいかわらず気に入らなかった。二人の兄がいて、三番目の男子という体裁のためだけにつけられたから。

 生家でのあたしの扱いをきいた花姉ちゃんは激しく憤り、藤島の家といっさいの縁を切った。あたしの様子を問う花姉ちゃんの手紙に、父ちゃんは調子のいい嘘を返していたらしい。

 三度の食事は茶の間で御前様も同じ食卓を囲み、同じものを食べた。どうかするとあたしのおかずが一番多いこともあって、それは御前様の指示なのだ。

 あたしはそれまで学校へ行ったことがなくて、見かねた御前様が計算や読み書きを教えてくれた。

 新しい制度になったばかりの近くの小学校に通いはじめると、長い睫毛や薄桃色の頰をからかわれ、「オメカケの家の子」と後ろ指を差された。オメカケというのはなんのことかわからなかったけど、藤島の家で聞かされたユウジョと同じことだろうかと思ったりした。

 訛りも残っていたし、じょうずに人と話せなくて──本当よ、ガンちゃんは特別──とうとうなじめなかった。中学も、高校にも。

 それはさておき、人を綺麗にすることが好きな花姉ちゃんは美容学校に通って美容師になり、神田駅近くの美容院に勤めはじめた。花姉ちゃんがいうには洋装人気の高まりに合わせて西洋風の美容院の需要が増えている。御前様亡きあとを見据えて生計を立てていく手段を得ておきたかったそうだ。

 花姉ちゃんのいる美容院に客としてやってきたのが玉虫楼の一人娘の糸川みよ子、みよちゃんだった。みんなが飢えていたその時代にはめずらしくぽちゃぽちゃしていて──軍部に太い伝手があって戦時中も食料に困ることがなかったらしい──離れたたれ目に愛嬌がある。

「夢ねえさん! 夢ねえさんでしょ? あいかわらず綺麗ねえ!」

 遊郭の中で遊女や用心棒に可愛がられて育ったみよちゃんは昔の呼び方で声をかけてきた。

 戦火を乗り越えての再会はその意味もよろこびも重みが違う。空襲で吉原遊郭は全焼した。玉虫楼の主はその方面からいっさい手を引いて集合住宅の経営に乗り出し、みよちゃんは繊維会社に勤めているという。二人はたちまち姉妹のようにうちとけた。

 そんな頃、喜寿をお祝いしたばかりだった松尾の御前様が亡くなった。荼毘に付して菩提寺の墓所に遺骨を納めてしまうと、花姉ちゃんはどこかほっとしたようだった。

 思いつめたみよちゃんから花姉ちゃんが相談を受けたのは御前様の四十九日が明けてまもなくのことだ。まだお腹は目立たなかったけれど、姉ちゃんは一目でみよちゃんが身重であることを見抜いた。

 問いつめたところ、相手は進駐軍の米兵であると打ち明けられた。

 みよちゃんが落としたブローチを彼が踏んづけて壊したのがきっかけだそうだ。

 数日後、彼は同じ場所でみよちゃんを待っていて、お詫びにと新しいのをくれた。壊されたのは本物の血赤珊瑚で、その人の贈り物は偽物だった。

 表面上は紳士で優しかった彼にみよちゃんはたちまち夢中になった。彼はルーツが複雑なようで、アジア人には見えないにしても一目で外国人にも見えなかったから、一緒にいてもさほど人の目に立たなかった。

 妊娠を自覚したのは、彼が配置換えでアメリカ本土へ帰ったあとだった。みよちゃんは連絡先を知らなかった。教えられていた名前さえ嘘なのかもしれない。

「産んで」

 ずさんな堕胎手術に苦しめられた朋輩をたくさん見てきた花姉ちゃんは迷うみよちゃんにいった。

「それで、あたしの赤ちゃんってことにしてよ」

 元楼主夫妻を説得した花姉ちゃんは着物の下にタオルを巻きつけ、職場の人にも嘘をついて妊娠を装った。「御前様の子」で押し通したのだ。

 みよちゃんは勤めをやめてひそかに出産した。赤ん坊は吉原時代から糸川家とつきあいのある医者の協力のもと、花姉ちゃんの実子としての籍を得た。養育費などもらうべきものを花姉ちゃんは糸川家からもらった。決して美談で終わりではなく、姉ちゃんなりに情と打算を天秤にかけて決めたのだ。みよちゃんは床上げ後しばらくして母親の里のある浜松市に嫁いだ。

 ──そういうことを、花姉ちゃんは偽らずにあたしに話してくれた。

 

 

修羅にしてリラのごとく』は全4回で連日公開予定