3月の落胤
あたしはガンちゃんの本当の名前を知らない。彼は名乗らなかったし、あたしもきかなかった。本名のどこかに岩の字が使われているのか、イカサマ師だったからガン牌のガンなのか、その由来すらも。
もう、彼にそれを問うすべもない。
はじめてガンちゃんに会ったのは中学校の卒業式が終わってすぐのことだ。
もともと上野の山は風光明媚な桜の名所として知られていたが、終戦後の混乱のまま一帯の治安は著しく悪化し、愚連隊の横行した駅の地下道を中心に、人の恐れる魔窟的地域・俗称ノガミになり果てた。
その浄化と街の復興を祈願してあらたに植えられたというソメイヨシノは、幹もどこか華奢で、弥生の空にいじらしく枝をさしのべて薄桃色のつぼみをふくらませていた。
千二百五十本あるというけれど、数えたことはない。
その日、あたしは幼い珠々を連れて動物園へ向かう道をそぞろ歩いていた。お花見には早く、土曜の午後の人出は多くはなかった。
やせこけて薄汚れた野良犬が向こうの柳の木の下からこっちを見ているのに気づき、珠々の気をそらそうと手を引きかけた時、
「わんわん! わんわん! 桂ちゃん、こっち!」
はしゃいだ珠々が犬に向かって駆け出した。
「珠々ちゃん!」
あわてて追いかけ、小さくてやわらかい身体を抱きとめた。
犬がううっと唸って牙を剥いたのを、落ちていた枝で追い払ったのは、その頃、ことにそのあたりではめずらしくもなかった路上生活者だった。
すり切れて何色か分からない外套をまとい、かろうじてカーキ色と判別できる破れ帽子をかぶっている。お尻までのびた髪は縄のようにもつれ、無精ひげの中の顔は褐色に焼けて、どこまでが顔でどこからがひげか区別できないほどだ。
あたしはなんとなく山伏を思い出した。
子どもの頃、海と山に挟まれた小さな村の山側に住んでいた。時折、山に住む修験者を見かけることがあった。汚れた装束で、シャラーン、シャラーンと澄んだ音を鳴らす金属の杖を持ち、首から法螺貝をさげて長い髪を振り乱したその姿にあたしが怯えると、兄たちは「おまえの本当の父ちゃんが迎えにきたんだ」と、左右から腕をつかんで引きずって行こうとした。
泣いて抵抗しながら、あたしはいじめられながらここで暮らすより、山伏と一緒に行った方が幸せになれるのではないかと思うようになった。それが本当のお父ちゃんであっても、なくても。
心を決めて待っていたのに、山伏はぴたりと現れなくなった。代わりに訪れたのは松尾の御前様のお使いだった──。
「わんわんをいじめないで!」
憤慨する珠々の声に、男がすごい勢いで振り向いた。あわてて珠々の口をふさぎ、男に頭を下げる。
「わんわんは怖い病気を持ってるかもしれないんだよ。嚙まれたら死んじゃうんだから。お兄さんは助けてくれたんだから、お礼をいおうね」
「わんわん、可愛いのに」
珠々がふくれる。
あの犬は皮膚病も持っていたようだし、どこをどう見たら可愛いのかあたしには理解しかねた。まあ、珠々はたいがいの動物を可愛いというのだ。
男が枝を捨てた。一瞬だけ合ったその目がリスか何かの小動物のようにつぶらで臆病そうなのを意外な思いで見た。
「あの、ありがとうございました」
男はふいと視線をそらして立ち去った。それがガンちゃんだった。
二度目に会ったのは二か月後だ。朝から気温が急上昇したその日はよりによって一時間目から体育で、あたしはどうしても登校する気になれなかった。
一年生男子の体育を受け持つ教師Dは二十代後半の男性だ。機関車のような顔をして、機関車ならつるりとしていればいいのにニキビだらけで、唾を飛ばしてしゃべる声がやたらと大きい。
彼は入学して最初の体育の授業で、校庭に整列したあたしの腕をいきなりつかみ、
「おい、化粧をしているのか?」
と、いいがかりをつけてきた。
あたしは無言で列を抜けて水道へ行った。蛇口をひねって水を出し、両手ですくってバシャバシャ顔にかける。濡れた顔で振り返り、着ている体操着をめくって額からあごまでをぬぐった。
「これでいいですか?」
顔を拭いた体操着にはまゆずみも頰紅も口紅もつかない。もともと素顔なのだからつく道理がない。たれかかる前髪をかきやると、水滴が散って小さなプリズムをつくった。
Dは呆然としたようにあたしの顔を見つめたあと、
「──よし、戻れ!」
夢から醒めたようにお尻を叩いた。指が少し動いた、気がする。
こっちはちっともよくない。ひとことくらい謝るのがすじってものじゃないだろうか。だいたい人のお尻を触るなんて、本当に気持ちが悪い。
自分の顔が人目をひきすぎることも、たいていの男子生徒が坊主刈りをしている中で毛先が耳やうなじにかかる髪型が目立つことも承知している。
でも、この顔は生まれつきだし、髪はこれ以上一ミリも短くしたくない。徒歩で通えるというだけの理由で選んだ学校だけど、そもそも自由な校風を標榜する高校で、髪型の規則はないはずである。
そんなことがあって、もともときらいな体育が大きらいになった。それ以来なぜかあたしに優しくなり、やたらべたべたと触ってくるDには虫唾が走る。
Dの顔を見るのも毛深い手に触られるのも耐えがたく思われて、あたしは登校する生徒たちの群れを外れ、不忍池の方から公園に入ったのだ。
はじめてのサボタージュに少しびくついていたとはいえ、体育の授業に出ないですんだ安堵感の方がずっと大きかった。葉桜の並木の下をぶらぶら歩いて西郷隆盛の銅像に行き着く。隆盛の連れている犬があの時の野良犬に似ていると思いながら裏へ回って、一人の男に気づいた。
植えこみの中に新聞紙を敷き、麻雀牌を神経衰弱のように伏せて、何かぶつぶつ口の中でとなえながら左手だけでめくることをくり返している。季節外れの外套と帽子を身につけた男は、犬を追い払ってくれたあの人にまちがいなかった。
「おじさん、何してんの」
思い切って声をかけた。
「ぼくのこと憶えてない? 桜がつぼみだった頃、野良犬を追っ払ってくれたよね」
振り向いた男はぽかんと口を開けた。ぎざぎざの汚れた歯が覗く。年齢は三十そこそこだろう。
──おかしい、もうヒロポンはやってねえのに幻覚が見える。観音さんのお迎え? おれにそんな上等な迎えが来るもんか。こりゃあいよいよ頭がいかれちまったか。
一瞬のうちにそんなことを考えたのだと、あとで話してくれた。
桜並木ではもっと距離があったし、逆光で顔はよく見えなかったのだ、と。
あたしは男の隣にしゃがんで膝を抱いた。悪臭が鼻を刺す。花姉ちゃんに引き取られるまであたしもこれと大差ないか、もっとひどかったはずだ。
「それ、麻雀牌でしょ?」
腕が触れ合った瞬間、彼の方が飛びのいた。
「おう、麻雀がわかるのかい」
「やり方は知らない」
「これがイーピン、こいつがリャンピン、サン、スー、ウー、ロー、チー、パー、キューだ」
次々に牌をひっくり返すと、サイコロの面のような牌が、一から九まで順番通りに表を向いた。あたしがきょとんとしているのを見て、
「これならわかるだろ。トン──いや、東西南北」
早業のように表に返した四つの牌にはそれぞれ東、西、南、北の文字があった。
「すごい!」
牌を手に取ってみると、漢字や模様はただ描いてあるのではなく彫りこまれている。
「触ってわかるの?」
「それもできるが、こいつは違うぜ。ようし、おれが指差すのを坊主がめくんな。なんの牌か、見ねえで当ててやるから」
「ケイだよ」
「あ?」
「ぼくの名前、ケイ」
「洒落た名だな」
「おじさんは?」
「おれはガンで通ってる」
「ガン、さん」
「さんってガラじゃねえや」
「じゃあ、ガンちゃん」
牌の種類や呼び方は知らなくても、「竹の二」「筒の三」などといわれるとどの模様のことかなんとなくわかった。ガンちゃんは裏返しの牌に触れもせずに全部いい当てた。
「魔法?」
「禁断の魔法さ。こいつがその代償だ」
長袖に隠していた右手を出してひらひら振ってみせる。その手には中指がなかった。
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