始まった結婚生活。和菓子『藤村堂』の若女将としての生活は順風満帆だった。夫の幸太郎は、菓子の作り方などでは、古株の菓子職人に眉をひそめられることも多かったが、楓にはとにかく優しかった。舅も楓を可愛がってくれて、「祇園№1の舞妓やったんや」と周囲に自慢しまくっていた。
ある夜、菓子組合の会合の後、酔って上機嫌な舅と夫が仲間を大勢連れて帰って来たことがあった。
慌ててあられやナッツ、塩昆布を並べ、お酒をお酌してまわっていると、ますます酔いのまわった舅が楓に、まるで自慢の骨董品でも披露するかのように、けれど無遠慮な手つきで肩を叩き、大声をだす。
「せっかくやさかい、お座敷で見せてた舞を皆に見せたげぇな」
楓は固まった表情に気づかれまいと、うつむきながら控えめに返すのが精いっぱいだった。
「いいえ、もうお座敷からは引いた身どすさかい、舞は見せらしまへん」
そもそもこんな普段着で、地方さんのお三味線もなしに舞えない。
それでも舅はしつこい。
「せめて、お三味線でも弾いてみいな。そや、祇園小唄がええわ」
仲間たちからも歓声があがる。夫に助けを求めたが、その夫が嬉しそうに三味線を持ってくる始末。
「なあ、弾いてみいな。唄てみいなあ」
夫もうれしそうに三味線を押しつけて拍手する。どうにもその場は収まらず、皆の声に仕方なく、うなずくことにした。
「ほなお耳汚しどすけど」
弾き、唄うと、やんややんやの大歓声が起きた。その時、姑がふすまのすきまから楓を睨みつけた目にギョッとした。
案の定、客が帰るやいなや姑に呼びつけられ、「二度と歌舞音曲まかりなりまへん」と目の前で三味線の弦を裁ちバサミで切られ、皮を出刃包丁で破られた。
*
結婚から二年。楓が二十三才のとき男の子が誕生した。夫はもちろん舅も、厳しかった姑も大喜びして、家のなかがパッと明るくなった。
「後継ぎができた。良かった」
学人と名付け、母としての幸せをかみしめ、おだやかな日々がはじまった。
学人の三才の誕生日は舅の発案で『下鴨茶寮』で祝うことになった。前日には姑と『やま京』に、お店の人に渡す祝儀袋を買いに行ったが、姑は楓にこんなことを言う。
「女将さん、板長さん、中居さん、下足番さんやら、ご祝儀の金額が違うさかいにまちがわんように。そやゆうて露骨にわかるのも不細工やさかい、ポチ袋の柄違いにして、きちんと金額覚えておきよしなぁ」
それから銀行にも連れていかれ、担当の行員に紹介され、
「明日、孫の三才のお祝いに下鴨茶寮さん行きますさかい。ご祝儀の新札が欲しおすねん。あ、これうちの嫁ですけど、そろそろうちのお金のこと、みんなまかせよと思てますねん、宣しゅうお頼申します」
突然、姑に言われ、驚くが、行員が丁重に頭を下げるので、楓もとまどいながら頭を下げた。
誕生会での学人は立派だった。
「三才のお誕生日おめでとうございます。三才の七五三では、髪置きの儀のお食事をご本人様に出させてもろてますが、今回はお誕生日ということで少し内容を変えさせていただき……」
料亭の女将の難しい説明も、大きい目をくりくりさせながら、ちょこんと正座したまま聞き入っている。そしてお箸を上手に使ってこぼさずに口に運んでゆく。
「お行儀のええこと」
「お豆さんまで転がさんとあんじょう食べて偉いなぁ。さすがわしの孫じゃ」
姑や舅が学人の立派な成長を喜ぶ姿を見ながら、楓もまたホッと安堵していた。
──つい先日まで、レストランでは三分もじっとしていられなくて、子ども用椅子から脱出して店内を走りまわっていたのに──。
*
あれは、創業三百十年を祝う親戚一同が集まった、洋食『菊水』でのことだった。
学人は、メイン料理が出る頃には退屈の限界に達し、ついに子ども用の椅子からすり抜けてしまった。止めようとする楓の手を振り切り、「キャハハ!」と声を上げて、静寂に包まれた店内のシャンデリアの下を猛スピードで走り回ったのである。
その瞬間、舅の手がピタリと止まり、銀食器が触れ合う音さえ消えた。
「……楓さん、あんた。この子は、お座敷の酔客やないんやえ」
舅の低く冷徹な声が響いた。走り回る子を捕まえることもできず、ただ、必死に学人を追いかける楓の背中に向けて、姑が追い打ちをかける。
「お里が知れるとは、このことやね。華やかな世界で育った人は、地味な“我慢”の教え方を知らはらへんのやろか。そんな風に野放しにするんやったら、この子はうちの暖簾を継ぐどころか、汚すだけやわ」
「すみません……私がいたらないばかりに……」
店内の他のお客や親戚たちの冷ややかな視線に晒されながら、楓は学人を抱きしめ、ただひたすら頭を下げ続けた。
その夜、家に戻ってからも、舅から「次にこんな恥をかかせたら、学人は私たちが預かって、あんたの手の届かへんところで厳しく育てる」とまで言い渡されたのだ。
それに学人が赤ちゃんの時は、夜泣きがひどくて、どうしても泣きやまず、姑や舅の目が気になり、自宅を出て近所の神社まででかけたこともあった。深夜の神社で学人を抱いてなだめて震えていると、姑が闇夜から音もなく現れ、憐れみとも、蔑みともつかぬ冷ややかな視線を学人に投げつける。
「こんなご近所で泣かしてみっともない。明日の朝には“老舗の若女将が夜逃げ同然で赤子を泣かせていた”と、街中の噂になりますわ。あんたのせいで、暖簾にどれだけ傷がつくか分かったはんの?」
おまけに姑は周囲の家に明かりがつかないか、執念深く確認しながら、𠮟りつけてきたのだった。
仕方なく、鴨川沿いを北へ北へと学人をおんぶして、泣きながらさまよったことを思い出すと、三才になった学人の成長は楓にとって誰よりもうれしく、涙が流れたのだった。
*
翌月から姑による経理、帳簿の付け方の特訓が始まった。お小遣いすら持ったことのない楓には聞いた事のない単語ばかりで最初は戸惑ったが、勘のいい楓が習得するのに日はかからなかった。
「最近は数字見るだけで、頭がクラクラしますねん」
と言って、帳場に陣取らず自室にいることの多かった姑だが、領収書入れを開けると、先月分どころか三~四か月前の領収書やレシートが、キャベツやエノキといった明らかに家計分のものまで無造作に放り込まれていた。姑は長年の帳簿付けが面倒だったのではないか。そうでなければ店の要ともいえる帳場を楓に担わせないだろうと納得した。
それでも毎月の帳簿付けに取り組み、やっと慣れて溜まった領収書も少なくなってきた頃、七万円の妙な領収書を見つけた。お店の名前は『ぽっち屋』で、舞妓の履くこっぽりを売っている店である。楓も見世出しの時、この店でこっぽり、通称「おこぼ」を作ってもらい、嬉しがったのを覚えている。
おこぼは履いているうちにすり減ってくるし、雨にぬれて変色もするので、ご祝儀を貯めて同期の舞妓が新調しているのが、うらやましくてならなかったものだ。
だがこの『藤村堂』では、舞妓の着物をあつらえることもないし、経費でおこぼを作る意味がわからない。おこぼではなく、『ぽっち屋』では普通の草履も扱っているのでそれかと思ったが、せいぜい二万円台で、七万円という金額はやはりおこぼっぽい。矢も楯もたまらず、ぽっち屋に飛んでいった。
「あぁ、ようお越し。相変わらずべっぴんやなあ」
と店主は言いながら鼻緒を選んでいる。
「しばらくどす。最近、帳場担わされたんどすけど、分からへん領収書が出てきて、ちょっと教えてほしいんどす」
と例の領収書を見せる。店主の顔が曇る。
「これ、おこぼのんどすなぁ。七万円どすさかい。うちの誰が誰に買うたもんどっしゃろ?」
店主は顔を上げず、手を止める。
「たぶんどっかのお家の舞妓ちゃんに買わはったんやと思いますけど、誰が誰にてわからへんと、税務署さん来はった時に説明できまへんさかい。お頼み申します」
店主は顔を上げずに、長い沈黙の後、
「それはちょっと言えまへん。けど、領収書の中に祇園界隈の洋品店やら靴屋のんはおへんか? ちょっとさがしてみなはれ」
と言って、鼻緒をすげ出した。
「おおきに!」
楓はぽっち屋を飛び出し、店に戻り、領収書を見ていく。
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