大丈夫

 

「め、め……」

「何? どうしたの? おめめが痛いの?」

「め、おちてるよ」

「ええ!? やあだ、おめめなんて落ちてないよ。あれはね、ボールだよ。スーパーボールっていうの」

 

 

 雲がどんよりと重い。雨が降るのだろうか。

 永子えいこは空を見上げている。

 思い返せば恵まれた時代だったと思う、自分の生きてきた時代は。辛いと思うことが全然なかった、というわけでもないけど、とりあえず直接戦争に巻きこまれたりすることもなかったし、明日殺されるかもしれない恐怖、とか、食べ物がなくて飢え死にしそうになって苦しむ、なんてことは経験せずにすんだ。だから、いい時代だった。だった、とか過去形で思うこともないんだけど、まあ、そうだった。

 永子は細い雑草を人さし指と親指でつまんで、土から抜いた。土にからんだ細い根が、ぶちぶちと切れるのがわかる。

 駅と自宅の間にある広い公園に来ていた。公園の中にある階段を上りつめると、街の景色を一望できる場所がある。そこに座り、広い空を見上げていた。この街に越してきたときから、永子のお気に入りの場所だった。かつては夕方になると近所の子どもたちが集まり、にぎやかだった。子どもたちが笑ったり、軽く喧嘩したりする声を聞きながら、景色をぼんやりと眺めたものだった。そんな子どももめっきり少なくなり、今、公園には永子しかおらず、ひとりきりだった。

 雨、降るのかな。だるいな。買い物しなきゃ。そろそろ洗濯物も取り込んで。早くしないと湿ってしまう。でも、今朝干した、あのグレーのパーカーのフードは、まだ半乾きなんだろうな。あのフードって、がんこに乾かないから、滅多に洗いたくないのに、よく洗濯物の中にある。なんだってみんな、何かに役に立つってわけでもないあんなものが、好きなんだろう。重いだけだし、迷惑なだけだし。まあ、あれ着てると、誰でもちょっとかわいく見えるのは、確かなんだけど。子どもなら純粋にかわいく、おじさんは痛々しくかわいい。かわいく見せたいと思っているのか、夫も。小柄な夫の案外広い肩を思い出す。

 永子は首を傾けて空を斜めに見上げた。空が青黒い。自分の顔は、たぶん生気がないだろうと思う。少し眠い。いや、かなり眠い。でも、立ち上がらなくちゃ、とつぶやく。立ち上がって、買い物に行って、今日のおかずの材料を買って、洗剤とかも買って、両手にいろんなもの提げて、息も切れて、でも、家に帰ったらすぐに冷蔵庫に買ってきたあれやこれやをしまって、それからベランダへ出て、洗濯物を入れて。パーカーはやっぱり湿っているので部屋に吊るして、乾いた洗濯物の入った籠を抱えて、ちょっとごめんね、と床に寝そべっているあの人たちを越えて。

 あの人たちは寝そべったまま、ああ、とか、うう、とか言うだろう。自分は、あの人たちの、母という名の、妻という立場の、永遠の裏方。下働き。永子は下唇を噛みしめた。

 昨日と変わらない今日。なんのためにこういうことをしてきたのだろう。し続けてきたのだろう。なんのために。永子は、もう一本草を引き抜こうとして、直前でやめた。

 なんのため、なんてことを考え出したらいけない、と思う。そう思いながらも、やはり考えずにはいられなかった。今日の自分は、正確には、診断結果を聞いたあとの自分は、それまでの私とは、ちがう。

 家族のことを、あの人たち、と永子は思う。あの人たちは、「わが家」の床に寝そべっている。安心して寝そべっているのだ。他の場所では、絶対にあんなふうではない、はず。あんなふうでは、社会でも学校でもやっていけない。あそこでだけ見せる、かぎりなく油断した姿。巣だもんね、家って。そうそう、巣に帰らなくっちゃ。もう陽が傾いている。そのうち陽が落ちる。暗くなる。こんなふうに私も、だんだん見えなくなってくる……。

 胸が冷たくなってきて苦しくなり、ゆっくりと立ち上がった。足もとがぐらぐらする。怖い。目の下に、光っている窓が見える。

 夕陽が落ちた夜の世界には、あかりが灯る。人工の光が、世界に贋物にせものの昼間をくれる。でも、と、永子は自分の未来の時間を思う。私の暗闇にはあかりは灯らない。一度見えなくなったら、ずっと見えない。目を開けても、閉じても。記憶の中でしかあかりは灯らない。

 永子は冷たくなった胸をあたためるように、胸の中心にてのひらを当て、上から軽く押さえた。

 そんな日は、来るかもしれないし、来ないかもしれない。それは、誰にとっても起こりうることだ。自分はその可能性が人より高いということを知らされただけ、ともいえる。しかし、可能性ゼロだった意識から、ゼロでなくなったという意識の変化は、大きい。とても大きい。

 永子は階段を降りはじめた。一瞬踏み外しそうになって、さらに胸が冷たくなった。

 

 

『ひとっこひとり』は全3回で連日公開予定