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「さて。これからどうするつもり?」

「死ぬ気で勉強して……次の期末テストでは、こんなことにならないようにする」

「あとは?」

「……勉強に集中したいから、今日の夕飯は抜き、で」

「当然よ。食事の時間はもちろん、寝る間も惜しんでやりなさい。ああそうそう、この割れたカップ、やっぱり片付けておいてあげるわ」

「……いいの?」

「つくづく恵まれてるわよね、うちの子たちって。家のことをなんにもやらずに、受験勉強に専念させてもらえるんだから。お母さんはね、あなたの将来のために、毎日毎日、全身全霊を注いでるのよ。感謝してよね」

「してるよ」

 そう答えると、母は満足げに唇の端を持ち上げた。じゃ、これは預かっておくから、と母が結果表の紙を引き寄せたのを合図に、僕もズボンのポケットから取り出したスマートフォンをダイニングテーブルに置き、きびすを返して二階の“勉強部屋”へと向かおうとする。

「そうだ、高志」

「……ん?」

「あんたの机の引き出しにしまってあった紙、捨てておいたから」

「紙──」心当たりがなく、首をかしげる。「──何のこと?」

「夏休み中の体育祭準備について、とかいうお知らせの紙よ。どうせ、高校生の本分は青春、だとかバカなことを言ってる劣等生たちが作ったんでしょう。受験前の勝負の夏に、たかが学校行事のために登校を呼びかけるなんて、何考えてるのかしら。それを許可する教師も教師よ。部活だって絶対に入らせなかったのに、ましてや体育祭だなんて、そんな時間があるわけないじゃないの」

 一方的に憤りをぶつけられ、ようやく思い出した。母が見たのはおそらく、計算用紙として使おうとしていた裏紙のうちの一枚だ。受験勉強が本格化してからノートの減りが速くなり、家計を管理している母に何度も文句を言われたため、なるべく不要な紙を溜めておいて再利用するようにしていたのだけれど、それが裏目に出たようだった。

 最近は勉強に関係のない配布物を不用意に持ち帰らないように気をつけているから、たぶん、去年か一昨年のものだろう。弁解しようかどうか迷ったものの、母の勘違いを指摘するのは得策ではないと判断し、黙っていることにした。

「高校生の本分は勉強に決まってるでしょ。高志が生まれてから十七年間、こんなに学費や生活費や手間をかけてきたのに、この正念場の時期を青春なんかに費やされたら、私たちの努力が台無しだわ。あなたはそんな親不孝をする子じゃないって、お母さん、信じてるからね」

 最後だけ、母の口調が甘く、優しくなる。不機嫌な声を浴び続けてひどく痛んでいた頭が、心地よく痺れ、ふっと軽くなった。「言っとくけど、全部期待の裏返しなんだからね」という母の念を押すような台詞に、ゆっくりと頷く。

「ほら、さっさと行って。ちゃんとスケジュールどおりにやってるか、あとで見にいくから」

 追い払われるようにして、部屋を後にした。リビングは涼しかったけれど、廊下にはむんとした熱気が立ち込めている。六月ももう下旬だから、たぶん梅雨入りしているのだろう。

 自室に入って、ドアを閉めた。私服に着替えたのち、母が様子を窺いにきたときのため、再びドアを開け放つ。そうしておかないと、隠れて漫画を読んだりゲームをしたりしているのではないかと、あらぬ疑いをかけられることになるからだ。僕としては、わざわざ火種ひ だねを作るようなことはしたくないし、幼い頃から固く禁止されてきたそれらを今さらどこかで借りてくるつもりも毛頭ないのだけれど、子どもというのは得てして親に信用されない生き物であるらしい。

 学習机の前に座り、数学の問題集を開く。部屋は蒸し暑いけれど、七月にもならないうちからエアコンを使い始めたら、父には根性が足りないとなじられ、母には電気代が上がると目くじらを立てられるだろう。せめて夏休みが始まるまでは辛抱するしかなかった。

 昨日の続きから再開しようとシャーペンを握ったとき、右手の甲に突っ張るような痛みを覚えた。見ると、横一文字の赤い傷ができていて、血がにじんでいる。先ほど母が投げつけてきたフライ返しの角が当たって、皮膚が切れてしまっていたようだった。

 これは目立つし、数日は治りそうにないな、とため息がこぼれそうになる。

 でも、仕方ない。

 両親からの期待に、まったく応えられなかったのだから。

 そう自分に言い聞かせ、重苦しい気分を振り払って勉強を始めた。

 時計を気にしつつ、苦手としている漸化ぜん か式の問題に取り組んでいる最中、ふと、隣の部屋から足音がするのに気がついた。

 よかった、と思わず笑みが漏れる。──今日はきちんとベッドから出て、元気に過ごしているみたいだ。

 頑張れ、お姉ちゃん。

 しばし目をつむり、かつての姉の姿を思い出す。僕が深夜まで“特訓”をいられて机の前で泣きべそをかいているとき、中学受験の難しい応用問題を分かりやすく手ほどきしてくれた賢い姉。それなのに僕が志望校に軒並み落ち、両親に冷たく突き放された合格発表の日の夜、代わりに自分がこっそり小学校の卒業式を見にいこうかと遠慮がちに申し出てくれた優しい姉。第一志望校だった難関中学の制服を着たお姉ちゃんが来たらもっと情けなくなるからと断ると、一瞬きょとんとしたのち、あ、そっか、と恥ずかしそうに苦笑していた無邪気な姉。

 高志くんって、あの染野奈保な ほちゃんの弟なんでしょ。

 そういった言葉に僕が毎度感じていたのは、二割がプレッシャー、八割が誇りだった。両親や周りにどんなに比較され、「できないほう」の不名誉な烙印を押されても、姉自身への尊敬が失われることはなかった──お姉ちゃんだから。そのぶん姉は、いつも思いやりをもって僕に接し、お菓子を半分にすると大きなほうを譲ってくれたり、両親の虫の居所が悪いときに進んで矢面や おもてに立ってくれたりした──お姉ちゃんだから。

 そんな優秀だった姉を、二年前、大学受験という名の魔物が呑み込んだ。

 その魔物に、僕もこれからまさに挑もうとしているのだと思うと、心の真ん中を貫いている糸が、今にも切れそうなくらいに、ぴんと張り詰める。

 

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