差し込んだ鍵を回し、家に入る。
後ろ手でドアのロックをかけると、カチリという無機質な音が、白で統一された玄関に響いた。一日の平和な半分が終わり、窮屈なケージに自分自身を監禁する音。
専業主婦家庭でありながら、家の鍵を自分で開けて入るのは、小学生の頃からの習慣だった。家事で忙しい母の手を煩わせないようにするためだ。一度か二度、鍵を持って出るのを忘れてやむなくインターホンを押したときは、だらしがない、自己管理がなっていないと、厳しい口調で叱責された。以来、外出時には細心の注意を払っている。
ローファーを三和土の端にそろえて脱ぎ、ただいま、と家の奥に向かって声をかけた。相手が料理や皿洗いをしていても聞き逃すことがない程度に大きく、また外に漏れ聞こえない程度に小さい、適切な声量で。その際、玄関のドアは完全に閉じていなくてはならない。
おかえり、の声が返ってくることはない。
その代わりに、キッチンの方面から物音がする。
玄関のすぐそばには、二階へと続く階段があった。ただし、リビングに顔を出さずに自室に向かうわけにはいかない。今日のように、母が首を長くして待っている配布物が通学鞄に入っている日は、この帰宅直後の時間が特に憂鬱だった。
リビングのドアを開けると、カウンターキッチンの向こうに、こちらに背を向けている母の姿が見えた。昔、父が出張先のフランスで買ってきたという派手な白いレースのエプロンを身につけ、食器棚の整理をしている。
数秒経って、母がようやくこちらを振り返った。家の中でも口紅を塗り忘れることのない赤い唇を、素早く動かす。
「今日だったわよね。見せて」
顔を合わせるなり、こちらに手を差し出してくる。そう要求されることは分かり切っていたから、すぐに取り出せるよう、例の個人結果表は鞄の外ポケットに入れてあった。
細長い紙きれを手渡す。みるみるうちに、母の両目が吊り上がった。
「──これ、何?」
「今回の……中間テストの結果」
「見れば分かるわよ。順位、下がってるじゃない。なんで?」
すぐには答えられなかった。反省すべき点は山ほどある。数学の見直しが甘かったこと。古文の文法問題の演習が足りなかったこと。英語の発音問題の配点を見誤ったこと。要するに──。
「努力が、足りなかったから……」
「はあ?」
呆れと侮蔑の入り交じった低い声色に、僕は身をすくめた。
次の瞬間、母が調理台に勢いよく平手を叩きつけた。隅に置いてあったコーヒーカップがシンクへと転がり落ち、派手な音を立てる。
「たるんでるんじゃないの? よりによって、この大事な時期に! あんたは元がバカなんだから人一倍勉強しろって、いつも口酸っぱく言ってるでしょ? 親の言うことをちゃんと聞かないからこんなことになるのよ。三年生になって最初のテストだっていうのに、冗談じゃないわよ!」
激昂した母が、調理台の上にあった金属製のフライ返しをひっつかみ、渾身の力で投げてきた。顔をかばった右手に衝撃があり、鋭い痛みが走る。跳ね返ったフライ返しが白いタイル張りの床に落ちて、耳障りな音を立てた。
母が息を荒くしながら、シンクを覗き込む。
「あーあ……割れちゃったじゃない。家事の合間に休憩するときにいつも使ってた、お気に入りのカップだったのに。あとで片付けておいてよね」
「うん」
「ったく……こんな成績取って、お父さんが何と言うか」
結果表の用紙についたしわを丁寧に伸ばしながら、母がキッチンを回り込み、ダイニングテーブルへと移動する。深いため息をつきながら椅子に腰かけた母は、恨みがましい目でこちらを見上げてきた。
母の懸念ももっともだ。来週出張から帰ってくる予定の父が疲れた頭でこの結果表に目を通すことになると思うと、暗澹たる気持ちになる。
「ああもう、あんたみたいな子を持つと頭が痛いわ。世の優等生たちのお母様方が羨ましい。こうして毎日尻を叩かなくても、親戚中に自慢できるような成績を取ってきてくれるんでしょうからね」
「ごめん……」
「あんたってほんと、詰めが甘いわよね。この時期に余裕ぶってていいのはね、受験勉強をこれっぽっちもしなくても東大に行けるような天才だけよ。あんたみたいなバカが真似しちゃダメ」
分かっている。僕のような凡人は努力あるのみ。正論だ。だから耳が痛い。
「何なの、その顔は」
真摯に反省していたつもりだったのだけれど、母の目にはそうは映らなかったようだった。
「学校のテストは受験と関係ない、なんて言い出さないわよね? 考えてもみてよ。東大にぽんと合格するような人は大抵、定期テストでも楽々トップを取り続けるものでしょ。そんな言い訳はね、負け犬の遠吠えなのよ」
今日のホームルームで、奇しくも担任が似たようなことを言っていた。まさにそのとおりだ。ぐうの音も出ない。
母の説教に納得すればこそ、何も言い返さなかった。しかし、その態度がまた母の怒りを煽ったようだった。沈黙は金、雄弁は銀などという海外のことわざがあるけれど、どちらが金でどちらが銀かは、この家において、そのときの両親の気分により簡単にひっくり返る。
「いい加減、危機感を持ちなさいよ。失敗ばかりで私たちにさんざ迷惑かけてきた高志が親孝行できる最後のチャンス、それが大学受験なんだから。ここで挽回しないと欠陥品に逆戻りよ」
「……うん」
「お母さんもね、本当はこんなに怒りたくないの。何も言わなくても高志が自分で勉強して成績を上げてくれたら、どんなに幸せか。でもね、こんなテスト結果を見せられたら、親としてきちんと叱らざるをえないでしょう? 今お母さんがどんなに心を痛めているか、高志には分かるかしら」
「……ありがとう。いつも気にかけてくれて」
中学受験に失敗した小学六年の冬が、頭をよぎる。他の親に合わせる顔がないからと、両親がそろって卒業式への参加を見送った、あの惨めな日々には二度と戻りたくない。
息子への思いを語るうちに、母の怒りは次第に落ち着いてきたようだった。まだ不機嫌そうではあるものの、表情が幾分和らぎ、声に冷静さが戻ってくる。
「サクラサク、サクラチル」は全4回で連日公開予定