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「すみません、先生、トイレに、行ってきても……」

「はいはい」

 ひどい頭痛と吐き気をこらえながら、廊下へと急いだ。僕の様子に注意を払う物好きな人間はこのクラスにいないため、体調の異変に気づかれる恐れもない。

 無事に男子トイレに辿りつき、一番奥の個室に駆け込んだ。この時間はどのクラスでも定期テストの結果表の配布が行われているからか、中はがらんとしていた。

 便座には腰かけずに、ズボンのポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、震える指先で操作する。適当にニュースや天気予報のアプリを立ち上げ、雑多な情報を摂取して気持ちを落ち着けようと努めた。ひんやりとした個室のドアに背中を預け、他者との接触を断った空間で電子機器の発する人工的な光を凝視し続けているうちに、だんだんと正常な呼吸ができるようになり、嫌な汗も少しずつ引いていった。

 ただ、すぐに教室に戻る気にはなれなかった。中間テストの総合結果を無邪気に報告し合っているクラスメートたちの視線を浴びれば、また先ほどと同じことになるかもしれない。短時間のうちに二度も、今にも死ぬのかと錯覚するような苦痛を味わうのは御免だった。

 そのまま個室内に立ち尽くしていると、教師が授業をする声が聞こえてくるのに気がついた。もう一時間目が始まっているらしい。定期テストの学年順位に打ちのめされたのに加え、教室で醜態をさらすまいと極限まで気を張り詰めていた反動で、しばらく放心状態になっていたようだった。

 個室のドアを開け、よろめきながら歩き出す。

 重い疲労感を引きずりつつ、誰もいない男子トイレを出て、教室まで一人で移動する──はずだったのだけれど、廊下には意外な先客がいた。

 女子トイレとの間の壁にもたれかかり、長い黒髪の先を気だるげに指に巻きつけている、華奢で小柄な女子生徒。茶色の通学鞄を肩に下げていて、もう片方の手には図書室のシールが貼られた文庫本を携えている。

 色白の頬がぴくりと動き、次いで大きな黒い瞳がこちらへと向いた。校則で禁じられているため化粧はしていないはずなのに、睫毛まつ げはふんわりと長く、唇は理想的な赤みを帯びている。教室で何度も目にしたことがあるにもかかわらず、あまりにも可憐に整いすぎているその顔の造形に、一瞬たじろいだ。

「ええと……ほしさん?」

 一年生のときから三年連続で同じクラスだけれど、名前を呼んだのは初めてだった。星愛璃嘉え り か、という彼女のフルネームを思い出す。クラス全員の氏名を一覧にしたとき、多すぎる画数のせいでいつも一人だけ浮き上がって見える彼女は、現実にもひときわ浮いた存在だった。

 人形のような可愛らしさ。それでいて表情の乏しい顔。最低限の出席時数のみ満たせればいいと考えているのか、入学時から無断欠席や遅刻・早退を繰り返しているため、彼女が一日中教室にいることはめったにない。保健室登校をしているという噂もある。教室に来るときは、後方のドアからすっと現れ、誰とも言葉を交わさないまま、休み時間の雑踏に紛れていつの間にか姿を消す。ぱっと目を引く外見をしているから、星さんがいる日はみんなそわそわと彼女を気にするけれど、本人はどこ吹く風で、持参した文庫本を自分の机で黙って読んでいる。

 名前を呼ぶどころか、こうして至近距離で顔を合わせるのだって、当然のことながら初めてだった。クラスで埋もれている僕と、浮いている星さん。一見して似たような立場でありながら、彼女は僕にとって、教室内で最も遠い人間のような気がしていた。どこか別の世界の匂いがする、というのだろうか。

 だからこそ、そんな彼女の口から飛び出した言葉に、目を見張った。

「染野さ、大丈夫?」

「……え?」

「大丈夫かって、いてるんだけど」

 外界に興味のなさそうな星さんが、僕の苗字を平然と呼んだことに驚く。内藤くらいの存在感があればいやおうでも名前を覚えるだろうけれど、僕はクラスで最も影が薄い部類の人間だ。ともすれば認識すらされていないのではないかと思っていた。

 突然の問いに戸惑っていると、星さんは僕が出てきたばかりの男子トイレのドアに目をやり、また僕をまっすぐに見上げた。天井の蛍光灯の光が、つややかな黒髪に天使の輪を描いている。人気ひと けのないしんとした廊下では、彼女のまとう異色のオーラがひときわ大きく感じられるからだろうか、そこで初めて彼女との身長差を自覚した。一六六センチの僕、おそらく一五〇センチそこそこの星さん。

 彼女の何か言いたげな視線の意味を察し、息を呑む。

 教室での僕の体調の異変を見抜いたというのだろうか。よりによって、星さんが? トイレの前に退屈そうにたたずんでいたのは、なかなか出てこない僕を待っていたから?

 そもそも僕のほうはといえば、学年順位のことで頭がいっぱいになっていたせいか、星さんが珍しく朝から教室に来ていたことも今の今まで忘れていた。そういえば、後ろの席の女子生徒たちが声を潜めて噂していた気がする。そして今、彼女が通学鞄を持って廊下にいるということは、中間テストの個人結果表を受け取るという用を済ませ、はやくも早退するところなのだ。もしくは、これから保健室に行くのかもしれない。

 いずれにせよ、他人との交流を好まない星さんが、なぜ僕を追うように教室を出て、自ら声をかけてきたのかは、謎のままだった。

「ああ……ごめん、ちょっと貧血で、気分が悪くなっ──」

「──そうかな」

 星さんがゆっくりと瞬きをした。その見透かすような目に、途端に居心地が悪くなり、反射的にひたいに手をやる。前髪を乱暴に手櫛て ぐしで梳き、ブレザーから覗く白いシャツの袖を強く引っ張って整えると、ようやく気持ちが落ち着いた。

「そうだよ。でももう治ったから大丈夫。心配してくれてありがとう。じゃ、教室に戻るね」

 早口でまくしたて、その場を後にした。自然と逃げるような歩調になる。J組の教室の前まで来て、恐る恐る振り返ってみると、星さんの姿はもうなかった。トイレのそばにある階段を下りていったのだろう。

 何だったんだ、今の。

 まだ動揺が胸に残っていた。今度こそ誰もいなくなった廊下を呆然と眺めていると、手に握ったままだったスマートフォンが短く震えた。

 新着通知を見る。心当たりのないメールアドレスが表示されている。

 またか、と嫌な予感がした。

 読まないほうがいいと分かっているのに、怖いもの見たさで通知をタップしてしまう。指紋センサーに親指の腹を当てると、匿名の差出人からの新着メールが開いた。

 内容に目を通す。一行ずつ読み進めるごとに、胸糞むな くそが悪くなり、体調不良中に感じたのとは別種の不安が脳をむしばみ始めた。貧血という説明が嘘とは言い切れなくなりそうなほど、顔から血の気が引いているのが分かった。

 朝からこの調子では、先が思いやられる。

 ズボンのポケットにスマートフォンを押し込み、J組の教室の前で耳を澄ました。こんな簡単な文法事項、今さら説明するまでもないと思いますが──などと受験生にプレッシャーをかけるようなことを言いつつ、時制の一致について解説している英語教師の声が聞こえてくる。

 僕はできるだけ身を小さくし、後方のドアからそっと、教室という名の日常へと滑り込んだ。

 

「サクラサク、サクラチル」は全4回で連日公開予定