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 一階の奈津子の部屋に入って、そろーりとキッチンへ進み、イチゴをザルに空けた。

 さっと水洗いして、まだ味見をしていないノエチに一つ食べさせる。

「甘い!」

 とノエチはようやく感心したように言った。「小さいのに、ちゃんとイチゴの味がするね」

「まあね、イチゴだからね」

 奈津子も一つ、口に放り込む。「甘い!」

 ノエチの着ているTシャツには、奈津子のオリジナルキャラクター、ふわふわと飛ぶ天使のような、小さな「ソラちゃん」がいくつも描かれている。

 おっとりとしていて、やさしく、花の名前に詳しい友だち、同じ団地に住んでいたそらちゃんがモデルだった。

 その「ソラちゃん」を主人公に絵本を作ろうとしていて、そちらはまだ完成しなかった。もちろん奈津子が絵を描くのだけれど、小さい頃に気に入って、くり返し読んだ記憶のある絵本は、あかから生まれた「あかたろう」だけ。

 話を考えるのが難しいと泣きつくと、

「しょうがないな~、じゃあ、そっちはまかせて!」

 と、本好きなノエチがけ合ってくれたのだった。

 なのに、一向にストーリーが上がってこない。

「いくらのんびりした空ちゃんだって、いい加減呆れてるよ」

 一度、奈津子が文句を言うと、

「空ちゃんは、これくらいじゃ呆れないよ。いつもしゃがんで、じっと木や花を見てるから」

 ノエチは調子よく言い返し、少しも慌てるそぶりがなかったから、奈津子はひとまずオリジナルのグッズを作ってみたのだった。

 イラストや写真なんかを用意すれば、一個からグッズを製作・販売できるサイトを使い、「ソラちゃん」のTシャツと、エコバッグを作ったのだ。

 もちろん買って持っているのは、奈津子とノエチのふたりだけだったけれども。

「いいよね~同じ団地に部屋がふたつあるのって。便利!」

 最近、遊びにくると、ノエチはよくそんな調子のいいことを言う。

「家はひとつずつ、ひとつずつ」

 奈津子はきっちり訂正した。もっとも、口では堅いことを言っても、来客はもてなすタイプだ。ノエチも両親と同居の部屋へ帰るより、ここでのんびりしているほうが楽なのだろう。

「っていうか、もう二拠点生活かな、これは」

「いやいや、二拠点って。同じ団地だって」

 奈津子は笑いながら首を横に振った。

 

 ノエチとは違うタイプの神経質な奈津子は、外から来た荷物は、基本、一日寝かせることにしている。

 昨日届いた荷物を、玄関脇に置いてあったので、奈津子は運んで来て開いた。

 親戚のゆうちゃんからの宅急便だった。

 茨城のかさ市に住む遠縁だった。親同士が〈はとこ〉くらいのつながりだったけれど、裕子ちゃんが若い頃に東京の画材店で働いていたから、当時、奈津子の家(ここ)によく遊びに来ていた。

 十歳年上で、絵がうまい。少女漫画雑誌のコンテストに応募して、特賞のヨーロッパ旅行をプレゼントされたこともある。

 奈津子には、憧れのお姉さんだった。

 茨城の菓子舗の屋号が印刷された、八十サイズのダンボール箱の中には、新聞紙でくるまれた陶器と、奈津子の好きな「将門まさかど煎餅せんべい」と栗羊羹、それと手作りのアクセサリーが入っていた。

「やった~! 将門煎餅だ! メグちゃんのお皿もある!」

 しっかり声に出して喜び、新聞紙にくるまれた陶器を丁寧に開いていると、

「きれいなお皿」

 ノエチが言った。素朴な平皿に、馬の絵が刻まれている。

「ね、いいでしょ」

 と、奈津子は答えた。絵と色使いがあたたかく、でも可愛らしい。「ハネモノなんだって、これで」

「ハネモノ?」

「自分の作品として、売り物にはできないってことらしいよ」

「あ~、ハネるものね。がしゃん、って地面に叩きつけて割っちゃうやつだ、ガンコな陶芸家が」

「そう、ドラマでしか見たことないけど」

 奈津子も同じ光景を思い浮かべた。お皿を焼いたのは裕子ちゃんではなくて、近くに住む彼女の友人で、プロの陶芸家の女性だった。「売り物にはできないけど、使いたかったらどうぞ、って。前にひとつもらったことがあって、それ、気に入ってずっと使ってるって裕子ちゃんに言ったの、憶えててくれたんだね」

「へえ、いいね」

「得しちゃった。電話していい?」

「どうぞ」

「じゃあ、これでも読んでて」

 ノエチの暇つぶし用に、売り物にするつもりの雑誌「June」を二冊渡すと、奈津子は裕子ちゃんにお礼の電話をかけた。

 裕子ちゃんは家にいた。

 昔は東京と茨城を行き来していたし、特賞でヨーロッパにだって行ったのに、遠縁とはいえ血筋もあるのか、三十歳を過ぎた頃から、奈津子と同じようにどんどん乗り物が苦手になったようで、今ではまったく県外へは出ないらしい。

 もちろん奈津子は都内でもすぐに具合が悪くなるくらいで、とても茨城へ行ける気はしなかったから、裕子ちゃんと直接会うのは難しかった。

 そのぶん、こうやって定期的に荷物を送り合い、近況を電話で話している。

「最近、どんなふう?」

 お皿のお礼を言ってから、奈津子が訊くと、

「どんなも、こんなもないけどね」

 裕子ちゃんは笑いながら言った。

「おじちゃんも元気そうだね」

 荷物と一緒に、裕子ちゃんがお父さんと並ぶ写真が入っていた。たくさんの、大きな菊の花と写っている。「これっていつの写真?」

「写真? ああ。去年の秋、笠間の菊まつりのときのやつ」

「へえ、行ったんだ」

「行った、久しぶり」

 秋ということなら、半年くらい前の写真だったけれど、今していることを、なんでもすぐにインターネットにあげてしまう世代とも違う。

 特に裕子ちゃんは、SNSをやるタイプでもなかったから、親切な荷物と一緒に、思い立って去年のおまつりの写真を送ってくれるくらいが、本人にとって、ちょうどいいスピードなのだろう。

 もちろん受け取る奈津子の側だって、本来、それくらいの速度で十分だった。

「お父ちゃん、なかなか車の運転やめてくんなくて、それは困ってんだよね」

 裕子ちゃんが言った。お父さんは八十代の後半、あと何年かで九十歳を迎えるくらいだった。「こないだなんて、川の土手走ってて、タイヤがパンクしてさー、それなのに停めないで走ってんだよ」

「わー、それは怖いね。さすがに免許を返納してもらったほうが」

「でしょ~。でも、私が今から免許取るっていうのも、難しいんだよね、乗り物がダメだから」

「そっちも危ないよ」

「東京ならいいんだけどね、こっちは車がないと、どこにも行けないってのもあるし。もうタクシーにしな、って言っても、そんなお金はないとか、電話で呼んでもなかなか来ないとか言って、ちっとも聞かないんだよね」

 高齢のお父さんにだいぶ困っている口ぶりで、裕子ちゃんは言った。ただ周りにもっと高齢の運転者が大勢いるせいか、本人はまだまだ大丈夫な気でいるし、教習所の高齢者講習でもいい調子だったらしい。まったく問題なし、成績優秀と担当の人に言われたとか。

「でも、事故起こさないうちに、うまくやめてもらうのがいいね。今まで運転してもらって感謝してるからさ」

 裕子ちゃんの言葉に、奈津子は、うん、とうなずいた。

「あとさ、お父ちゃん、最近、起きてすぐに散歩行っちゃうんだよね。なんか今、おじいさんが散歩するのが流行はやってるらしくて。だからってさ、手ぶらで、水も持たないで出かけて、一時間も二時間も帰ってこないから心配なんだよ」

「それもまた怖いね」

 以前、外で熱中症になったことのある奈津子が言った。それから経口補水液は常備している。「水は持とうよ」

「だよね」

 裕子ちゃんが笑った。「そんでお父ちゃんが散歩に出かけると、こっちは、ゆっくり朝ごはん作ることにしてんだよね。支度にたっぷり二時間くらいかけてると、ちょうどお父ちゃんが帰ってきて、食べるのが十時とか」

「和食?」

「うん。ご飯炊いて、お味噌汁もちゃんと出汁だしとって、お漬物と、あとは魚。焼いたり、煮たり。朝は魚に決めてるね。お父ちゃんにはピーナッツ味噌も」

「へえ、いいね、憧れるね」と、奈津子は言った。自分もそんな朝食にしてみたい。

「なっちゃんも時間あるんだから、やれるよ! 朝、ご飯炊いてみい」

「たしかに……でも夜、ノエチと食べることが多いから、そこで炊いちゃうんだよね。で、その残ったぶんを、冷凍しておくんだけど」

 ノエチに会ったことのある裕子ちゃんに説明した。大昔、この団地でも会ったことがあるのだけれど、それだけではなくて、五年ほど前、笠間に仕事の用で行くノエチに、裕子ちゃんに案内してもらえば、と会いに行かせたのだった。

 その日、ノエチが撮ってきた写真を見て、どれが裕子ちゃんなのか、奈津子はすぐにはわからなかった。それくらい裕子ちゃんとは会っていなかったのだけれど、久しぶりすぎて、だれが裕子ちゃんかわからなかったよ~、と正直に伝えると、それ以来、荷物と一緒に写真も送ってくれるようになった。

「で、なっちゃんの朝は、どんな感じ?」

 写真で顔を知っている裕子ちゃんが訊く。

「朝? NHKの朝ドラ見ながら、まずトマトジュースを飲むでしょ。それから千切り野菜のなます。その後、ご飯かパンだね。パンにはバター塗らないで、とろけるチーズをたっぷりのせて焼くの。ご飯のときはね、夜炊いた残りの、赤米と麦入りのご飯に、じゃこ、お醤油、梅干し、のり、おかか、むいてある枝豆、ゴマを混ぜて、一〇〇グラムずつのおにぎりにして冷凍してあるから、それをチンして、お味噌汁と、最近自分で漬けてるぬか漬けと、あれば、ゆで卵かな」

「なっちゃんのも、いいね。健康食」と裕子ちゃんが言った。

「うん、前は朝から菓子パン食べてたんだけどね。ジャムコッペとか、銀チョコとか。でも、朝から甘いパン食べると、なんかだるくなる気がして、それでやめたの」

「へえ。それで毎日、朝ドラも見てるんだ。すごいね、健康的。早起きになったんだね」

「えっと、昼の再放送だけど」

「あ、そっか」

 電話の向こうの裕子ちゃんが笑った。

 

 電話を切って、まず様子を見ると、ノエチは冷蔵庫から水出しの緑茶を取り出して、それを飲みながら熱心に雑誌を読んでいた。

 奈津子はさっそくもらったお皿に、佐久間のおばちゃんのイチゴをのせた。

 小皿にマヨネーズを出して七味をふりかけ、それと「将門煎餅」を、ノエチの前に運ぶ。

「これね、こうやって食べるとおいしいよ」

 七味をかけたマヨネーズは、お煎餅用のディップだった。醤油味のシンプルなお煎餅に、つけて食べるのが絶品。

「ほら! うまいって」

 奈津子がお手本を示すと、

「お! うまいね」

 ノエチも真似して食べた。それから奈津子のほうを不思議そうに見た。

「なっちゃん、朝の菓子パンやめたんだ? あんなに好きなのに」

 裕子ちゃんとの会話が聞こえたのだろう。

「うっ」

 奈津子は痛いところをつかれ、ちょっとひるんだ。正直なところ、ノエチに話すかどうか悩んでいた。「いや~、じつはね、こないだ受けた区の健康診断で、悪玉コレステロール値が去年より高いって警告されて、今、すごく気をつけてるところなんだよね」

「なんで隠してんの、そんなこと」

「まだ時機じゃないかと思って」

「悪玉コレステロールって、なに食べるとよくないんだっけ」

 奈津子をじっと見ながら、ノエチは首をかしげた。

「加工肉とか、カップ麺とか、菓子パンとか、ケーキとか」

 奈津子は答えた。「あと乳製品、チーズとかバターとか。それと卵、魚卵も。っていっても、程度の問題だとは思うんだけどね」

「全部なっちゃんの好きなもんじゃん。バター好きだもんね、魚卵も」

「魚卵は、やめないよ」

「っていうか今日だって、〈まつ〉のホットケーキ、二枚にたっぷりバターつけてなかった?」

「それは……5のつく日だから」

「お煎餅にマヨネーズはいいの?」

「その食べ方は、伝えたいし」

「あ、急にぬか漬けとかはじめたのって、もしかして、そのせい?」

「まあ、そうかも」

「ずっと家にいて、動かないのもいけないよね」

 保育園からの友に注意をされ、奈津子はうなずいた。

「でも、ノエチも運動なんてしてないでしょ」

「私は、大学まで通勤してるから」

「そっか」

 立ち上がって、仕事用のデスクまで歩き、血液検査の数値の記された紙を取って戻る。

「これ」

 ノエチに渡して、数字を見てもらった。

「あ~、たしかに、ちょっと高めなんだね」

「うん」

「でも、これくらいの年になると、みんなそうだって言うよね」

「うん……多いらしいけど」

 それからもう一枚、奈津子は紙を渡した。

「こっちはなに?」

「私の見る走馬灯。もう死ぬのかもしれない、って思ったんで、自分が死ぬ前に、見そうなものを描いてみた」

「これって……食べものばっかり?」

「うん。今まで食べておいしかったものが、くるくる回りながら、私の目の前に浮かぶの。きっとそうなると思うんだ、死ぬとき。そのラインナップを描いてみた」

「これ、肉まん?」

 奈津子の描いたイラストを、ノエチが指差した。

ぶんの、キーマカレーまん。個包装のやつ」

「あ~、おいしいよね、あれ」

 ノエチは半分呆れたふうに笑っている。悪玉コレステロールくらいで大袈裟な、と思っているのかもしれない。それでも奈津子がそういった不安に、極端に弱いことも知っているはずだった。

「これは?」

「大砂丘の、マスクメロン味」

「大砂丘?」

「食べたじゃん、ノエチも」

「そうだっけ」

「静岡のたこまんっていうお菓子屋さんの、クリームのはさまった、ブッセっていうのかな。こっちで言うと、ママンとかナボナみたいなやつ。それの期間限定のマスクメロン味を通販で買ったら、ことのほかおいしくて」

「あ! 食べた、食べた!」

 思い出したノエチが言った。「精神的ストレスを緩和するGABA入り、みたいに書いてあったやつね」

「そう! ノエチがいっつも仕事のストレス抱えてるから」

「すんません」

「でもおいしくて、あれから私、すっかり、たこまんファンだから」

「なるほどね。……これは?」

弁松べんまつの、濃ゆい味の煮物」

「これ」

南国なんごくしゆの春巻」

「これは」

「焼きたらこ」

「どこの?」

「どこのでもいい……あと、やっぱり、ご飯もほしいなって」

 湯気の立つご飯茶碗のイラストを自分で指差すと、

「それ、ただの好きなメニューじゃん」

 ノエチが小さく鼻を鳴らして言った。

「いいの。この世を去るときに、それが浮かんだら幸せでしょ」

 甘栗、海老フライ、村上開新堂むらかみかいしんどうのロシアケーキ……などなどのイラストも描いてある。

 昔からの付き合いだからか、それともふたりの中身が年齢通りには成長しなかったからなのか、話している内容は、おそらく十代の頃とほとんど変わらない。

 食の好みも、年を重ねて渋くなったというよりは、奈津子の場合、若い頃からそのままだった。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください