かつて、かの地には邪悪な神が君臨し、眷属を統べて災いを与えた。

 

 邪神の率いる軍団の力は強大であり、人々には抗う術がなかった。

 

 かの地が絶望に染まったとき、創造主リエンタレムは自らの力の器として、一人の若者を異界より召喚した。

 

 彼は四つの種族から選んだ聖騎士を引き連れ、邪神と死闘を繰り広げ、ついにはそれを討ち斃した。

 

 かの地に平和をもたらした彼は、異界へと旅立つ前に妻を娶り、子をもうけた。

 

 再び災いがかの地を満たすとき、抗う力を残すために。

 

 かの地を救いし、その者の名は聖勇サンフオリスアズマ……

 

 

プロローグ

 

 湖のほとりにある大きな岩の陰に身を潜ませながら、呆然と立ち尽くす。

 網膜に映し出されている映像が、現実だと脳が認識できずにいた。

 それほどに目の前に広がっている光景は、美しくそしてどこまでも幻想的だった。

 十数メートル先で息を呑むほど麗しい少女が、一糸纏わぬその体に蒼い月光を浴びながら湖面に佇んでいた。その肌は透き通るように白く、陶器のような光沢を孕んでいる。

 スラリと長く伸びた四肢と、細く引き締まりつつも柔らかい曲線を描くその体が、呼吸を忘れてしまうほどに蠱惑的な魅力を醸し出していた。

 柔らかそうな金色の髪は、それ自体が発光しているかのように、月光を乱反射している。

 逃げろ。すぐにこの場から立ち去るんだ。心臓の鼓動が加速していくのを感じながら、自分に言い聞かせる。しかし脳と筋肉を繋ぐ神経が断線したかのように、体はピクリとも動かなかった。

 歳は自分と同じ十代後半あたりだろうか? ……いや、そうとは限らない。

 彼女は明らかに、人間ではないのだから。

 切れ長で涼やかな双眸、細く通った鼻筋、桜色の薄い唇、それぞれのパーツが完璧な調和を持って配置された、わずかに幼さを残す顔。しかし、最も目を引いたのはその長く尖った耳だった。

 エルフだ。想像上の種族でしかないエルフが本当に存在している。

 やはり思った通り、ここは俺が元いた世界じゃない。

 

 ……偽物の世界。

 

 だとしたら、俺は何をするべきなのだろう? この少女とここで出会うのも、この世界を創った『何者か』に定められていた運命なのかもしれない。

 声をかけてみるべきか? いや、そもそも言葉が通じるわけがない。それにいまは、水浴びをしている少女を覗き見ているという状況だ。この世界の常識がどんなものかは分からないが、最悪のファーストコンタクトとなる可能性は高い。

 この場を離れ、、少女が水浴びを終え、服を着てから接触を試みるべきだ。

 そう決めて後ずさったとき、足元からパキリと小さな音が響いた。エルフの少女の長く尖った耳がピクリと動く。慌てて視線を下げると、足の下に折れた矢があった。

 すぐそばには畳まれた若草色の服と、弓や矢筒などの道具が置かれていた。

 暗くて気づかなかった。すぐにここから逃げなくては。

 そう思った瞬間、パシャパシャという水音が鼓膜を揺らす。反射的に顔を上げた彼の目に、体を前傾させるような動きで迫ってくるエルフの少女が映った。

「待って! 説明を……」

 させてくれ、と続けようとした彼の襟元をつかむと、少女は走ってきた勢いを殺すことなくもう片方の手で足を取ってくる。柔道の朽木倒しのような技。まるで重力が消えたかのように体がふわりと浮かび、そしてすぐに硬い地面に背中から叩きつけられた。

 鈍い痛みとともに肺から空気が押し出され、「ぐふっ」といううめき声を漏らしてしまう。

 少女は全裸であることを恥じる素振りも見せず、額がつきそうなほどに顔を近づけてくる。金色の瞳に吸い込まれていくような錯覚を覚えながら、とっさに声を上げる。

「ご、誤解だ。説明させてくれ!」

 ああ、俺は何をしているんだ。日本語なんて通じるわけがないのに。

 自己嫌悪に顔を歪めていると、エルフの少女がゆっくりと口を開いた。

「誤解? 何が誤解なんだ? 説明してみろ」

 日本語……? 鈴が鳴るような凜とした声で発せられた言葉に啞然としていると、少女は「貴様、私の肌を見たか?」と、切れ長の目を細め、微笑んだ。

「は、肌……?」

 組み伏せられたまま無意識に視線を下げてしまう。小ぶりだが嫋やかな曲線をえがく双丘が網膜に映し出され、頰が急速に火照っていく。

「誤解ではないようだな」

 からかうような少女の口調からは怒りや嫌悪は感じられなかった。もしかしたらこの世界では、裸を見られるのはそれほど大したことではないのかもしれない。

「私の肌を見ることが許されるのは、私の伴侶となるものだけだ」

 想像以上に大したことだった……。頰が引きつってしまう。

 これは、責任を取らなくてはならないということなのだろうか? この世界に『転生』してわずか数時間だというのに、俺はパートナーを見つけてしまったということだろうか?

 混乱する彼に向かって、少女はとろけるような笑みを浮かべる。

「どういう意味かわかるか?」

「それは、俺が……」

 君と結婚しなければならないこと? と続けようとしたとき、首筋にヒヤリとした感触が走る。

「そうだ。……貴様を処分しなければならないということだ」

 少女の端整な顔から潮が引くように笑みが消えていく。

 いつの間にか少女の手には鞘から抜いたナイフが握られており、その刃が首筋に当てられていた。

「何か言い残すことはあるか?」氷のような冷たい口調で少女がたずねる。

 なんとか釈明、もしくは命乞いをしようとするが、舌がこわばって言葉を紡げなかった。

「……ないようだな」

 刃がわずかに横に動かされ、首の皮膚を薄く破った。鋭い痛みが走る。

 ああ、ここでゲームオーバーか。このエルフの少女に首をかき切られて死んだら、またあの洞窟のコールドスリープユニットの中で目を覚ますのだろうか?

 それともまさか、もう二度と覚醒することのない永久の眠りについてしまうのだろうか?

 恐怖にはらわたが冷えていく。

 なぜ、こんなことになったのだろう? この世界は一体、何なのだろう? あの装置に入ってからの、そして、この『偽物の世界』で目を覚ましてからの記憶が脳裏を駆け抜けていく。

 死を前に見るという、思い出の走馬灯のように……。

 

 

第一章 はじまりの洞窟

 

 

 こんな体、捨ててしまいたい。こんな世界、捨ててしまいたい。

 東都規は軽くあごをしゃくる。ベッドの柵についている豆粒ほどのセンサーがその動きを読み取り、顔の前の空中に浮かんでいる文庫本状の仮想ディスプレイのページをめくっ た。

 ……そろそろ時間だな。この本を読み終わることはできなさそうだ。

 浮かんでいる活字を目で追っていると、病室の出入り口の自動扉が開いた。

「トキ、お邪魔するね」

 長い黒髪を揺らしながら、セーラー服姿の少女が部屋に入ってくる。

「ノックぐらいしろって、いつも言ってるだろ」

 黒髪の少女、東雫は「固いこと言わないでよ。兄妹なんだから」と軽く手を振る。

「兄妹って言っても、血は繫がってないだろ」

 突き放すように言うと、潑剌とした笑みを浮かべていた雫の顔に一瞬、痛みに耐えるような表情が浮かぶ。それを見て強い後悔と自己嫌悪が胸に湧き上がってくる。

 うつむいた都規は「……悪い」とつぶやきながら、義理の妹を見る。

 実の母は都規を出産する際に、脂肪塞栓症で命を落とした。医学の進歩により富裕層の平均寿命が百歳を超えた二〇五〇年代でも、出産時の母体に降りかかるわずかなリスクをゼロにすることはできなかった。そして都規が五歳になったとき父が再婚し、新しい母の連れ子が雫だった。

 都規の曾祖父は二十世紀の終わりにITベンチャーを立ち上げて成功し、その会社を引き継いだ祖父はIT業界だけでなく金融、不動産、エンターテインメントなど様々な分野に経営を多角化させ、世界有数のグループであるAZUMAコーポレーションの基礎を作った。

 二十年前に、その王国の主となった父は、再びITビジネスに力を入れ、磁気と微弱電波によってコンピュータと人間の脳を接続する新技術を開発した。その結果、AZUMAコーポレーションはAppleやGoogleと肩を並べる企業グループへと成長していた。

 義理の母になった女性は高級クラブに勤めていたシングルマザーで、当然周囲は日本最大の企業グループの総帥の妻にふさわしくないと、その結婚に強く反対した。しかし、彼女に惚れ込んでいた父は聞く耳を持たず、そのホステスとの再婚を強行した。

 幼少期は四階建ての洋館に住み、野球場ほどの広さのある敷地からほとんど外出することなく育てられたため、同年代の友人と遊ぶことがほとんどなかった都規にとって、雫は『妹』というより初めての『友達』だった。二人は広い屋敷や庭を探検したり、使用人たちにいたずらをしたりして仲を深めながら成長していった。

 幼い頃はショートカットで、小麦色に日焼けをしていたため、少年のような外見をしていた雫だったが、中学に上がってからは、以前のように太陽の下で走り回ることがほとんどなくなったせいか、肌は透明感のある白さを帯びていき、ショートだった髪もしなやかに伸びていった。

 その頃から都規は、雫を異性として意識するようになった。そしておそらくは雫も……。

 だから来年、高校を卒業するのを機に、雫に自分の気持ちを伝えるはずだった。

 世界有数の企業グループの御曹司ともなれば、自由に恋愛などできない。交際相手を選ぶのにも会長である父親の意向が強く反映される。けれど、実の娘のように溺愛している雫が相手なら、父も文句は言わないだろう。きっと息子と義理の娘の交際を祝福してくれるはずだった。

 いつかは雫と結婚をして、温かい家庭を築く。夢見ていたそんな未来は、四ヶ月前に砕け散った。

 RLCS、急速進行性側索中枢萎縮症。それが都規の未来を奪い取った病魔の名前だった。

 二〇五八年、メキシコで発見され、瞬く間に世界中へと広がった新型ウイルス。エコーウイルス属に分類されるそのウイルスは、幸いなことに病毒性は極めて低く、感染しても軽い風邪症状が数日続くだけで収まるものだった。しかし、十数年後、感染者の数十万人に一人の割合で、そのウイルスが全身の神経細胞に感染し、数年後に致死的な神経疾患を発症させることが分かった。

 その疾患は、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていくALSに極めて似ているが、進行が速く、わずか数ヶ月で全身の筋肉が萎縮し、呼吸筋まで動かなくなり、人工呼吸管理をしなければ生命維持ができなくなる。さらにALSとは異なり、脳細胞も徐々に萎縮をはじめて認知症になり、発症からわずか一年ほどで自分が誰なのかさえわからなくなり命を落としていく。

 四ヶ月前に発症した都規は、すでに首から下がほとんど動かなくなっていた。このままならあと一ヶ月もすれば呼吸筋の麻痺と、脳の萎縮が始まってしまう。

「何を読んでるの?」

 重い空気をごまかすかのように、雫がベッドの柵に手をかけて身を乗り出してくる。

 慌てて仮想ディスプレイを消そうとするが、遅かった。やや肌の露出が多い服を着た、可愛らしい女戦士のイラストが載っているページを見て、雫の瞳がいやらしく細められる。

「またいやらしい本読んでいるんだ」

「別にいやらしくない」

「えー、いやらしいよ。だっておっぱい半分出てるじゃん。へえ、トキってこういうグラマーな人がタイプなんだ。でもこんな大きいと動きにくいんじゃないかな」

 雫はセーラー服に包まれた自分の胸元を両手で触る。

「やめろよ、みっともない」

 頬が上気するのをおぼえて都規は慌てて目をそらす。

「そういうのが目当てで読んでるんじゃない。ただ……憧れてるだけだよ」

「憧れてるって、半裸のお姉様に?」からかうように雫が言う。

「……別の世界に生まれ変わることだよ。異世界転生ってやつさ」

 都規が唇の端を上げると、雫の顔に浮かんでいたいやらしい笑みが消える。

 筋肉の萎縮が進み、ベッドからほとんど起き上がれなくなってからというもの、都規は『異世界転生もの』と呼ばれる小説を愛読するようになっていた。五十年ほど前に大流行した文学のジャンルで、何らかの理由で命を落とした主人公が、気がつくと全く違う世界に生まれ変わっており、その際に身につけた特別な力によって活躍をするというものだ。

 以前は文学的にはそれほど高い評価を受けていなかったらしいが、現在では定型のフォーマットの中でいかにオリジナリティを出すかを競い合った稀有な文学と再評価されている。

 死んだ後、異世界で蘇り、特別な力で活躍する。

 十七歳にして唐突に、『死』という、受け止めるにはあまりにも大きな絶望を突きつけられた都規にとって、異世界転生小説を読んでいる間だけは、迫りくる恐怖から逃れることができた。

 それが、ただの現実逃避だと自覚しながら……。

「死んだあと、俺も異世界に転生できたりしないかな」

 都規が自虐的につぶやくと、雫はさらに身を乗り出してきた。額がつきそうな距離で二人は見つめ合う。心臓の鼓動が加速していく。

「トキは死なない! 絶対に死なないから!」

 雫の瞳が潤みはじめた。

「そのために、これから冬眠するんでしょ。きっと治る! 絶対に治るから!」

「ああ、そうだな……。きっと治るよな……」

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。雫は目を閉じると都規の肩口に顔をうずめ、首筋に手を回してきた。都規を抱きしめる手からは細かい振動が伝わってくる。

 押し殺した声で泣く妹の、最愛の人の頭を撫でたかった。しかし、いかに脳から指令を送っても、筋肉が萎縮しきった腕はピクリとも動かなかった。

「五年か……長いのか短いのか……」

 都規は天井に向かってボソリとつぶやく。あと数十分で、都規はAZUMAコーポレーションが開発中のコールドスリープユニットに入り、人工的な冬眠状態に置かれる予定だ。冬眠状態ではほとんど代謝が行われず、理論上はほぼ時間が止まったような状態で体を維持することができる。

 ドイツの企業が、急速進行性側索中枢萎縮症の画期的な治療法の治験を進めていた。抗ウイルス薬と遺伝子治療薬の両方を組み合わせたその治療法は、治験の第一相、第二相で極めて良好な結果を示しており、すでに去年から最終段階である第三相の治験が始まっている。

 五年後にはその治験が終了し、RLCSの特効薬が使用できるようになる。それまでコールドスリープユニットで冬眠し、病気の進行を止める。それが、都規が生きるための唯一の方法だ。

 ただ、これまで成功したコールドスリープ期間の世界最長記録はわずか二週間だ。約五年のコールドスリープ、それは未だ人類が成し遂げたことのない未知への挑戦だった。

 一度冬眠状態に入ったら、二度と目覚めることはないかもしれない。ハイパーテクノロジーによって作り出された機械仕掛けの繭の中で、自分は命を落とすのかもしれない。

 父と兄から初めてその計画を聞いたとき、氷の手で心臓を鷲摑みにされたような心地になった。そんな人体実験のような計画、拒否したかった。けれど……選択肢など残されていなかった。

 このままでは、あと数週間で脳の破壊が始まり、自我が保てなくなってしまうのだから。

 そうして都規は世界初の長期間コールドスリープの被験者になることが決まり、AZUMAコーポレーションの科学者たちがその力を結集して、この未曾有のプロジェクトの準備を進めていった。

 まもなく、都規はAZUMAコーポレーションの第一研究所にあるこの殺風景な病室から、地下に特別に作られたコールドスリープユニットが設置された部屋へと移動し、冬眠状態に置かれる。

「五年後ってことは、雫は二十二歳になっているんだな」

「ということは、コールドスリープから覚めたら私の方がお姉様だね」

 都規からゆっくり体を離した雫は、濡れた目元を指で拭いながら、おどけるように言う。

「たった二ヶ月違いなのに、散々妹扱いしてきたでしょ。起きたら雫お姉ちゃんって呼んでよね」

「どう考えても、お姉ちゃんってキャラじゃないだろう。お前」

「そんなことないわよ。五年後にはさっきトキが読んでいた本の女の人みたいに、超グラマーでかっこいいレディになっているかもよ」

 病気に体が冒される前、毎日のように交わしていた何気ない会話。それが心地よかった。

 けれど、残された時間が少ないいま、本当に言うべきこと、言わなくてはいけないことがある。

 都規はカラカラに乾燥した口腔内を舐めて湿らせると、ゆっくりと口を開いた。

「二十二歳ってことは、もしかしたら親父が選んできた相手と、もう結婚しているかもな」

 微笑んでいた雫の顔がこわばるのを見ながら、都規は言葉を続ける。

「親父は雫のこと溺愛しているから、いい相手を見つけてくるだろうな。俺が起きたら紹介してくれよ。義理の弟になるわけだからさ。いや、義理の兄貴か? ややこしいな」

 まだ萎縮していない顔の筋肉を無理やり動かして笑顔を作る。

 告白したかった。これが最後かもしれないのだから、自分の思いを雫に伝えたかった。

 けれど……できない。それは、雫を縛り付けることだから……。

 だから、隠そうと決めた。この淡い想いを胸の奥底へと。

「トキは……それでいいの……」喉の奥から絞り出すように雫が尋ねてくる。

「ああ……、いいんだ……」

 雫はうつむいて黙り込んだ。鉛のように重い沈黙が部屋に降りる。

 数十秒後、雫は勢いよく顔を上げると、充血した目でまっすぐに都規を見つめた。

「なんでそんなこと言うの! 私はトキのこと……」

 雫が言葉を終える前に、出入り口の自動扉が開いた。そちらに視線を向けると、険しい顔をした父と兄が、数人の白衣姿の研究者を引き連れて病室にやってきていた。

 待ってくれ……。もう少しだけ雫と二人で話をさせてくれ……。胸の中で懇願するが、つかつかと革靴を鳴らしながら大股に近づいてくる父の迫力に、その言葉が口をつくことはなかった。

「雫、ちょっといいかな」

 父に促された雫は小さく頷くと脇にどいた。ベッドサイドへとやってきた父は口を開く。

「時間だ、都規。準備はできているな。行くぞ」

 有無を言わせぬ口調。都規にとって父は絶対だった。これまで彼に逆らったことはなかった。

 けれどほんの少し待ってほしい。雫と二人で話がしたい。……これが最後かもしれないのだから。

 初めて父に反抗しようとしたとき、近づいてきた兄が身を乗り出して、都規の肩を叩いた。

「何をしけた面しているんだよ、都規。もしかしてコールドスリープが心配なのか? 安心しろって、世界最高の科学者たちが完璧に準備を整えてくれたんだぞ。万に一つも危険なことなんてないさ。ちょっと昼寝をするような感覚で、目が覚めたら五年経って、お前の体は完璧に治ってるって」

 歳が離れている兄はすこぶる面倒見がよく、父とは違い、腹を割って何でも話せる存在だった。そんな兄に保証してもらい、胸にわだかまっている不安がいくらか希釈される。

「五年が昼寝みたいな感覚か。けど、その間ただ眠っているだけっていうのは何かもったいないね」

「そうかもな。楽しい夢でも見られればいいんだけどな」

 兄はポンポンと頭を軽く叩いてくる。

「そうだ、うちが開発しているフルダイブVRを、冬眠中のお前の頭につけといてやろうか。脳に直接作用して仮想世界に入り込んでゲームができる。寝ている間ずっと楽しめるぞ」

「本当にそんなことできるのかよ!?」

 都規が驚きの声を上げると、兄は小さく笑った。

「冗談だよ、冗談。あの装置は開発段階だから、実際に人間に応用するまでにはまだまだ時間がかかる。お前が目を覚ます頃には、実用化の目処が立っているかもな」

 都規が「なんだよ……」と唇を尖らすと、兄は目を細めた。

「まあ、目が覚めたらお前が実用化までこぎつけてくれ」

「俺が?」

 聞き返すと、兄は力強く頷いた。

「俺はあまりITには興味ないから、将来は金融分野と工業分野を中心に経営をやっていくつもりだ。つまり、AZUMAコーポレーションはお前が社長になって引き継ぐんだ」

 グループの象徴、AZUMAコーポレーションの社長に俺が……。都規は口をあんぐりと開く。

「こういう状況だ。しっかり伝えておいた方がいいと思ってな」

 表情を引き締めた兄は、「な、親父」と隣にいる父に声をかける。

「ああ。その病気が治ったら将来、お前はAZUMAグループの中枢のトップに座ることになる」

 父は低い声で言うと都規の肩をガシリと掴んだ。

「だから私たちを信じろ。五年間のコールドスリープを成功させ、お前を元の体に戻してやる」

 これまで自分の前ではあまり感情を表さなかった父からの熱い言葉に、体温が上がっていく。

 父にとって自分は道具のようなものだと思っていた。けれど……それは違ったのだ。

「でもグループ全体の会長は俺だからな。起きたらこき使ってやるから覚悟しとけよ」

 冗談めかして言う兄の背後から、白衣を着た研究者たちが近づいてくる。

「そろそろお時間です。行きましょう」

「ああ、よろしく頼む」

 父が頷いたのを合図に、科学者たちはテキパキとした動きで可動式のベッドを移動させていく。

 雫と話すタイミングを失い「あっ……」と声が出る。しかし、科学者たちは無表情でベッドを病室から移動させていった。父と兄の後ろを、戸惑った様子で雫がついてくるのが見えた。

 大型エレベーターで地下へ移動し、コールドスリープユニットがある部屋へと搬送される。

 天井がドーム状になった、直径十メートルほどの円形の部屋。その中心に、巨大な繭のような形をしたユニットが鎮座していた。そこから伸びる無数の配線やダクトは、部屋の壁沿いに置かれているスーパーコンピューターや、酸素や液体窒素の配管へと繋がっている。

 あの中で、俺は五年間も眠り続けるのか。不安が胸に満ちていく。

「それでは準備を始めます」

 プロジェクトチームのリーダーらしき壮年の男が、淡々とした口調で告げる。それを合図に可動式のベッドが滑るように部屋の中心へと移動していった。

 コールドスリープユニットの、透明の蓋がゆっくりと開いていく。ユニットの内側から十数本の触手のようなアームが伸びてきて、包み込むように都規の体を持ち上げ、その内部へと移動させた。

 巨大な単細胞生物に捕食されているような心地になるが、首から下が全く動かない都規には抵抗する術がなかった。ユニット内部にある柔らかいクッションに横たえられると、開いていた透明の蓋がゆっくりと閉まっていった。

『Cold sleep operation, start』

 人工音声の全く感情のこもっていない声がユニット内に響く。同時に数本のアームが素早く動いて、その先についている小さなハサミで都規が羽織っていた入院着を切り裂いて脱がせていき、あっという間に都規は全裸にされた。頬を引きつらせながら透明な蓋の外を見ると、雫が大きな瞳をパチパチと瞬かせながら、こちらを凝視していた。

 見るなよ! 都規がかぶりを振ると、雫はハッとした表情を浮かべ、慌てて目をそらした。

 レーザーが腕に照射され血管の位置を探り、すぐに一本のアームの先についた針が腕の内側を刺す。おそらくコールドスリープ用の薬剤を入れる血管を穿刺しているのだろう。覚悟を決める間もなく、急速に準備が進んでいく。まな板の上で捌かれている鯉になったような気分だった。

 けれど、この方がいいのかもしれない。こうやって機械的に、無感情に処置を続けてもらえば、死が迫っているかもしれないと十分に考える余裕がなく、強い恐怖を覚えることもないから。

『Sedation, start』

 再び人工音声が響く。同時に針が刺さった腕に痺れるような痛みが走った。麻酔用の薬を投与されているんだろう。意識が急速に希釈されていく。体が浮き上がるような感覚。

 次に起きたとき、俺は治っているのだろうか。それとも二度と目覚めることはないのだろうか。

「……起きたら本当に異世界だったりしてな」

 自虐的に呟いた瞬間、目の前の透明カバーに、叩きつけるように白い掌が置かれた。

「トキ!」

 薄れかけていた意識が一瞬鮮明になる。涙をポロポロと流しながら、カバー越しに見つめてくる雫の顔が見えた。

「トキ! 私、待ってるから。ずっと待っているから! だから目が覚めたら、私と……!!」

『Anaesthesia, start』

 雫の声は、三度響いた人工音声にかき消される。

 本格的な麻酔が始まったのか、さっきよりも強い痛みが腕全体に広がっていく。

「雫……俺も……」

 視界が急速に白濁していく中、必死にかすれ声を絞り出す。

 次の瞬間、都規の意識は深く暗い場所へと引きずり込まれていった。

 

偽世界転生 1』は全4回で連日公開予定