最初から読む

 

 何かを誤魔化された気がしたが、尋ねる前に「それにしても」と言葉を先取りされる。

「リビングにまで本を置いてたなんて、蔵内さんのお母さんはすごい読書家だったんだね」

「いや、そこまでじゃないよ。単に置く場所がなかっただけで。親の寝室はベッドとハンガーラックでいっぱいだし、父親の書斎にも置けないし」

「お母さんの部屋は?」

 無邪気に問われて、初めて気付いた。

 家には、母の部屋はなかった。父の書斎、わたしの個室、そして夫婦の寝室だけだ。

 何故だろう。今まで、考えたこともなかった。

「……うち、一軒家だけど狭いからさ。海瀬さんの家は、家族全員に個室がある?」

「うん、っていうか、母と二人だから」

「……そっか」

 そういえば、父親がいないと言っていた。不用意な質問をしてしまったことが気まずくて、「そういえば、中間試験の範囲だけど」と強引に話題をそらした。海瀬由埜も特に気にした様子はなく話に応じて、当たり障りのない会話をしているうちに、駅に着いた。

 改札を抜けた後、海瀬由埜は、反対側のホームに向かう階段の前で足を止めた。

「じゃあ、私は向こうのホームだから」

「そっか、じゃあ」

「あのお話、続きがあるよ」

 不意打ちの一言に、一瞬、何のことかわからなかった。

「……続き? でも、あれで話は終わりだよね」

「ううん。あれじゃ、繋がらない」

 やけにきっぱりとした口調に、気持ちがざわついた。

 あれは、わたしの母が書いたものだ。どうして、他人がわかったような口を利くのか。

 言い返そうとした言葉は、海瀬由埜の謎めいた微笑みに打ち消された。

「だから、明日の昼休み、北校舎の屋上で待ってる。あのお話を持ってきてね」

 まるでハロウィンの日の魔女のような――さっきまでは作り物の人形のようだったのに。

「え? ちょっと」

「じゃあ、また明日」

 海瀬由埜は返事も待たず、軽やかに階段を駆け上がっていった。

 

 母は、どんな人だったんだろう。

 帰宅したわたしは、食事を簡単に済ませた後、自室で母の遺したプラスチックの書類ケースを開いた。ぎっしりと詰め込まれた原稿用紙の束を、ぼんやりと眺める。

 オリジナルの原稿を取り出したのは久しぶりだった。母が隠していた物語をこの家で堂々と広げるのは何となく気が引けて、コピーしてあの図書館で読むようにしていたのだ。それを、海瀬由埜に見られていたのだろう。

 こうしてじっとしていると、家の中がしんと静まり返っているのが逆に耳に付く。父は今日も帰りが遅い。仕事人間なのは母の生前から変わらないが、専業主婦だった母がいた頃は、自室にいても何かしらの音が聞こえてきたものだった。

 この静けさにももう慣れてしまったのか、それとも意識している時点でまだ不慣れなのか、数ヶ月経った今もわからない。リビングに運び込まれた真新しい仏壇――おしゃれな収納棚のようなそれの前で手を合わせる時よりも、こういうふとした瞬間に、母の不在が身に染みた。

 母が亡くなった原因は、交通事故だった。一人で帰省した故郷の町で、乗っていたタクシーがトンネル内で横転し、壁に激突した。過疎化が進む田舎町での単独事故でほかに巻き込まれた車はなかったが、運転手と母はどちらも助からなかった。わたしや父が駆けつけた時にはもう息がなく、お別れを言うことさえできないまま、母の存在は日常から消えた。

 いつだったか、母と一緒に作った型抜きクッキーの生地を思い出す。あんな風に、ぽかんと空洞を抜かれて放っておかれたように、穴の空いた心は固く乾燥している。

 それは今思えば、数少ない「母娘」らしい思い出だった。

 母は、わたしに「女の子らしさ」を望まなかった。むしろ、嫌がっている節さえあった。スカートは余所行きのワンピース以外には用意されなかったし、ピアノやバレエではなく、塾やスポーツ教室に通わせた。幼い頃母が切っていた髪型は、いつも耳と項の見えるベリーショートで、何度男の子に間違われたかわからない。

 嫌だ、とは言えなかった。母は物静かで声を荒らげることはなかったが、甘やかすこともしなかった。冷ややかな眼差しで見据えられ、「いいわね?」と有無を言わさぬ口調で言われるだけで、反抗する気を挫かれるのに十分だった。父は家庭に無関心で、幼いわたしにとって母が世界のすべてだったから。

 今の学校を進学先に望んだのも母だった。家からの通いやすさや充実した施設は確かに魅力的だったが、もう少し上のレベルの学校も狙えると塾の講師には勧められた。しかし母は、この学校にこだわった。「ここならスカートじゃなくていいし、ちょうどいいじゃない」と言われた時、それが一番の理由だと察したが、面と向かって尋ねることはできなかった。

 そのまま、母は逝ってしまって――物語が遺された。

 個人の意思と聡明さよりも、胎としての機能を求められた女王。少女らしい恋と憧れを奪われ、日の差さない牢獄へ葬り去られた図書守の老婆。二人の怨念と復讐は、生まれてきた子どもたちをがんじがらめにする。

 何処かで聞いたような話――まるで、母の人生を写し取ったようだった。

 母の葬式で、普段疎遠な親戚からいろいろなことを聞かされた。少女時代の母は成績優秀だったが、四年制大学への進学は許されなかったこと。父と母は見合い結婚だったこと。結婚してからは父方の両親に男児を強く望まれていたが、なかなか子どもを授からず、ようやくわたしが生まれたこと。その後、しつこく男児の誕生にこだわる義実家と母は折り合いが悪くなったこと――実際、母の葬式に父方の祖父母は参列しなかった。

 聞かされた話は、わたしが知らないことも多かった。思えば、母は自分のことを語らない人だった。わたしが知っているのは、この家の中とその延長線上の「母親」としての姿だけで、そのことにこれまで何の違和感も抱いてこなかった。

 父には書斎があるのに、母には自分の部屋がないこと。本を読む姿を見たことがないのは、いつも家の中で忙しく立ち働いていたからだということ。そんなことにも、気付いていなかった。牢獄にたとえたくもなるだろう。

 あの物語を読んだ時から、ずっと考えていた。母は、この家にいて、幸せだったんだろうか――。

 玄関の開く音に、はっと意識が覚醒した。いつの間にか、目を閉じてぼんやりしていたらしい。時計を見ると、十一時近かった。もうそんな時間か。

 じっと耳を澄ましていると、パチリと階段の電気のスイッチを入れるかすかな音が響いて、規則正しい足音が階段を上って来る。段数の分だけ続いた後に一瞬止まり、それからまた進み出した足音は、部屋の前をよどみなく通り過ぎていく。

 廊下の突き当たりで音が止んだ瞬間に、ドアを開けて廊下に踏み出した。

「お帰りなさい」

 小さく投げた言葉に、スーツ姿に仕事鞄を提げた父がゆっくりと振り返る。オレンジ色の電灯が照らした顔は、見慣れた無表情だった。

 大手銀行に勤める父は、覚えている限り夜九時より早く帰ってきたことはない。そしてドラマや漫画のように酔っ払った姿も、疲れたと愚痴をこぼす姿も見たことがない。ワックスで固められた髪にはいつだって一筋の乱れもなく、眼鏡の奥の瞳から感情は読み取れない。笑顔どころか、表情が大きく動いたところさえ記憶になかった。

 ――母の命が消えたあの日や、火葬場で棺を見送った時でさえ。参列した人たちは皆、つらい中で立派な振舞いだと感心している様子だったが、わたしはよく知っている。この人は、いつだってこうなのだと。

「……ああ」

 低い声を一言漏らすと、父はそのまま突き当たりの書斎に消えていった。

 父は、昔からずっと変わらない。冷静で、正しく、例外や想定外を許さない。それが銀行員としての適性なのか、会社ではそれなりのエリート街道を歩んでいるらしい。

 母が亡くなる前から、家よりも職場で過ごす時間のほうがずっと長い人だった。単身赴任をしている期間も少なからずあって、当然、家のことはすべて母が切り回していた。父がわたしの学校行事に顔を出すことは、運動会や学芸会はもちろん、入学式や卒業式でさえも一度もなかった。

 父と母の会話は、モールス信号の通信と大して変わらなかった。家族という組織を運営するための、最低限の情報のやりとり。

 ――母は、自分の人生を後悔していたのだろうか。

 母はずっと、「妻」として求められる役割を果たし、「母」であり続けた。だけど本当は、そんな生き方は望んでいなかったのかもしれない。せめて物語の中だけでも、自分を否定し続けた世界に復讐したかったのかもしれない。

 もし海瀬由埜の言う通り、あの物語に「続き」があるとして――それは、知ってよかったと思えるようなものなのだろうか。

 

 翌日は晴れてはいるものの、少し風が冷たかった。

 昼休みが始まるなり、海瀬由埜は意味ありげな目配せをよこして教室を出て行った。わたしは、トイレに寄って少し時間をずらしてから向かった。海瀬由埜は良くも悪くも目立つのだ。周囲の妙な好奇心を刺激して、邪魔をされたくなかった。

 あの「物語」を入れた通学鞄をぶら下げて階段を上がり、屋上へ続く扉の前にたどり着いた。海瀬由埜の姿はなかったが、りガラスの引き戸の向こうに動く影が見えた。

 このまま背を向けて帰る自分を一瞬想像して、打ち消した。海瀬由埜の言葉の意味が、やはり気になる。

 戸を開けると、机が二台、向かい合わせに置かれていた。どう考えても、元から置いてあったものとは思えない。

「いらっしゃい、蔵内さん」

 こちらを向いて座った海瀬由埜が、にこにこと手を振ってきた。戸惑うわたしの表情に気付いて、心なしか得意げに胸を張る。

「これは、空き教室から借りてきた。床に座ったら、お尻痛くなるからね」

「……なるほど」

 椅子に腰を下ろしながら、認識を改めた。昨日の妙な押しの強さや謎めいた言動といい、どうやらこの優等生、単なる真面目ちゃんではないらしい。

 向かい合わせの席に着いた海瀬由埜が、机に置いたノートを開く。中には、ノートより一回りほど大きい茶色い封筒が挟まれていた。

「それ」

「うん。今日はこれを見てほしくて、来てもらった」

 すっと、封筒が差し出される。

「……何?」

「見てもらえばわかるよ」

「……わかった」

 これ以上の説明はしてもらえなさそうだと諦めて、ぺらぺらの封筒を受け取る。

 封はされていなかった。口を開いて覗き込むと、中には薄い原稿用紙が一枚入っていた。

 まさか。

 焦りを抑え込んで、そっと中身を取り出す。

 ところどころ折れてしわが寄った原稿用紙に、見慣れた筆跡が並んでいた。

 

***

 

「ぼくの話も聞いてもらえますか」

 そして、応えも待たずに話し始めました。

 

 

この続きは、書籍にてお楽しみください