跳ね返ってきた父親の顔面を、思い切り蹴りつける。

 正しくは、父親の顔を投影したサッカーボールを、だが。イメージする顔がリアルであればあるほど、ボールはよく飛んだ。

「瀬尾くんて、なんでサッカー部入ったの?」

 高校生になってから何度されたかわからないこの問いかけを、止める方法はひとつ。幼児の頃から続けてきた野球より、サッカーが上手くなるしかない。

 そのために、入学式から一週間の今日、初めて教科棟の校舎裏に足を踏み入れた。

 こんなところでコソコソとひとり練習しているのは、別に新入部員の中で俺だけが素人だったのが恥ずかしいからというわけではない。単純に、俺の周りには騒がしい奴が多いからだ。野球時代から、自主練習は集中するためにひとりでやることに決めている。

 校舎の壁をゴールに見立て、ひたすらシュートの練習を繰り返す。まずはコントロールできるようになるのが課題だ。

 当然だが、野球のボールとサッカーボールはまるで違う。大きさも硬さも、その扱い方も。運動神経には自信があるが、足でボールをコントロールする難しさといったらない。

『サッカー部に入るだと? 馬鹿を言うな。お前なんかが通用するわけないだろう』

 先週、父親に言われたセリフがよみがえり、思わず蹴る足に力が入った。強く跳ね返ったボールが、明後日の方向に飛んでいく。

 舌打ちをしてボールを追いかけた先で、窓の向こうに廊下を悲壮な顔で駆けていく女子生徒の姿を見た。ひと気のない教科棟になんの用事があるのだろう。しかも、あんな切羽詰まった様子で。

 まぁ、俺には関係ないか。見なかったことにして自主練を再開する。

 しかししばらく経つと、先ほどの女子生徒が今度はとぼとぼと元来た道を戻っていくのが見えた。染めているのか、肩までの髪は明るいキャラメル色でとても目立つ。

 きれいだなと目で追っていると、その女子生徒が目元を拭う仕草をした。

 名前も知らない女子生徒が、昼休みにひと気の少ない教科棟に駆けこみ、涙を拭いながら出てきた。まったく気にならないと言えば嘘になる。だが、それでもやっぱり俺には関係がない。

 気にせず自主練を続けようとしたが、なぜか父親のしかめっ面を上手くボールに投影できなくなっていた。イメージしようとすると、あのキャラメル色がちらついて頭から離れなくなる。

「くそ。やめだ、やめ。……何やってんだか」

 ひとりぼやいて、ボールを回収し校舎裏を後にした。

 

「瀬尾、どこ行ってたんだよ?」

 教室に戻ると、同じサッカー部の近藤と寺井が寄ってきた。

 寺井は別のクラスだが、大抵昼休みはこのクラスに三人集まって弁当を食べる。ふたりは中学が同じで元々仲が良かったらしく、そこに俺が交ぜてもらった形だ。

「便所」

「ボール持って?」

 寺井に指摘されて初めて、ボールを持ったままだったことに気がついた。昇降口に置いてくるつもりだったのに、何をやっているんだ俺は。

 にやにやと笑うふたりには、俺がこっそり練習していることなどお見通しなのかもしれない。だからと言って、素直に話すつもりはないが。

「連れションだよ。ボールは友だちなんだろ」

「それ、近藤が貸した昔の漫画のセリフじゃん」

「偉いぞ瀬尾。サッカーやるならあの漫画だけは読んどかないと」

 こういうところは、野球もサッカーも変わらないらしい。俺も普段漫画は読まないくせに、野球漫画の金字塔と言われる有名作品だけは読んでいた。読めば勉強になる、なんてことはないが、読み終わったあとは野球愛が深まったように感じたものだ。

「瀬尾は足速ぇしフィジカル強いから、あの漫画さえ読めばレギュラーは間違いない」

「なんで漫画読むのがレギュラー入りの条件みたいになってんだよ」

「寺井は読んでないからレギュラーは無理だな」

「万年ベンチの奴が何か言ってるぞ」

 近藤が「それは禁句だ!」と寺井の頭を腕で締め、それを見た近くの女子数名がくすくす笑う。面白そうなことをしているなと男子が集まってきて、なぜか教室の後ろがプロレス会場になり盛り上がり始めた。

 騒がしいのは嫌いじゃないが、得意なわけでもない。自分の席から、近藤がコブラツイストを決められる姿を見て笑っていると「ねぇ、瀬尾くん」と女子に声をかけられた。気づけば四人の女子に囲まれていて、またかと思う。

「聞いたよ。瀬尾くんて、すっごく強い野球のクラブチームにいたんでしょ?」

「なんで野球部入らなかったの?」

 どいつもこいつも、同じことばかり。情報共有でもしておけ。大体、そんなことを聞いてどうするんだよと思いながら「野球の才能がなかったから」と短く答える。

「えー、嘘だぁ。上手かったって聞いたもん」

「瀬尾くんが野球やってるとこ、見てみたかったぁ」

 女子たちが顔を見合わせ、またくすくす笑い出す。何がおかしいのだろうか。笑いたいなら近藤を見ろ。今度は足四の字固めを決められているぞ。

 ふと、女子たちの髪色が黒なのを見て、教科棟で見かけたキャラメル色が頭に浮かんだ。うちの高校はそこそこの進学校で、校則もそれなりに厳しい。髪を染める生徒はごく少数のはずだ。

「あのさ、一年に髪が──」

 言いかけて、途中でやめる。キャラメル色の髪の生徒を知っているかなんて、聞いてどうする。

 女子たちに「髪が何?」と続きを促されたが、俺はなんでもないと口を噤んだ。

 

 あれから廊下を歩くたび、生徒の中にあのキャラメル色を探すようになった。

 思ったよりもすぐに見つかり、キャラメル色の髪の女子は同じ学年の普通科にいることがわかった。寺井が同じクラスだったのだ。俺は理数科で、教室が一番離れているのでこれまで見かけることがなかったらしい。

 三年生に姉がいて、姉妹でいるところを目撃した近藤が「姉ちゃんくそタイプ!」と言い始めたのが、彼女を詳しく知るきっかけになった。

「生徒会長だぞ。入学式で挨拶してただろ」

「寝てたわ。名前は? 彼氏いんの?」

「吉川紫先輩。彼氏は知らんけど、天才ピアニストって有名らしいぞ。何か色々賞とってるって、クラスの女子が話してた」

「名前からして美人じゃん。ピアニストかぁ。お嬢様っぽいよな」

「妹は?」

 無意識にそう聞いていた。寺井が意外そうな顔をするのを見て、しまったと思うがもう遅い。「なんだよ」と睨むと肩をすくめられる。

 別に深い意味はないのだから、誤魔化す必要もないと開き直ることにした。

「妹のほうは吉川藍。クラスメイトだけど、こっちは普通の女子って感じ」

 吉川藍。それが彼女の名前らしい。特に意味もなく頭の中で繰り返す。

「姉ちゃんと全然似てなくね? お嬢様感ないってか、ギャルっぽいし」

「まぁ、吉川紫と比べるとな」

 近藤に「瀬尾はああいうのがタイプ?」と聞かれ、思わず顔をしかめた。相手の知らないところで、こんなふうに勝手にレッテルを貼るのは良い気持ちはしない。

 クラブチーム時代、野球の試合を観に来ていたスカウトマンを思い出す。奴らは勝手に押しかけ、勝手に審査し、勝手に選手に点数や優劣をつけては目ぼしい選手を囲いこんだ。ああいう、子どもの世界に土足で踏みこみ、ふんぞり返っている大人が嫌いだった。

「そういうんじゃない」

 あのときはそう答え、話を切り上げた。それが先週末のこと。

 

 

六惑星のパレード』は全4回で連日公開予定