急遽、部活帰りに、凜が家にやってくることになった。夏休みが始まってから顔を合わせていなかったので、五日ぶりだ。凜──山田凜とは高校から同じ学校になったが、同じクラス、同じ部活で意気投合し、仲良く過ごしてきた。凜の家はマンションで数駅離れたところにあるそうだ。兄がうるさいから、ということで遊びに行ったことはない。だいたいわたしの家に来るか外へ遊びに出るかだ。
「こんにちは!」と階下から明るい声がして、「お菓子なんて、気にしなくてもいいのに。ありがとうね」などと言っている母の声が聞こえる。凜は母親ともよく知った仲で、愛想がいいのでうちの親にも評判が良い。良いのは愛想ばかりではない。顔もいい。手足が長く、すらっとした体つきに小さな顔がのっていて、どこかのアイドルグループにいてもおかしくないくらいだった。当たり前だが人気がある。部活でも二年生だが副部長に抜擢されている。
部活の顧問の椎名先生だってそうだ。凜と接する時には、(他の生徒もいる手前、えこひいきなど噂が立とうものなら部はコントロール不能になる。厳しいくらいでちょうどいい。バランスを取ってしかるべきだ)と考えたのであろう、独身男性の先生らしい、フラットな印象を意図的に前面に押し出しているように感じる。
椎名先生は音大の作曲科を卒業しており、それまでほとんどめぼしい活躍をしていなかった、うちの高校の吹奏楽部を躍進させたという、評判の先生だ。わたしは中学からパーカッションをやっており、高校入学時、もう吹奏楽を続けるのはいいかな、もっと楽な部に入ってのんびりやろうと思っていたのだが、ある日の椎名先生に「パーカッションは全体の要だよ。経験者の上仲さんにぜひ入ってほしい」と真剣な眼差しで言われ、一瞬迷ったものの「じゃあやります」と返事をしてしまったのだ。その時に隣にいたのがバリトンサックス経験者の凜で、「わたしもやります」と請けおった。
やる気のある指導者のもとでは上昇気流が起きるらしい。そばに寄った生徒も吸い寄せられるように上を目指し始める。「椎名先生かっこいい」と先生目当てで入った初心者もいつしか自主練を欠かさず、音楽の高みを目指すようになった。
細身で長身、いつもはあまり笑わない。着ているものは白いシャツだが、実はいいものを着ているらしい。積極的な女子生徒が、いろんな手を使って先生の気を引こうとしても一向にとりあわず、心も動かさず、椎名先生は徹底して音楽の話しかしない。噂によると職員室でもそのようで、先生は、音楽以外のすべての欲がない男なのでは? と陰で言われている。見るからにちゃらちゃらした体育の先生は、女子生徒から向けられる好意を明らかに喜んでいるのに対し、椎名先生を喜ばせるものは音楽しかないらしい。
それでもわたしは、見てしまった。凜と椎名先生が放課後、ふたりだけでいるときの様子を。窓のところに気だるそうにもたれた姿勢の椎名先生は、いつもと違って疲れた様子の笑顔を隠していなかったし、どこか素の表情に見えた。凜のほうも、わたしといる時とは違う、大人びた顔で椎名先生に嬉しそうに話しかけていた。あんな目をするんだ、と思った。ふたりの姿を隠すように、吹いてきた風にレースのカーテンがなびいて揺れていて、ふたりのその姿が見え隠れする様子は、絶望的なまでに綺麗だった。
部活はそれから理由をつけて休んでいる。凜には理由を話していない。ただなんとなく、と言ってある。本当の理由を話すつもりはない。ふたりを見ていると、胸が苦しくなるから──とは。
玄関まで行くと、凜は長い髪を適当に括ってまとめていた。水色のシャツが奥二重の和風の顔立ちによく似合う。よく、二重にしたいからアイプチをする子はいるが、凜の場合はアイプチで二重にしようものなら、この絶妙なバランスが崩れてしまうだろう。何も足さなくてもいいし、引かなくてもいい顔だと思う。
「ガビちゃんさあ、家でのんびりしてるなら部活に来たらいいのに」
「片付けがあったりして、いろいろ忙しかったんだよ」と、ぼかしつつ、二階の部屋に案内した。母が、凜が持参したらしきクッキーを皿に並べて、紅茶を準備してくれた。
美味しいクッキーを食べながら、凜が本題を切り出してきた。
「亡くなったおばあちゃんから手紙って何」
〝まさみさまへ〟と書かれた手紙を見せて経緯を説明する。凜はそのものを前にして、興奮をおさえきれないように、口元を手で押さえて目を見開いている。
「でもガビちゃんは、〝まさみや。わたしが亡くなったらこの鏡台を開けて。手紙があるからね〟とは言われてないんだよね?」
凜の、おばあちゃん的な声真似がうまくてちょっと笑ってしまった。
「鏡台自体も、ゴミに出す寸前に気づいたくらいだし、この仕掛けのことも当然、知らなかったし」
鏡台の実物を見せながら、引き出しの仕掛けの説明をする。
鏡台は、下から順に四段目、三段目、二段目、一段目、と開けていくと、仕掛けが外れるようになっていて、一番下の引き出しから完全に取り出せるようになる。外に出した一番上の引き出しを裏返すと、秘密の空間が現れるという手の込んだ仕掛けだった。掃除をしていて、たまたま引き出しを開けたり閉めたりしていたから、うまい具合に仕掛けが外れたらしい。秘密の引き出しを開けるには、順番を守らねばならず、一度でも順番を間違うと、引き出しは全部ストッパーがかかって抜き出せなくなってしまうこともわかった。
「すごい、金庫みたい……」
凜が声をあげる。金庫のような形をしていない分、秘密の隠し場所としては最適かもしれない。
開けるには、まず順番通りに下から引き出しを開けなければならないし、一旦ロックを外した上で、また下から順番にその引き出しを全部引き抜かなければならない。最後に一番上を裏返し、底板をスライドさせる。かなり手順を要するので、どうでもいいものは入れないはずだ。ここは、秘密の、それもすごく大事な物をしまう場所だったにちがいない。
「もしも、ひいおばあさんがガビちゃんに確実に渡したかったら、もっとわかりやすい場所に隠すよね」
それが自分でも腑に落ちない。曽祖母は、どうしてここに手紙を隠したのだろう。
「たまたま鏡台を持って帰ることになって、たまたまこの隠し引き出しが開いたから、たまたまが何重にも重なっていることになる」
ふたりで無言になり、その〝まさみさまへ〟の字を見つめた。澄んだ水が流れるような字だった。
「ひいおばあさんには、この鏡台を開けるのがガビちゃんだって、やっぱり、あらかじめわかってたのかな」
「そんなわけないと思うんだけど」
「予知夢とか。千里眼とか、背後霊とか」
凜はオカルトで知っていることを全部口に出そうとしているみたいに「えーと。念写とか?」などと言ってくる。
「ひいおばあちゃんは本当にふつうの、ただのおばあちゃんだったよ。神がかりの力とか、超常現象とかも聞いたことないなあ」
凜が注意深くその手紙に指で触れた。手触りを確かめるようにしている。
「でもさ、この紙、たぶんすごく古いよね? 黄ばんでるし。いつ書かれたんだろう。手紙を書いたにしても、ここ二、三年とかじゃない気がする」
中を開けて、文字を見た。
──山風に桜吹きまき乱れなむ花のまぎれにたちとまるべく
〝山風に〟と読んで、凜が指を折って字を数える。
「これって、短歌、だよね?」
最初に五。次は七、そして五。あとは七と七。確かに、この手紙は、短歌の形をしているようだ。そういえば、曽祖母の家から運び出した本には、短歌の本が多かった。趣味が短歌だったとも聞いている。
「ひいおばあちゃんが作ったのかな。一緒に桜を見た覚えはある?」
凜に聞かれるが、子供の頃の記憶はおぼろげだ。曽祖母と桜のイメージがあまり結びつかない。
「桜が好きだったとか」
「嫌いな人あんまりいない気がする」
「それもそうか。庭に桜の木、生えてる?」
「柿の木ならある」
わたしたちふたりの推理は、たちまち行き詰まってしまう。
「あともうひとつあって、こっちは手紙じゃなくて、冊子の形になってる」
もうひとつ、冊子の方を出す。その薄い冊子に題名は無かったが、全部縦に手書きの鉛筆で書いてあった。ぱらぱらとめくってみるに、一ページに数行の、ゆとりのある作りだ。これもすべて、五・七・五・七・七の短歌のようだった。
「こっちは、もしかして、歌集なのかな……?」
曽祖母がわたしに宛てた手紙は、なぜか短歌で書かれていた。
これ以上考えてもできることはなく、凜は「ところで」と言う。
「部活、来てよ。ガビちゃんいないと寂しいんだもの」
「ごめん」と言うと、凜の表情が沈んだ。わたしは付け加えるように「だってさ、この手紙のことも気になるし。ひいおばあちゃん、なぞなぞが好きだったから、これもなぞなぞの一種かなって思うんだ。気になって、なんか、部活っていう気にもなれなくて……」
手紙と部活を無理やり結びつけてみる。何かを断るには断るための理由が欲しい。理由としては弱いが、本当の思いはとても凜には言えない。
突然、凜がはっとなってこちらを見た。
「わかった。じゃあこの手紙の謎、解いちゃおうよ、ふたりで」
「え? 無理だよ、だってひいおばあちゃん亡くなっちゃってるし。いくらなんでも、解きようがないよ」
「謎が解けたらガビちゃん、部活に復帰してくれるんでしょ?」
「いや、まあ、それは……」
「ちょうど明日部活も休みだし、明日から謎解きしよう。そうしよう!」
凜は明日から来ると言い張り、わたしとしても曽祖母が残したこの謎が気になるのは確かなので、突然ながら〝亡くなったひいおばあちゃんからの手紙事件探偵団(団員二名)〟を発足、短歌を手がかりに手紙の謎を解くことになったのだった。
その夜。
──山風に桜吹きまき乱れなむ花のまぎれにたちとまるべく
曽祖母の手紙をもう一度読む。
この手紙には、気になることがまだある。手紙のこの光景を、わたしはかつて見たことがある。そんな気がするのだ。
目を閉じると、脳内にあの短歌に描かれた桜のイメージが浮かんでくる。
その桜の記憶は、曽祖母はもちろん、誰にも話していない。その頃にはもう、曽祖母は病院にいて、うとうとと一日中眠ってばかりいた。
でも、ここには実際に手紙がある。まるで自分の思い出をそのまま写したような短歌の形で。
この引き出しを開けることを、曽祖母はあらかじめ予測して、わたし宛のこの手紙をここに書き残したのだろうか。
この手紙は、いったい、なんなのだろう。
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