昨夜から吹きつけた風は朝には静まっていた。丘はひととき静寂に包まれ、男の視界に入るのは鉱物のように青い空と、濃い緑の草原ばかり。
青と緑の世界で、男は存分に手足を伸ばした。身体がほぐれ、「ううん」と声が出たのを聞きつけたのか、足元にずらりと並べられた檻の一つから、キュウウと細い鳴き声が上がった。
「そうだな。お前たちも、身体伸ばしてぇよな」
男は周囲を見渡し、異常がないのを確認すると、檻の中を覗き込んだ。人間の視線を感じて、中のキツネたちは少し怯えたように身体を縮こませる。一番大きな個体が牙を剥いた。ここ数日、彼らに餌をやり続けた人間であっても、犬のように懐く様子はない。やはり、彼らは野生の獣なのだ。
「悪かった悪かった。怯えさすつもりはねえんだ。早く出しちゃろうな」
男はキツネたちを宥めるようにそう言うと、八つの檻の扉をひとつひとつ開けていった。だが彼らはすぐには外へ飛び出さない。檻の内側から長い鼻先だけを突き出し、まず匂いを嗅ぐ。そして恐る恐る頭を外に出し、黄緑色の両目を巡らせて、周囲の様子を確認した。
やがて、さっき牙を剥いた一匹がしゅっと草原へと飛び出すと、残りの仲間もその後を追うように檻から駆け出していく。
あとはもう、一瞬のことだ。キツネたちは他の仲間と間隔を保ちながら、その茶色の身体を草原に躍らせた。丘の下にある茂みを目指し、ほぼ一団となって走り去っていく。
その美しい毛並みが陽光を受けて金色に輝く様を、男は微笑みながら見送った。これほど元気なら、きっと秋には沢山ネズミを捕らえて食ってくれることだろう。
「元気でやれよう。元気で、沢山ネズミ食って、子っこ産んで、増えろよう」
彼らが振り返らないと知りながら、男はそう声をかけて手を振った。その短い間にも、彼らは新たな生息の地を求め、茂みへと飛び込んで姿を消していった。後にはキツネ特有のきつい小便の臭いが残るだけだったが、再び吹きつけてきた海風はそれさえ消し去っていった。
大正末期。よく晴れた昼のことだった。
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