私用のスマホが鳴っていることに気づいたのは、神保町で電車を降りたときだった。
『香子、もしかして帰る途中だった?』
電話の相手は茨城に住む母だ。残業真っ直中で聞くにはあまりにのほほんとした声だった。
「ごめんお母さん、今日、雑誌の入稿日で忙しいの。今から会社に戻るところ」
時刻は夜十時過ぎ、帰宅する人々が次々駅に吸い込まれてくる中、流れに逆らって香子は地上に出た。
『えー、まだ仕事ぉ? 働き過ぎじゃない?』
「いいんだよ、好きで編集やってるんだから」
とりあえず用件は手短に〜と説明しながら、仕事用のスマホを確認する。アオヤマからのメールはない。
『あのね香子、今度お父さんが社員旅行で北海道に行くの。牧場でソーセージの手作り体験するらしいんだけど、香子も食べたいかな〜と思って。香子も食べるなら多めに作るぞってお父さんが張り切ってるのよ。あ、ちゃんとビーフ100パーセントだから安心して。お父さん、ちゃんと牧場に確認してたから』
適当に相槌を打っていたら、仕事用のスマホにSNSの通知が表示された。担当作家のSNSが更新されたら通知が届くように設定してあるのだ。もちろん、監視のために。
更新されたのはアオヤマのSNSだ。香子が届けたドーナツの写真がアップされていた。
〈いえーい、ドーナツだー! 担当ありがとう! でも残念、原稿はまだでーす〉
フォロワー達が「さすがアオヤマ先生!」「〆切当日に強い!」と賛辞を送っている。
ポンと軽快な通知音と共に、またアオヤマが何やら投稿する。
〈期間限定のミックスベリーがないじゃん〉
そうそう、最初はミックスベリーを買おうと思った。アオヤマはベリー系のスイーツが好きで、普段使いの香水までベリーの香りだから。でも売り切れだった。
『香子、聞いてる? ソーセージの味付けは何がいい? ハーブとかスパイスとか入れられるんですって』
わかってる。アオヤマはこういうキャラで売っているのだ。編集を振り回す破天荒な漫画家として、ファンからも愛されている。
赤信号で立ち止まる。嫌に鮮やかな信号の赤色が、スマホの画面に映り込んだ。
「うん……別に、どっちでもいいかなあ、ソーセージの味は」
真っ赤な信号を見上げる自分から笑みが消えているのに気づき、急いで口角を上げる。
──なのに、
『あとねあとね、知世叔母さんがね、香子に紹介したい人がいるって言うのよ』
母は、突然そんなことを言い出した。
「ちょ、ちょっと待って、それって……」
飲み会帰りらしい大学生グループが歩いてきて、その騒がしい声のせいで香子の困惑は母に届かなかった。
『知世叔母さんのお友達の従兄弟だか再従兄弟だか何だかの息子なんだけどね、県庁勤めの優し〜い穏やか〜な人なんですって。年は香子の二個上でね』
「要するに、お見合いってこと?」
今、令和だよ? 恋愛結婚の割合がお見合い結婚を上回って半世紀以上だよ? そう続けようとして、すべて喉でつっかえた。
『知世叔母さん、旦那さんが死んでから暇で暇で縁結び活動し始めちゃったのよ。でもすごいの、本当に結婚しちゃったカップルが出たの。それで調子づいちゃって、今度は香子ちゃんに縁を結んでみせるわ〜日本の少子化は私が救うわ〜って元気でさあ』
「それで、私にどうしろと?」
『ほら、知世叔母さんって言い出したら聞かないし、お母さん達の顔を立てると思ってさ。別に気に入らなかったら断ればいいんだし』
その昔、両親のお見合いをセッティングしたのもまた、知世叔母さんだった。当時からお節介縁結びおばさんの気質はあったわけだ。
「あのさあ」
まずい、明らかに、声に怒気が滲んだ。信号待ちをしていた通行人が一斉に香子を見た。
「私に〈そういうの〉が無理だってこと、お母さんが一番よく知ってるよね?」
『もちろん、お母さんだって香子に〈そういうの〉は難しいってわかってるわよ。でもなんだかんだ香子のことを心配してるんじゃない。一人娘がこのままずーっと一人で大丈夫なのかしらって。それに、もしかしたら香子でもお付き合いできる人がいるかもしれないじゃない。あんたの〈マーガレット症候群〉を理解してくれる人が』
「自分が知世叔母さんに頭上がらないからって、私の心配するふりしてお見合いなんて押しつけないでよ」
吐き捨てた瞬間、ドンと背中を押された。歩行者用の信号は青になっていて、側にいた大学生グループの一人が「あ、やべ」という顔でこちらを見ていた。
酔っ払いと背中がぶつかっただけ。そのはずなのに、香子は無防備に路上に倒れ込んだ。仕事用のスマホが横断歩道でトンと跳ねた。
『香子、どうしたの? お見合い用の写真、成人式の写真でいい?』
握り締めた私用スマホからは、相変わらず母ののほほんとした声。香子の〈怒り〉など届いてない。ぶつかってきたはずの大学生達は「やばい、やばい」と笑いながら、駆け足で横断歩道を渡っていった。
いや、せめて「ごめんなさい」くらいは言わんかい──なんて声に出せるはずもない。
「あららぁ……」
結構な不運のはずなのに、顔は笑っている。
「画面が割れなかっただけ、よかったなあ」
そうそう、よかったよかった。地面に転がるスマホに手を伸ばした瞬間、前から歩いてきたピカピカのパンプスの、凜としたハイヒールが、香子のスマホを踏んづけた。
悲鳴みたいな音を立てて、スマホの画面に見事なヒビが走った。
「え、何っ?」
歩きスマホをしていた女性が、その場から飛び退く。割れたスマホと横断歩道に倒れ込む香子を交互に見て、「は? 私のせい?」と険しい声で問いかけてきた。
「え? 私のせいじゃないよね?」
早く違うって言ってよ。ていうかあなたが謝ってよ。そんな本音が聞こえる。
慌てて鼻を手で押さえた。まずい、まずい、本当にまずい。
「お、怒っちゃダメぇ……!」
叫んで、割れたスマホを拾い上げた。私用のスマホからは母の『香子〜? どうしたの?』という声がまだ聞こえている。
「うるさい! 今それどころじゃないの」
点滅する青信号を横目に、会社の入るビルに駆け込んだ。残っている社員も少ないのか、一階のエントランスは静まりかえっていた。受付に掲げられた「玉雪出版」という社名を照らすライトも落とされている。
『あら、大変ねえ、漫画の編集って。でもねえ香子、あんまり怒っちゃダメよ』
「言われなくても私が一番わかってますっ」
『あ、ソーセージはどうする?』
「日曜日指定で送ってください!」
電話を切って、エレベーターに飛び乗った。カゴの中の大きな鏡に、鼻を押さえたまま肩で息をする香子がいる。
幸い、月刊ペルル編集部のある五階まで誰も乗ってこなかった。他の社員は無事入稿を終えて帰宅したようで、無人のオフィスに香子の大股の足音だけが苛立たしげに響いた。
自分のデスクに、今朝買ったコーヒーのカップが置きっぱなしになっていた。力任せに摑んだら、ぐちゃりと音もなく潰れた。
「なんなの今日! 何が『いつも通りを心がけてハッピーな一日』だ! ゴミ出しルールくらい守りなよ大人なんだから。『あんたに関係ないじゃん』って何? あるじゃん、同じゴミ捨て場使ってんのよ。なんでいい年して割り込みするの? 店員に『今日も可愛いね』ってセクハラだからね? テメーの会社でやってみろ。すぐに人事部に呼び出されるから!」
右手に空のカップ、左手に割れたスマホを握り締めて、誰もいないオフィスを歩き回る。オフィスの入り口の観葉植物が目についた。大王印刷の矢敷は、いつもあそこで一旦立ち止まって「大王印刷です」と名乗る。
「〆切破ってるのは悪いと思ってますよ! 先回りして対策? してるよ! あんたが考えてる何十倍も考えて実践してるよ!」
地団駄を踏みながら、観葉植物を怒鳴りつける。青々としたパキラの葉がふて腐れたように上下に揺れた。
「ランチのときのクレーム客、何だアレ! 大人が揃いも揃ってネチネチネチネチ恥ずかしくないわけ? そしてイライラしてたのはわかるけどあの店長の態度はなんなの!」
踵を返したら川上のデスクが目に入り、「ランチ代早く返して!」と指さして叫んだ。
「あと、アオヤマ先生の担当を私に押しつけたくせに、なんで毎度あんなに他人事みたいな顔できるの川上さん!」
SNSで活動していたアオヤマを発掘したのは川上だ。連載が始まった途端、「手がいっぱいなので」と編集長に担当交替を申し出たのだ。
ああ、そうだ、編集長と言えば──。
「一緒に来てくれたのはありがたいけど、喜怒哀楽の怒がないって何? あるから! 表に出さないように頑張ってるだけだから! 怒ることのないお気楽ハッピー人生を送ってる部下が羨ましいみたいな顔して!」
編集長のデスクの前に移動し、「人の気も知らないで!」と吐き捨てる。デスクの上の原稿の山が崩れたが、直してやらない。
ひび割れた仕事用のスマホに、新着メールの通知はない。
「〆切に間に合わないのはしょうがない。でもなんで音信不通になる? 〈恐怖を感じます〉って何? 電気ピカピカで居留守するその心は? そのくせSNSはめちゃくちゃ更新するその真意は? 期間限定のドーナツを催促できるその面の皮の厚さは何ミリだ!」
ぺちゃんこに潰れたカップを、ゴミ箱に投げ入れる。ゴミ箱の底で跳ね返り、香子の足に当たって床を転がっていった。
「ダメ、怒っちゃいけない。アンガーマネジメント、アンガーマネジメント……」
念じながら顔を上げると、窓ガラスに残業疲れを全身から漂わせた香子の姿がある。
窓ガラスの中で眉間に皺を寄せ、口をへの字にして、「もう、うんざり」と言いたげに腰に両手をやる塩見香子の鼻は──人間の鼻の形をしていない。
淡いピンクの鼻先はツンと上を向いていて、正面から鼻の穴がよく見える。ぽてんと大きく平たい鼻は、どう見たってブタの鼻だ。〈ブタみたいな鼻〉じゃない。〈ブタの鼻〉なのだ。人間の顔に、嘘みたいに本物の、ブタの鼻がついている。
塩見香子、二十五歳、性別は女。職業は少女漫画雑誌「月刊ペルル」の編集者。身長も体重も二十代半ばの女性の平均と大差ない。会社の健康診断でA以外出たことがない。
なのに、怒るとブタ鼻になる。苛立って声が荒っぽくなるように、舌打ちをしてしまうように、ものに当たってしまうように──香子の鼻はブタになってしまう。
今日は危なかった。何度ブタ鼻が出現するかと思った。さっきスマホを踏んづけられたときなんて、多分もうブタ鼻になっていた。
「ああー、もう、早く引っ込んで」
鼻を摘まんで呟くと、小さく「ぶひ」と鳴った。間違いなく自分の鼻からこぼれた音だ。
「怒らない、怒るでない……そう、私は何があっても怒らない仏の塩見さん」
子供の頃から繰り返してきた呪文を呟きながら、デスクの椅子に倒れ込む。ポンとスマホの通知音が響く。メールだった。ズタズタの画面には確かにアオヤマの名前がある。
〈朝から体調不良で遅れてしまいました〉
たった一言、そう書いてあった。何もかも全部なかったかのようなしおらしい文面と共に、原稿が添付されていた。
「届いた……届いたけどね……」
握り込んだ拳を突き上げればいいのか、デスクに叩きつければいいのかわからない。
ただ、自分の鼻が立派なブタ鼻のままなのは、よくわかった。
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