「おたきが、色っぽいからだろう」
平九郎は、刀身を一振りして血を切り、納刀すると、たぬきの方へもどろうとした。
「ど、どこへ行くんだい」
おたきが、慌てて平九郎の袖口をつかんだ。
「たぬきで、飲みなおす」
「そんなら、ここで飲んでおくれよ。助けてもらったお礼に、ご馳走するからさ」
そう言って、おたきは平九郎に身を寄せると、伸び上がって口元を耳のちかくに寄せ、旦那なら、好きなようにしていいから、とささやいた。
おたきを抱くつもりはなかったが、袖をつかんだまま離さないので、仕方なく店に入った。
平九郎が追い込みの座敷に腰を下ろしていっときしたとき、暖簾をくぐってふたりの武士が入ってきた。ふたりとも、羽織袴姿で二刀を帯びていた。御家人か江戸勤番の藩士といった格好である。ひとりは四十半ば、もうひとりは三十がらみだった。どういうかかわりなのか。主従ではないようである。
四十半ばの男は丸顔で、人のよさそうな笑みを浮かべていた。一方、三十がらみの男は、面長で眉の濃い剽悍な顔付きをしている。
ふたりは土間に立ち、座敷の隅に胡坐をかいている平九郎の姿を目にすると、歩み寄ってきた。
「拙者、平井重兵衛ともうす」
四十半ばの男が言った。つづいて脇に立った三十がらみの男が、鴨井兵助と名乗った。生国や身分は口にしなかった。
……手練だ。
と、平九郎は思った。
とくに、平井が遣い手のようである。中背だが、全身をひき締まった筋肉がおおっていた。すこし撫で肩で、どっしりと腰がすわっている。相手を威圧するような気魄や凄味はなかったが、身辺に剣の達人らしい威風がただよっている。
「おれに、何か用か」
平九郎が訊いた。
「そこもとに、おりいって相談がござる」
平井が笑みを浮かべたまま言った。
「相談とは?」
「ここで話すわけにはいかぬが」
そう言って、平井は店内に目をやった。
追い込みの座敷には数人客がいて、平九郎とふたりの武士の方に訝しそうな目を向けていた。
ちょうどそこへ、おたきが酒肴の膳を運んできた。
「おたき、奥の座敷はあいているか」
平九郎が訊くと、おたきは立っているふたりの武士を値踏みするような目で見ながら、あいてるけど、旦那の知り合いかい、と訊いた。
「知り合いではないが、おれに話があるそうだ」
平九郎はかたわらの刀をつかんで立ち上がった。
四
おたきが三人分の膳を運び、お互いに手酌でついだ杯の酒を飲み干してから、
「さきほど、そこもとの腕を見せてもらった」
と、平井が切りだした。鴨井は平井の脇に座したまま黙っている。
「それで」
手酌でついだ杯を口元にとめたまま、平九郎が訊いた。
「その腕、買いたい」
平井は笑みを浮かべたまま言った。鴨井は表情を動かさず、平九郎を見すえている。
「おれの腕を買うだと?」
「そうだ」
「人を斬れ、との依頼か」
刺客か、用心棒であろう、と平九郎は思った。
「まァ、そんなところか」
「おれの腕など必要あるまい。おぬしたちふたりなら、他人の手を借りずとも斬れるはずだ」
そう言って、平九郎は杯の酒を飲み干した。ふたりとも手練である。よほどの相手でなければ、後れをとるようなことはないはずなのだ。
「わしも斬るし、鴨井も斬る。だが、相手が大き過ぎてな、ふたりだけではどうにもならぬ。ひとりでも、多くの斬り手が欲しいのだ」
それを聞いて、杯についでいた平九郎の手がとまった。
「どういう相手なのだ」
平九郎は、驚いたような声で訊いた。
「出羽国、石館藩七万石」
平井の顔から笑みが消えていた。
「なに! 七万石の大名だと」
平九郎の手にした杯から酒がこぼれ、慌てて膳の上に置いた。
つづいて、口を開く者はいなかった。座を静寂がつつんだ。三人は見つめ合ったまま、石のように固まっている。そこへ、障子をあけて、おたきが入ってきた。小鉢をのせた盆を手にしていた。酒の肴を運んできたようだ。
「どうしちゃったのさ。黙り込んで」
おたきは、煮魚の入った小鉢を三人の膳にのせながら訝しそうな目を向けた。
「おたきさんといったな。すまぬが、こみいった話でな。もうしばらく座を外してくれぬか」
平井がおだやかな声音で言った。
おたきは不服そうな顔をしたが、おとなしく座敷から出ていった。
「大名を斬るのか」
平九郎が声をひそめて訊いた。
「藩主を斬るわけでは、ござらぬ」
黙って聞いていた鴨井が口をはさんだ。
「では、だれを斬るのだ」
「奸臣を斬り、石館藩をわれらの手に取りもどすのでござる」
「何かいわくがありそうだが、三人で七万石の大名を相手にしようなどと、気が触れたとしか思えぬが」
平九郎は首を振って、膳の杯に手をのばした。
「三人だけではござらぬ。国許には同志がおりますし、江戸でもさらに仲間を集めるつもりです」
鴨井が語気を強くして言った。その口振りから推して、鴨井は石館藩士のようである。
「それにしても、そんな大事を、おれに打ち明けてもいいのか。おれはな、界隈じゃァ死神と呼ばれて嫌われている食いつめ牢人だぜ」
そう言って、平九郎は杯の酒を飲み干した。
「そこもとのことは知っている。一刀流、長岡道場の俊英として謳われていたが、酒席で人を斬ったために浪々の身となったこともな」
平井が言った。
「ほう、くわしいな。ところで、平井どのはどこに住まわれておる。石館藩の家臣にも見えぬが」
「わしの住居は、本所番場町だ。平井道場の名は聞いたことがあろう」
「あの、平井道場の主か」
平九郎は思い出した。平井は心形刀流の道場主である。ただ、いまは平井道場の名を聞かない。ここ数年、門をとじたままのはずだ。
心形刀流の祖は伊庭是水軒秀明で、天和年間に一流を興し、代々江戸に道場を構えて門人を育成し、いまも隆盛をみている。
平井は神田松永町にある伊庭軍兵衛の道場の高弟だった男で、平九郎が一刀流、長岡道場に通っていたころ独立して番場町に道場を開いたのだ。
「平井どのと鴨井どのとのかかわりは」
平九郎は、町道場主と石館藩の家臣との結び付きが分からなかった。
「鴨井がな、江戸勤番のおりに、わしの道場に通っていたのだ。いわば、師弟の関係だな」
平井は、また顔に笑みを浮かべて言った。
「それで、江戸で何人ほど集めるつもりだ」
平九郎が鴨井に顔を向けて訊いた。
「十人ほど」
「十人で、七万石の大名を相手にするつもりなのか」
「国許には、何人もの同志がいる」
「うむ……」
無謀だ、と、平九郎は思った。だが、おもしろい、とも思った。何人同志がいるか知れぬが、わずかな人数で七万石の大名と一戦交える気でいるのだ。
「それで、報酬は」
「二百両。ただ、払うのは、石館藩をわれらの手にとりもどしてからになる」
「おい、失敗したら、ただ働きか」
「そういうことになる。戦国の世から、敗軍の将に恩賞はない」
平井は当然のことのように言った。
「まァ、そうだが、金がなくては、石館に行くこともできぬではないか」
話にならない、と、平九郎は思った。途方もない相手を、無償で斬れというのに等しい。
「支度金として、五両用意いたした。国許への路銀はこちらで用意いたす。さらに、犬神どのが望まれるなら、百石ほどで仕官される途もござるが」
鴨井は熱心に言いつのった。
黙って聞いていた平井が、
「わしは、それで承知した。このまま老いるのを待つより、己の剣をぞんぶんにふるってみたいと思ったのでな」
と、柔和な顔で言い添えた。
「うむ……」
平九郎は、おれも同じようなものだと思った。罪もない者に因縁をつけて金を脅し取ったり、賭場の用心棒をやったり、ときには金ずくで人を斬ったり、そうした荒んだ暮らしに倦んでいた。己の剣を生かしてみたい気持ちはある。それに、大名相手の一戦も悪くないと思った。
「いいだろう」
平九郎は承知した。
「ありがたい。これは、支度金でござる」
鴨井がふところから財布を出し、小判を出して平九郎の膝先に置いた。
その小判を、平九郎がつかんでふところの財布に入れたとき、廊下の障子が揺れた。人のいる気配がする。どうやら、なかの様子をうかがっているようだ。
平九郎が立ち上がり、障子をあけ放った。おたきだった。おたきは這うようにして、座敷へ入って来ると、
「旦那ァ、江戸を離れて、どこかへ行っちまうのかい」
おたきが、顔をこわばらせて訊いた。どうやら、話の一部を聞きかじったらしい。
「どうかな。おれにも、先のことは分からん」
平九郎は、話はすんだ、おたき、酒をついでくれ、と言って、おたきの鼻先に杯を突き出した。
おたきは、平九郎からさらに訊きだしたかったようだが、他のふたりに遠慮したらしくその話はそれ以上口にしなかった。
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