甲高い女の悲鳴が聞こえた。

 つづいて、男の怒号とともに瀬戸物の割れる音や障子の破れる音などが、聞こえてきた。

 夫婦喧嘩でもしているのか。いや、そうではないらしい。やい、さんぴん、斬れるものなら斬ってみやがれ、と女の啖呵が聞こえ、つづいて、下卑た男の笑い声や囃立てるような男の声が聞こえてきた。

 ちかくの小料理屋か飲み屋で、酌婦と酔客がやり合っているようだ。

 犬神平九郎は縄暖簾を出した小体な飲み屋の飯台に腰を下ろして、ひとりで猪口をかたむけていた。総髪で面長、端整な顔立ちだったが、頬がこけ細い目をしていることもあって、陰湿で虚無的な雰囲気がただよっていた。その風貌にくわえ平気で人を斬ることから、近隣では犬神ではなく死神平九郎とも呼ばれている。

「旦那、相模屋のおたきですぜ」

 常蔵が言った。

 常蔵はこの店の親爺だった。店の名は、たぬき。そういえば、丸顔で浅黒い肌をした常蔵の顔は狸に似ていなくもない。

 相模屋というのは、三軒ほど先の料理屋である。料理屋といっても、客が望めば酌婦が肌を売る、半分女郎屋のような店だった。

 この辺りは深川八幡宮にちかい門前仲町二丁目、櫓下と呼ばれる岡場所で知られた地である。平九郎がいるのは、その櫓下の一角、どぶ板横丁と呼ばれる路地だった。

「おたきか……威勢がいいわけだ」

 平九郎は、おたきを知っていた。何度か、相模屋でおたきを抱いたことがあった。

 おたきは、粋や伊達で名を売っている深川芸者あがりで、界隈では男勝りの気性で知られていた。

 いっときすると、そのおたきの威勢のいい声が変わってきた。嫌だよ、離しておくれよ、などという哀願するような声になり、すぐに、痛い、やめて、という悲鳴のような声になった。

 酌婦と酔客の口喧嘩ではないようだ。おたきは打擲されているらしい。

「親爺、銭をここにおくぞ」

 平九郎は、飯台の上に飲み代を置くと、かたわらに立て掛けてあった刀を手にして、たぬきを出た。

 相模屋の前に、数人の男が立って暖簾の下がった戸口からなかを覗き込んでいた。牢人、職人、店者など、通りすがりの野次馬らしい。

「どいてくれ、店の女に用がある」

 平九郎は人垣を分け、店のなかに入った。

 土間の先に追い込みの座敷があり、そこで幾つかの人影がうごめいていた。牢人体の男が三人、座敷のなかほどで半裸の女を取りかこんでいる。座敷には酒器や小鉢などが転がっていた。

 女はおたきだった。おたきは仰向けに倒れ、牢人のひとりが腰の辺りを両手で押さえつけていた。おたきは牢人の手から逃れようと、必死に身をよじっている。

 おたきの縞の着物の襟が大きくひろげられ、乳房があらわになっていた。上半身の白い肌が行灯の灯に浮かび上がったように揺れている。

 他のふたりの牢人は、脇につっ立ったまま卑猥な嗤いを浮かべておたきと牢人に目を向けていた。

 店にいた酌婦や客は座敷の隅や土間に逃れ、ひき攣ったような顔をしてことの成り行きを見つめている。

「三人がかりで、無理強いかい。みっともねえ」

 平九郎は、立っている牢人の後ろから声をかけた。

 その声に、牢人たちが振り返った。おたきにのしかかっていた牢人も、手をとめて顔を上げた。いずれも素袷によれよれの袴。酔って赭黒い顔をし、野犬のような血走った目をしていた。界隈に巣くう無頼牢人のようである。

「犬神の旦那!」

 おたきが、声を上げた。

「死神平九郎か」

 立っている牢人のひとりが言った。

 おたきを押さえつけていた男が腰を上げ、かたわらに置いてあった大刀に手を伸ばした。どうやら、三人は平九郎のことを知っているらしい。

 その隙に、おたきは座敷の隅に這って逃げ、襟元を合わせて肌を隠すと板壁に背をつけてへたり込んだ。

「女を抱きたかったら、金を出すんだな」

 平九郎は、三人の牢人が酔った勢いでおたきを手籠めにしようとしたのだろうと思った。それにしても、店内でやるとは悪辣である。

「いらぬお節介だな」

 おたきを押さえつけていた男が立ち上がった。

 六尺(約一・八メートル)はあろうかと思われる偉丈夫だった。月代と無精髭が伸び、双眸が餓狼のようにひかっている。三人のなかでは兄貴格のようだ。

「酔いも覚めたろう。今夜のところは、おとなしく帰るんだな」

 平九郎が言うと、おたきが、飲んだ銭は置いてっておくれよ、と声を上げた。いくぶんおたきらしさを取り戻したようだ。

「このまま帰るわけにはいかんな」

 偉丈夫が、大刀を腰に差しながら言った。

「やめておけ、命を捨てるだけだ」

「そうはいかぬ」

 平九郎を見つめた目に殺気が宿った。腰がどっしりとして胸が厚く、首が太かった。武芸の修行を積んだ体躯である。

 脇に立っていたふたりの牢人も、刀の柄に手を添えた。ふたりとも血走った目をしている。右手の小太りの男の頬に刀傷があった。左手の痩身の男は、鯉口を切り腰を沈めて抜刀体勢を取っている。殺戮のなかで生きてきた男たちのようだ。

 四人の男が動きをとめ、店内が静寂につつまれた。

「そ、外でやってくれ!」

 隅にいた男が、悲鳴のような声を上げた。

 店の主人らしい。店を壊されるのを恐れたようだ。

「よかろう。外へ出ろ」

 平九郎はきびすを返して、表へ出た。

 戸口に人垣を作っていた野次馬たちが、ばらばらと逃げた。店先からすこし離れた路傍や板塀のそばに立ち、固唾を飲んでこちらを見つめている。

 平九郎につづいて三人の牢人が店から飛び出し、平九郎を取りかこむように三方に立った。正面が偉丈夫の男、左手後方が小太りの男、右手後方が痩身の男だった。

 路地は暗かった。だが、店先の提灯や二階の障子から洩れる灯などで、人影ははっきりと識別できる。斬り合うのに支障はなかった。

「容赦せぬぞ」

 言いざま、偉丈夫の男が抜いた。つづいて、ふたりの牢人も抜いた。三本の刀身が淡い明りを映して鈍くひかっている。

「こんなことで、命を捨てることもあるまいに」

 平九郎はそうつぶやいて抜刀した。

 

 

 偉丈夫の男は青眼に構えた。腰の据わった大きな構えである。剣尖が、平九郎の喉元にピタリとつけられている。

 ……そこそこ、遣えるようだ。

 と、平九郎は読んだ。

 腕に覚えがあるから、平九郎が界隈で死神と呼ばれて恐れられていることを知った上で、仕掛けてきたのであろう。

 左手後方の男は低い青眼。右手後方の男は八相だった。ふたりとも、多少の剣の心得はあるようだ。

 平九郎は青眼から刀身を頭上に上げて切っ先を正面の敵の眉間に向け、刀身を水平にした。一刀流の上段霞である。上段霞は応変自在の構えで、正面の敵を牽制しながら左右の敵の動きにも対応できる利がある。

 ……まず、初手は左手からか。

 前か右手の男が仕掛け、対応しようと平九郎が動いた瞬間をとらえて、左手後方の男が袈裟に斬り込んでくるか突いてくるだろう、と平九郎は読んだ。

 三人は気合も発せず、ジリジリと間合をせばめてきた。三匹の狼が、三方から獲物に迫ってくるようである。

 前方の偉丈夫の男が、一足一刀の間境に迫ったときだった。

 ピクッ、と切っ先が動き、痺れるような殺気とともに斬撃の気が疾った。

 ……くる!

 と、平九郎が察知し、わずかに腰を落として、前からの斬撃に対処しようとした刹那、左手後方の体が躍動した。

 黒い人影が疾風のように迫ってくる。

 ……突きだ!

 瞬間、平九郎は体を背後に引きざま、上段霞から斜に斬り下ろした。

 神速の一撃だった。

 突き出した男の右腕が虚空に飛び、截断された腕から血が噴出した。男は刀を取り落とし、ギャッ、というすさまじい絶叫を上げて、夜陰のなかへよろめいた。

 平九郎の動きは、とまらなかった。

 一瞬間をおいて、偉丈夫の男が青眼から袈裟に斬り込んできた刀身を、体をひねりながら下から撥ね上げると、反転して痩身の男の鍔元へ斬り込んでいた。

 まさに、疾風迅雷の流れるような体捌きである。

 痩身の男の右手の甲の肉が削げた。瞬間、白い骨が覗いたが、すぐに迸り出た血で真っ赤に染まった。

 男は呻き声を上げながら、後じさった。

 間を取った偉丈夫の男は、驚愕に目を剥いた。これほどの遣い手とは、思わなかったのであろう。

 平九郎は表情も動かさなかった。敵を見つめた細い切れ長の目がうすくひかっているだけである。

「まだ、くるか」

 平九郎は、ふたたび上段霞に取り、正面に立った偉丈夫の男との間をつめ始めた。

 偉丈夫の男の顔に恐怖の色が浮いた。

「ひ、引け!」

 言いざま、男は反転して駆けだした。

 腕を斬られたふたりも、斬り口を押さえながら逃げていく。離れた場所で固唾を飲んで見つめていた野次馬や店の者たちから歓声が上がり、逃げていく男たちに罵声が浴びせられた。

「旦那、怪我はないかい」

 戸口の前で、心配そうな顔で見ていたおたきが下駄を鳴らして駆け寄ってきた。

「ああ、口ほどにもないやつらだ」

「あいつらひどいんだから、銭も出さずにあたしを抱こうとしたんだよ。しかも、店先でさ」

 おたきは口をとがらせて言いつのった。

 

「十三人の戦鬼 〈新装版〉」は全3回で連日公開予定