まじめな本
ここでの連載の数年分が、やっと本になった。『小説を読みながら考えた(*1)』という表題である。校正刷りを読み直していたら、なにしろ平成十二年からの話だから、本人が書いたことをすっかり忘れている。文庫本の推理小説に至っては、自分であらすじまで書いているのに、思い出せない。そのうち自分が書いた本も忘れるに違いない。
読み返すと、あちこちに行っていることがわかる。ロンドンにいたり、エジプトにいたりしている。今月はラオスとタイだった。でも本はいっさい持っていかなかったから、なにも読まなかった。そういうときは、いつもデカルトの台詞をいうことにしている。「世間という大きな本を読むために、旅に出る」。
ラオスは暑かった。なにしろ乾期の末で、いちばん暑いときだとわかっている。その上この時期には、焼畑をやる。いや、焼畑と称して、森を焼く。雨が降らないからである。焼け跡がまだくすぶっているうちに、虫が飛んでくる。カミキリムシやタマムシ、ときにはゾウムシが集まる。幼虫が枯れ木を食べて育つからである。気温は三十五度くらい、足元はまだ残り火で熱い。そこで虫を採っている。こういうのを焦熱地獄というのであろう。山火事が生態系に組み込まれていることは、オーストラリアのような乾燥した大陸ではよく知られている。山火事で焼けないと、発芽しない植物の種があったりする。ユーカリの枯葉は油を含んでいるので、シューッと音を立てて燃える。火事になったら、よく燃えるようになっているとしか思えない。
笑えるファンタジーが少ないからこそ
旅行はともかく、このところまじめな本ばかり読んでいる。ファンタジーはあらかた読んでしまって、新しいのを探してこなければならない。久しぶりに新宿の紀伊國屋に行く用事があったので、たくさん買いこんで来た。むろんまだ読んでない。テリー・プラチェットは作品の数が多いので、まだ読んでないはずのものを買った。この人の作品は私の好みである。SFともファンタジーともつかないが、まあどちらでもいい。両方を書く作家も多いからである。まずなにしろ笑える。笑える本は少ないから、笑いたい気分になると読む。この前読んだのは、『ナイトウォッチャー(*2)』という題だったと思う。いつの時代、どこの土地ともつかない舞台なので、まあファンタジーといえばファンタジーだが、その世界でさらにタイムスリップして、主人公は自分が若かった時代に来てしまう。もちろんそこには若い時の自分がいるわけで、それを上司として訓練することになる。「夜警」というのは、この世界では警官のことなのである。どうやって自分の上司になれるか、論理的に疑問を感じる人がいるだろうが、だから笑えるのである。
怠けろ、それが創造性だ
まじめな本では、トム・ホジキンソンという人の『ハウ・トゥー・ビー・アイドル(*3)』というのをたまたま買ってしまった。アイドルはタレントのほうではなくて、「怠ける」ほうである。「怠惰礼賛」と昔なら書くところか。いまの人は働きすぎで、世界中の都会でそれは同じことである。だから怠けろというのが、著者の主張である。もちろんそれほどまじめに書いているわけではない。まず朝ベッドの中でなかなか起き出さないのが、いちばん創造的な時間だという。知り合いにもそういう人がいて、いちおうは偉い学者さんである。ものを考える人にはときどきあるタイプかと思う。こういう人は血圧が低いはずである。私はダメで、目が覚めると、かならず起き上がってしまう。そのかわり六十歳を越えた頃から、昼寝をするようになった。昨日はタクシーの中で熟睡した。血圧の低い人が朝のうちに無理に起きると、機嫌が悪い。そういう主婦はたくさんいるはずである。もっともいまでは、朝起きなきゃ、という義務感を感じる女性が減ってきたかもしれない。それでも勤めがあると、どうしても無理に起きることになる。これを続けると、精神の健康に悪いような気がする。日本中に機嫌の悪い人が増えて、それがたがいに角を突き合わせるから、ますますみんなの機嫌が悪くなる。それが結果的には妙な暴力沙汰になって、家族内の殺人にいたる。かどうか知らないが、そんな気がしないでもない。
日本語には主語がない
読んでしまって、置いてある本を見ると、読書傾向なんて、めちゃめちゃだとわかる。金谷武洋『主語を抹殺した男(*4)』(講談社)。三上文法の三上章の伝記である。著者はカナダで日本語を教えている大学教授である。私は高校で時枝文法、三上文法について、若干は習った。そう思えば、なかなか高度の教育を受けたんだとわかる。たいていの人は、たとえ習ったとしても、忘れてしまっているであろう。日本語に主語はないというのは、そのとき以来、私の常識だが、それがかならずしも世間の常識でないことは知っている。三上文法なんて聞いたこともないのに、英文法の初歩は習うから、「日本語は主語を省略する」という「常識」ができてしまうのである。
このなかに、日本語は虫の目だが、西欧語は神の目だという話が出てくる。わが意を得たり、である。脳には感覚世界と、概念世界がある。外界は感覚から入って、脳のなかで概念化する。そう表現すると、言葉上は難しそうに聞こえるであろうが、実際はきわめて単純である。感覚で捉えると、事物はすべて異なっている。いまの人はそれに気づかない。リンゴを並べたら、すべてのリンゴは「違う」リンゴである。そもそも置いてある場所が違う。大きさが違うし、形も色も違う。それを言葉にする、つまり「概念化」すると、すべて「リンゴという同じ言葉」で表現されてしまう。つまり感覚では「違う」ものが、言葉の上では「同じ」になるのである。その「違い」、つまり感覚世界に密着しているのが日本語で、より概念的なのが、西欧語なのである。
面白かったのは、川端康成の『雪国(*5)』の冒頭を読ませて、カナダの学生に絵を描かせるという挿話である。カナダ人だと、神の視点、つまり上から見た絵を描く。翻訳は「トレイン」つまり汽車を主語にした文章になっているから、読者が想像する図柄も、「外部ないし天から風景を見た」ものになってしまう。「トンネルを抜けたら、雪国だった」という文章を読んで、日本人のほとんどは上から見た景色を描くことはないであろう。言葉というのは、もともとそうした本質的な相違を含んだものなのである。それなのに、小学生に英語を教えるという。比較文化として教えるならともあれ、違いに気づかずに「英語を使えるようにする」などと思っているなら、手痛い目にあうであろう。もっとも「小学生に英語を教える」といっているほうが、まじめに考えているはずがない。本気で考えたら、かならず二の足を踏むはずだからである。
平均寿命が延びたきっかけは後藤新平だった!?
山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男(*6)』(草思社)。後藤新平について、私がいつも書くことがある。東大医学部に四十年近くいて、後藤のゴの字も聞いたことがなかったということ。医者であり、官僚であり、政治家であったが、東大ではなかった。そうすると、なぜか東大で語られる歴史から消えてしまうのである。そこがある意味でなんとも面白い。後藤新平には娘婿だった鶴見裕輔の膨大な伝記がある『正(*7)伝 後藤新平・決定版』(藤原書店)。ただふつうの人には読みきれないであろうから、今回の伝記のようにいわば要約されるとありがたい。
私が後藤に本格的に興味を感じたのは、竹村公太郎に東京都の水道の塩素消毒の話を教えられたからである。山岡の伝記によれば、後藤のシベリア出兵は失敗だったということになる。しかし陸軍はそのとき、おそらく毒ガス用の実験素材として、塩素を用意する。その塩素が野戦での飲料水の消毒に使えることを知った後藤は、東京市長の時代に、はじめて水道水の塩素消毒を行う。
竹村が後藤の事跡に気づいたのは、じつはある謎があったからである。どういう謎かというと、「日本女性の寿命はいつから延びだしたか」というものである。いまは約七年、女性の平均寿命のほうが男性より長い。しかし明治時代には、男性のほうが長かった。その傾向が逆転するのは、大正の中ごろなのである。それもほぼ大正八、九年だということを竹村は突き止める。しかし、それならその頃、いったいなにが起きたのか。そこで竹村は後藤の消毒に行き当たるのである。これって、ほとんど推理小説じゃないですか。
竹村は元建設省の河川局長、最近では『幸運な文明(*8)』(PHP研究所)を書いた。日本はある意味で幸運に恵まれている。それを資源問題、とくに資源が「ない」という視点から説いたものである。私も竹村も、背景は理科で、それは後藤も同じである。政治や官僚制は文科系、とくに法学部の世界だが、そうした背景からもののみごとに欠落してしまう部分がある。同じ理科でも、後藤と東大医学部の関係のように、「無関係」という「積極的な関係」があったりする。それが日本の世間である。その欠落は、理科系が補わなければならない。その意味で、後藤新平が一種の流行なのは、そうした欠落が世間にもあるていど「見えてきた」からであろう。
石油のための戦争
現代社会を読み解くには、イデオロギーでは無理である。イデオロギーや宗教がさまざまな雑音を起こしているのはわかる。しかしそれはあくまで雑音であって、根本は違う。それなら根本はなにかというなら資源問題、とくに石油である。しかしそれをいってしまうと、ほとんどの政治活動、官僚制は雑音の処理に過ぎなくなる。だからいわないのであろう。
文科的に論じたらブッシュ政権とはなにか。宗教的な原理主義が背景にある、一面ではとんでもなく時代錯誤的な政権ということになる。そんなことで現代のアメリカが実質的に動いているはずがないではないか。あれは石油政権、エネルギー政権というしかない。そんなことは、父ブッシュの時から、知れたことである。その石油は斜陽産業で、それを当の石油業界が知らないはずがない。だからどうなるのかというと、石油の整理をしなければならないのである。背に腹は換えられない、その必然性がブッシュ政権を作り上げたに違いない。だからこそ、昨年度の世界の稼ぎ頭の企業のトップは、エクソン・モービルだったのである。単にいま稼ぐためにブッシュが必要なだけではない。将来を見越せば、石油に徹底して依存している米国というシステム自体を、徐々に変換していかねばならない。それには先立つものが必要である。だからエクソン・モービルが儲けるので、「テロに対する正義の戦争」なんてアホみたいな標語に釣られると、本音を見誤る。
大日本帝国も、そうしたイデオロギーで身を誤ったというしかないであろう。中国と役にも立たない戦争を始めて、いまだにケリも付けられないでいる。イデオロギーに引きずられた結果である。太平洋戦争の初期、南方作戦は大成功だった。石油を手に入れるという「理科的な」目標があったからである。ハワイの太平洋艦隊を叩き、シンガポールを押さえる。南の石油を本土に送るには、制海権が必要だからである。その種の論理を、ミッドウェーに当てはめてほしい。当てはめられないであろう。つまり無意味な作戦だったのである。中国本土での戦争も同じである。正義だとか、愛国だとか、それは言葉の上だけにしておくべきであろう。後藤新平に倣うべきではないか。台湾に赴任したとき、後藤の原則は一つだった。「生物学の原則に基づく」と述べたのである。
(2007年4月)
*1『小説を読みながら考えた』(双葉社)養老孟司
*2『Night Watch』Terry Pratchett
*3『怠けの哲学 これでいいのだ』(ヴィレッジ・ブックス)トム・ホジキンス 著/小川敏子 訳
*4『主語を抹殺した男 評伝三上章』(講談社)金谷武洋
*5『雪国』(新潮文庫)川端康成
*6『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)山岡淳一郎
*7『正伝 後藤新平・決定版』(藤原書店)鶴見裕輔 全8冊+別巻
*8『幸運な文明』(PHP研究所)竹村公太郎
「読むこと考えること」は全3回で連日公開予定