通りの目を盗んで、自動ドアを通過する。受付に人はいなくて、それらしき姿を探してみたけれど、そういう仕様なんだと気がつく。未知の場所で、二人で探検隊みたいに身を寄せ合う。

 あからさまに落とされた照明と、怪しく灯る赤色のボタン。近づいてみると、どうやら空いている部屋を示して点灯しているようだった。「どれがいい?」「一番安いとこでいいよ」「それでもいくつかあるよ」「違いとか全く分からんって」なんて、ロマンもへったくれもない会話をしながら、なんとか部屋を選んで、はやる気持ちを抑えてエレベーターに乗り込んで、二階を押す。

 優実がぺろっと舌を出した。

「全然、高校生だってバレなかったね」

「ね。余裕だったわ」

「タケヒロ、ビビってたくせに」

 彼女には俺の強がりなんか全てお見通しだ。心の中を読まれていることすら、もう心地よく感じるようになっていた。

 203と書かれた部屋のドアノブをひねって中に入る。想像以上に大きい室内に、優実がはしゃぐ。俺はすかして、なんとなくソファに座ってみる。やっぱり落ち着かなくて、意味もなく部屋を行き来してみる。優実は大きすぎるシャワールームに感激して、これまた写真を撮りまくっていた。

 大きすぎるベッドにダイブすると、重力に負けて身体が沈んでいく。枕もとには照明を調整するつまみやボタンが何個もあって、適当にひねったり、押してみたりする。呼応するように部屋の中が明るくなったり、暗くなったり、点滅したりした。

 その様子を見て、優実もベッドに飛び込んできた。背中から彼女の温度が伝わってくる。いつもと変わらないくらいの距離なのに、やっぱり顔が見られない。身体を起こして、ごまかすように目をつむって軽く優実の唇にキスをする。

 この後起こることに下心を抱えながら、小さな身体を軽く寄せる。優実も、顔を俺の胸元にうずめてくる。いい匂いがする。でも、この後どうしたらいいか分からない。

 十五分くらいそうしていただろうか。痺れを切らしたように、優実がつぶやいた。

「タケヒロと、ずっとこうやってくっついてみたかったんだ」

 優実の上目遣いは、俺のちっぽけな理性を壊すには充分な威力があった。遠慮とか恥ずかしさとか照れとか、そういう自分を抑圧する全ての感情が弾けて、俺はやわらかい身体を強く抱きしめた。

 

 好きな人の重みって、その質量分イコール愛情を表している気がする。上から全体重をかけられると、少し息苦しいけど、かえってその息苦しさがくせになる。「わたし重たいから恥ずかしい。もう降りる」なんて言われると、そのいじらしさが愛おしくなって、離れていかないよう余計に強く抱き寄せてしまう。

「夏休みは、何しよう?」

 天井を見つめたまま話しかける。腕にかかる優実の頭の重みの分だけ幸せを感じる。

 このままずっと寝そべっていたいけれど、休憩はあと二十分しかない。美しい時間ほど、あっという間に過ぎる。

「夏休みかあ。もうすぐだね」

「うん。最後の夏休みだから、優実といろいろしたいことがあるんだ」

 市外で行われる大きな花火大会に、駅前で開催されるこぢんまりとした縁日。海水浴にだって行きたいし、ただファミレスでダベッてもいい。想像しただけで、心がほくほくしてくる。

 ふと、布団の裾を掴んだ優実の手のひらに、ぎゅっと力が入った気がした。なだらかな背中が、ほんの少し硬くなる。誰かに言い聞かすように、言葉を選ぶように、彼女は口にした。

「私、この夏休みは本気で頑張りたいことがあるんだ。だから、夏休みはほとんど一緒にいられない」

 夏休みは、ほとんど一緒にいられない? 冗談かと思って、表情を確かめようとする。優実は布団を頭にかぶせて、頑なに顔を見せてくれない。

「……頑張りたいことって?」

「作詞とか、作曲とか。あとは、動画の編集とかも」

「軽音部のやつ? 大変なのは分かるけど、それくらいなら今までも普通にこなしてたじゃん。そんな、会えないくらい夏休みに追い込んでやる必要あるの?」

「あるの。曲も、たくさん作らなきゃだし」

「曲? ああ、文化祭もあるからか。でも。ステージだって開催されるの十月じゃなかった? まだまだ時間もあるし、そんな焦る必要ないよ」

「あのね。文化祭じゃないんだ」

「文化祭じゃない? どういう意味?」

 どうしても責めるような口調になってしまう。それでも、優実は絶対に折れない。

 今度こそ、はっきりとした口調だった。

「ごめんね。ずっと言えなかったんだけど。本気でシンガーソングライターになるために、来年から東京へ行くつもり。そのために、夏休みは曲を作ったり、動画制作の勉強したり、やれることは今、全部やっておきたい。だから、夏休みは一緒にいられない」

 東京? そんなばかな。

 優実は、この先もこの町に居続けるのだと根拠もなく思っていた。進学で一時的にある程度離れることはあっても、毎週のように顔を合わせて、欠かさずメッセージを送り合って、いずれは家族になるのだと。

 将来やりたいことなんて、俺には数えられるほどもない。優実みたいに、迷いなく口に出せるものなんかない。その数えられる中でも唯一、自信を持って言えるのが「優実の隣にずっと居続けること」だった。

 東京。トーキョー。TOKYO。現実離れしたワードを布団の中で笑い飛ばそうとしてみる。

「本気?」

「うん。本気」

 覚悟を決めてしまった人特有のまっすぐな声に、ああ、止められないんだろうなあ、と思う。

 何より、優実は口にしたことを必ず叶える魔法使いだ。視線の先にはきっと、俺なんかには見えていないものがある。触れている彼女のあたたかい肌とは裏腹に、身体の深い部分から体温がすうと冷えていくのが分かった。

「東京に行かなくてもさ、シンガーソングライターにはなれるんじゃない?」

 意味がないと分かっていながらも、引き留めたい気持ちが梅雨の雨粒みたいに情けなく垂れる。

「私は、この場所にいたらきっと甘え続ける。実家に、タケヒロに、この優しい環境に甘えて、このままでいいやって、この場所でたゆたい続ける。だから、行かなきゃいけない」

 天井が、ひらひらと揺れる赤紫色の照明に合わせて、シルエットを作っていた。さっき見た、クラゲみたいだった。狭いラブホテルの一室は、作り物の夢みたいにきらきらとしていた。

 優実はわざとらしく明るい声を出す。

「そんなしんみりしないでよ。タケヒロこそ、将来やりたいことあるでしょ」

 なりたいものなんてない。けれど、それを言葉にしてしまえば更に優実との距離が遠ざかる気がして、どこかで軽蔑されてしまいそうで、取り繕う。

「そうだなあ。俺は、お父さんみたいな先生になるかな」

「そっか。教育学部とか目指すの?」

「まあ、そういうつもり」

「いいね。中学校の先生とか、似合ってるよ」

 俺は、微塵にも思っていない夢をなんとか本物に見せようと、優実の背中をぎゅっと抱きしめる。

「お互いに頑張ろうね。私たちなら、絶対に叶えられるから」

 そう魔法使いは口にした。

 初めて、彼女が口にした夢が叶わなければいいと思った。

 

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