Ⅱ
四限終わり、チャイムの音が鳴ると視界の端で優実のシルエットが動いた。俺は地理の教科書と資料集を素早く机の中に詰め込んで、私服しか入っていない最大限減量したカバンを肩に背負い、いち早く校門を目指す。修に「デートか?」と軽くいじられて、頷きながら手を振ってその場を去る。
放課後が楽しみでふわふわしていたせいで、授業の内容はまったく耳に入らなかった。それは、優実もまるで同じように見えた。小走りで着いた校門の脇に生えるクスノキの陰には、「遅いよ!」と頬を膨らませる優実がいた。あれだけ急いだつもりだったのに、なぜか俺は彼女に追いつけない。
高校の前にあるバス停から天文館前まで、バスに揺られること四十五分かかる。普段の授業一限分にも匹敵する退屈に思える時間も、彼女と話をしていれば一瞬で過ぎる。運転席のモニターに表示される停留所の名前が、光の速さで移り変わっていく。
『次は終点、天文館前です』
運転手のアナウンスに思わず顔を見合わせて、揃って車窓から顔を出した。気づけば、ぬるい潮風が俺たちを歓迎してくれていた。
「とりあえず、公衆トイレで着替えてから、集合ね」
大急ぎでTシャツに着替えて、ウキウキしながら外に出る。壁の前に、オフショルダーのワンピースを身にまとった優実がいた。制服じゃないだけで、なんだかやたら大人びて見える。露出された肌を見ていると、なんだかやましいことばかりが頭に浮かんできてしまう。
「あ、今エロい目で見たでしょ?」
「いや、見てないから! マジで!」
「ムキになってるの、余計に怪しいよ」
照れ隠しのつもりで彼女の手のひらをずいと掴むと、ぎゅっと握り返される。照れくさくて顔を見られなかったけど、隣にはいたずらな笑みを浮かべる優実がいる気がした。
優実が行きたいと言っていたレトロな喫茶店で、優雅なランチタイムを過ごす。丁寧に切り揃えられたハムと卵のサンドウィッチと、アイスのカフェオレが丸いテーブルに運ばれてくると、優実はうっとりとしながらカメラロールに収めた。俺は、そんな優実を納得がいくまでカメラロールに収める。
「どう? 美味しい?」
視線で優実が尋ねてくる。
「うん、美味しい。雰囲気もいいし、大人って感じがする」
「気に入ってくれたならよかった。ここには、絶対タケヒロと来たかったんだ」
優実は一人前のサンドウィッチをぺろりと平らげてから、満足げに言う。俺はすました顔でカフェオレをすすりながら、また新たに彼女の思い出の一つになれたことを自覚し、心の中でガッツポーズした。
喫茶店を出ると、肌が強い陽気に包まれる。額に滲む汗を、腕で拭ってはごまかす。長袖のワイシャツだったらもっと湿気が鬱陶しかっただろうから、着替えてよかった。
水族館に入ると、館内は水生生物の住む環境に合わせて、暑すぎず寒すぎずのちょうどいい気温を保っていた。ブラックライトを当てると青色に浮かび上がるスタンプを、入館証の代わりに手の甲にスタッフに押してもらう。
「私のスタンプ、クラゲのマークだった。クラゲだよ。やったね」
連呼する彼女を全力でスルーする。俺の手の甲に押されたのは、チンアナゴだった。
館内を、列に沿うようにして歩く。近海で生きる深海魚や貝類たちが、水槽の中を自由に泳ぎ回っている。へえ、とかふうん、なんて、解説を見ながら分かったふりをして頷く。時折、うひゃあと声を上げる優実の視線の先には、毒々しい色をしたカエルがいた。
特設会場にたどり着くと、いくつもの円柱状のガラスの水槽が凝った照明にライトアップされていた。光を受けた無数のクラゲが、踊るようにふわふわと水中を浮いている。声を失ってしまうほど美しい。ふとガラスに触れてみると、無機質なひんやりとした温度が伝わってくる。
優実は鋭い目つきで、水槽の中をじっと覗き込んでいた。
「クラゲってさ、種類によっては、何十年も何百年も生きるらしいよ」
「へえ、そうなんだ?」
優実の言葉の続きに、そっと聞き耳を立てる。
「厳密に言うと、自分自身のクローンを作り続けられるから、実質的には不死身なんだって。だからたぶん、ここにいるクラゲたちって、一生死なない子もいるんだよ」
「マジ? すごいな、かなり羨ましいかも」
水槽の中をたゆたうクラゲを見つめる。意思を持たない触手が、照明とともにゆらめいている。不老不死とか、夢みたいだ。
「そんなに羨ましいことなのかな?」
静かに反発するように、俺にだけ聞こえる声で優実はつぶやいた。
「波に逆らうこともせず、何十年か何百年、下手したら永遠にただずっと同じ場所を漂って。それって、本当に幸せなことなのかな」
彼女の言葉の真意が分からず、ただ黙っていた。優実は誰に言い聞かせるわけでもなく、言葉を紡ぐ。
「私は、寿命が決まっていていいから、その短い人生の中で一生懸命生きたいけどな。広い世界を知って、そこで誰よりも輝きたい」
クラゲは、この水槽の中で、水族館がある間は永遠に生き続ける。それはそれで、ある意味で幸せなことなんじゃないかと俺は思ってしまう。居場所があって、その環境に自分が満足している。それは、間違いなく恵まれていることだ。
でも、優実は違うのかもしれない。クラゲにどんな思いを馳せているのか、彼女の横顔は今にも言葉にしなくてはいけない何かを必死に押し留めているようで、心臓が不穏に脈を打った。
水族館を後にして、商店街に戻る。弱まった日差しに、手のひらで傘を作ればなんとか抵抗することができる。そろそろ日傘を買わないと、この国では生きていけない気がする。
特設展示を見終えた後、シャチやイルカなど大きな生き物たちとガラス越しに出会うたび、優実はそれはもう子供みたいにはしゃいだ。言いようのない妙な空気は立ち消えて、俺もほっと胸をなで下ろしていた。
優実たっての提案で、クラゲのキーホルダーをUFOキャッチャーで二つ取り、一つずつカバンに付けた。合計で千八百円ほどかかって、結果的にお土産屋さんで買うよりも高くついてしまったけれど、「この思い出も含めたら、安いくらいじゃない?」と彼女が言うものだから、それだけで俺は途方もなく舞い上がり、また彼女の魔法にかかってしまったみたいだった。
優実が電話で話していたやりたいことリストを思い出す。喫茶店に水族館、UFOキャッチャー。彼女が口にしたことはやはり現実になって、何よりも楽しい記憶として刻まれる。
「この後どうしようね?」
帰りたくないけど、その代案を提示できないまま、委ねるようにつぶやく。気づけば、商店街の中でも人の少ない通りまで歩いて来ていた。
「カラオケは近くにあるけど、この前行ったばかりだし」
「うん。こんな楽しかったのに、ファミレスで締めるのも、なんだか味気ない」
左腕に装着した腕時計は、早いもので十八時前を示していた。くたくたになるまで遊んだのに、いつもの放課後と同じ時間をさしていて、まだ夜は始まってもいなかった。
「今の私たち、高校生に見えるのかな」
優実は、俺のTシャツを見ながらぼそっとこぼす。いつもの彼女らしくない、消え入りそうな声で。
「どういう意味?」
「私たち、平日なのに制服も着てないし。なんなら、ちょっとおしゃれしてるし、高校生に見えないかもなあ? と思って」
たしかにそうかもしれない。もしかしたら、県外から来た大学生のカップルくらいには見えるかもしれない。
……だから、なんなんだろう。返すべき適切な言葉を探していたら、優実が上目遣いで俺を見て、今度ははっきりと口にした。
「だからね。ラブホテル、入ってみない?」
「ラブ、ホテル?」
あまりにも予想外で刺激的な提案に、言葉に詰まる。見上げてみると、やたら明るい電飾で装ったビルが並んでいて、またたじろいでしまう。
「うん、ラブホテル。実はね、私服持っていこうって提案したのも、そうすれば自然に入れるかなあ、なんて考えて。言ったの」
策士だ。彼女の発する言葉には、全て意味がある。
「……高校生だって、バレないかな?」
「バレないよ。絶対、バレない」
優実が言うんだからバレないに決まっている。それよりも、まだまだ優実と一緒にいられる。近い距離でいられる。優実のことを独占できる。いろんな下心で頭がいっぱいになって、胸が詰まった。優実のうなじが夕方の陽に焼けて桃色に染まっている。
「トラウマも君を好きだった輝き」は全3回で連日公開予定