それからは混乱の極みだった。
救急車にサヨコと美衣奈が乗って行った後、到着した警官に伏野は逮捕され、連行されていった。刑事がふたり、現場検証にやってきた。一人は若く、一人は年配の男だ。俺はサヨコの病状が心配で立ち寄ったところに事件に出くわしたことにする。まさかてんとう虫になってソファの陰に隠れていたとは言えない。
刑事たちは美衣奈に話を聞くため、その足で病院に向かった。俺も一緒だ。
サヨコは集中治療室に入っており、待合所に美衣奈が座っていた。
だが、話ができる状態ではなかった。顔は真っ青で、ぶるぶると震えている。刑事たちはあきらめ、また後日来ると言って帰った。俺を見ると美衣奈はすがりついてきた。
「イナリさん、どうしよう!? お母さんが死んじゃったら。私のせい、私の……」
「おぬしのせいではない、大丈夫だ」
俺は美衣奈の肩をさすってやった。人間はこうして相手を励ます。
サヨコは生死の淵をさまよい、一日が経った。
美衣奈はサヨコに付き添い、帰ろうとしなかった。待合所で座ったまま一睡もしない。俺は毎日病院に通い、美衣奈と交代でサヨコに付き添うことにした。
担当の若い女性看護師は、俺たちを娘夫婦とでも思っているようだった。
「待合所は寒いでしょう。これ、よかったら使ってください」
そう言ってピンク色の毛布を貸してくれた。
神社に戻ると、狐はしっぽを左右にぱたぱたと気ぜわしく動かして文句を言った。
「いったい、何をしているんです? 誉人の願いとはまったく関係がないことを」
「俺がいなければあの娘は倒れてしまう」
「このままサヨコが死ななければ、願いを叶えたことにはなりませんぞ。どうなさるおつもりですか」
「大丈夫だ。案ずるな」
翌日、その時がきた。
昼頃のことだ。俺と美衣奈は集中治療室の前にいた。急に医師や看護師の出入りが激しくなる。美衣奈が心配そうに腰を浮かせた。治療室は、いくつもの個室がある。
「まさか、お母さんじゃないよね?」
しかし、しばらく後に担当の若い看護師が俺たちを呼びに来た。
病室にはぐったりと青い顔のサヨコが横たわっている。その脇に立った中年の医師もまた、沈んだ面持ちだった。
「さきほど、心肺停止に。最善は尽くしましたが残念ながら」
「……うそ」
美衣奈からため息ほどに小さな声がでた。
医師が瞳孔や脈を確認し、臨終の時間を告げる。
美衣奈がサヨコにすがりつくようにして崩れ落ち、すすり泣く。担当の看護師が、一礼をして出て行こうとするのを、俺は引き留めた。
「すまないが、一時間ほどこのままにしてもらえないだろうか。美衣奈は母親に三年ぶりに会ったんだ。お別れの時間を取りたい」
若い看護師は悲痛な面持ちになる。
「分かりました。申し訳ないですが、私はじきに交代の時間です。代わりの看護師に引き継いでおきます」
俺はそれを聞くと、急いで病院からタクシーに乗りサヨコの家に向かった。
サヨコの家は封鎖されていたが、もう人影はない。タクシーを待たせたまま、敷地の中に入った。門に張られたロープをくぐり、俺は母屋の裏にある蔵に向かう。
蔵の真ん中に布団が敷いてあるのが見えた。小さな窓から、ほこりっぽい陽の光がさしている。
俺は、布団で眠っているサヨコを見下ろした。
陽の光を浴びてすやすやと彼女は眠り込んでいた。
伏野の家で「明日、百瀬サヨコを刺し殺すように」とどうしても俺は唱えられなかった。サヨコを殺されたくなかった。そこで俺はある事を思い付き、その足でサヨコの家に向かったのだ。一階の寝室で眠っているサヨコの枕元に立つとこう唱えた。
「三日三晩、眠り続けなさい」
家の中は警察が入って来るのでまずいと思い、サヨコを布団ごと蔵に移した。本物のサヨコはずっとここに居た。
俺はサヨコを抱えタクシーに乗り込んだ。
「病院に戻ってくれ」
「具合が悪いんですか、その人。救急車じゃなくていいんですか」
運転手が怪訝そうに聞く。
「大丈夫だ。ただ眠り続けているだけだから」
病院に着くと、運転手に運賃とチップをはずむ。眠り続けるサヨコを車いすに乗せ、マスクをつけて帽子を目深にかぶせる。最後に病院で借りたピンクの毛布を体にかける。これで本人とは分からない。
タクシーが行った後、俺はサヨコの親切な担当看護師の顔と服装に化けた。すると本物が私服で病院内から出てくる。ぎょっとして顔を伏せた。気が付かれなかったようだ。
俺は車いすを押してサヨコの病室まで上った。車いすに乗ったサヨコを病室の外の見えにくい場所に隠す。美衣奈はまだベッドの脇で呆然としていた。俺はその背中に声をかける。
「伏野さん。担当医が呼んでいます」
「え? こんな時に。後にしてもらえませんか」
「でも緊急だそうで。別館の五階にある診察室でお待ちですよ」
美衣奈はしぶしぶ立ち上がり、病室を出ていく。入れ替わりに俺は病室に車いすを運び込み、ドアを閉めた。
ベッドの上のサヨコに、「おい、もういいぞ」と声をかけた。
偽サヨコはぱっちりと目を開け、起き上がってのびをした。
「ああ、もう疲れた。刺される位のことされると、多少は痛いんだからね。それに心肺停止させるなんて、人間の体でやるのはしんどいんだから。まったく」
弁財天は不服そうに訴えた。もう姿は変わっている。黒髪のおかっぱ頭、白い小袖に赤い袴。あどけない少女の顔だが、この世のものとは思えぬ美しさだ。これが弁財天の本来の姿。
「しかし、サヨコの真似がすこぶる上手かったな。伏野を挑発するところは、本物と思い込んでしまうほどだった」
「私はいつでも完璧だからね。美衣奈が家に来たときは焦ったけど」
「刺された後、これでいいのよ、とか言ってたな」
「サヨコの話を聞いて、そういうこと言いそうだったから。私はあなたより人間のプロフェッショナルだからね。まあ、これでかっぱえびせんの借りはちゃらってことで」
「悪いんだが、時間がないんでそこどいてくれ」
「はいはい。まったく人使い? 神使い? が荒いんだから」
弁財天はつかつかと窓に近づくと勢いよく開け、そこから身を乗り出した。手品のように白鳩へと変わり、そのまま空に飛んで行く。
俺は車いすからサヨコを降ろし、ベッドに横たえた。サヨコはまったく起きない。しかし、今日の晩で三晩めだから、明日の朝には目を覚ますはずだ。
俺は看護師姿から「ヘルパーイナリ」へと戻る。
病室のドアが開き、美衣奈が首をかしげながら入ってきた。
「イナリさん?」
「大変だ!」
それを遮って俺は叫んだ。
「サヨコが息を吹き返した!」
翌朝、病室にやってきたサヨコの担当医は、ベッドの上に半身を起こしたサヨコを見て呆然と立ちすくんだ。その後自分の誤診を平謝りに謝ったが、病室を出た後の後ろ姿を見ると、しきりに首をかしげている。昨日の昼にサヨコを病院に運んだあと、夜はこの医師の枕元に立ち百瀬サヨコに膵臓がん以外の診察をしないようにと唱えた。今のサヨコに傷がないことがバレないようにだ。
当たり前だが、サヨコは刺された時のことをまったく覚えていなかった。三日前に眠り、気が付いたらここにいたと本人は主張する。これは強いショックで部分的に記憶がなくなる「解離性健忘」だと診断された。
不可思議な出来事には名前をつけないと不安な種族のようである。自分たちの理解を超えると、管理できなくて怖いのだろう。
サヨコは不思議そうに、自分の腹に何重にも巻かれた包帯をなぜた。俺があらかじめ、弁財天と同じように腹に巻いておいたのだ。
サヨコはこの日の昼には集中治療室から高度治療もできる病棟へと移った。息を吹き返したとはいえ、周囲から見れば刺し傷を負った重症患者であることに変わりはない。実際、末期がんを患うサヨコはひどく弱っている。美衣奈がサヨコに付き添い、俺もついていった。
美衣奈はベッドに横たわっているサヨコの手を取って言った。
「お母さん、ごめんなさい。私のせいでこんな危ない目に遭わせて」
サヨコは三年ぶりに見る娘の顔をじっと見つめた。涙ぐんだ瞬間、斜め上を向いてそれをひっこめた。
「謝ることはないよ。私が伏野を呼んだの。だからあんたは何も悪くない」
「お母さんが、伏野を……? 何でそんなことを」
「あの男はすぐ逆上するだろう? 私を傷つけさせれば、刑務所に送れると思ってさ」
「えっ。何考えてんのお母さん。危うく死んじゃうところだったんだよ!」
真剣な顔で怒る美衣奈に、サヨコはおどけて言った。
「だって、せっかく死にかけてるんだから、有効活用しなきゃ損だろ?」
「何よ、それ。リサイクルじゃあるまいし」
おどけた表情をし続けるサヨコを見て、美衣奈は泣き笑いの表情になった。
「危ない目には遭って欲しくなかったけど、でも、ありがとう」
泣き笑いが泣き顔になる。
「お母さんが私を思ってくれているって、守ろうとしてくれているって、ずっと分かってた。でも自分を認めさせたいとか意地になってたんだ。ごめんね、お母さん」
サヨコはまた涙がにじんできたのか、斜め上をしばらく見てから美衣奈に向き直る。
「謝るのは私の方だ。病気になってからさ、小さな幸せを見つけるのがうまくなってね。今は何を見てもいいなあって心から思えるんだよ。当たり前の景色は、本当は当たり前じゃなかったんだね。でもね、遅すぎた。気が付くのが遅すぎたよ。
昔、俳優のまねっこをしてただろ。あんたは楽しそうな顔をしてた。それを見られるだけで私は十分幸せだったのに。そんなことにも気付かず、一人親は駄目だとか可哀そうとか言われたくなくって、あんたに無理をさせちまった」
ベッドの上で半身を折るように頭を下げるサヨコを見て、美衣奈の大きな目から涙がこぼれ落ちた。少し離れた場所で聞いていた俺は言った。
「別に遅くはないだろう。死ぬ前に気が付いたんだ」
二人はあっけに取られてこちらを見た。美衣奈がサヨコに向き直る。
「イナリさんの言う通りだよ、お母さん」
涙声で言う美衣奈に、サヨコは小さく笑った。
「そうだね。一人の方が気楽だなんて思いこもうとしてた時もあった。でも、美衣奈の顔が見られたのが、何よりも嬉しかったよ。生きててよかった。美衣奈に会えてよかった」
サヨコが美衣奈の頭にそっと手をのせた。
俺は離れた場所でそれを見ていた。つまらぬ意地の張り合いで、大切なことを見失う。やはり人間は愚かだ。しかし、悔い改める賢さもある。
俺は少しだけ人間について学んだ。
ベッドで固く手を取り合うふたりの姿を見ていたら、胸が締めつけられるように苦しくなった。何だろう。しばらくしたらそれは消えてなくなった。疲れていたのだろうか。
看病は俺と美衣奈で交代ですることにした。夜の間は美衣奈を別室の患者家族用ベッドで休ませ、俺がサヨコに付き添った。そうして数日が経った夜中、サヨコが目を覚ました。
「起きたのか」
「ああ、イナリさん。悪いね、家族でもないのに付き添ってもらっちゃって」
「いいんだ。俺がそうしたい。サヨコは好きなものリストに入っているからな」
「面白い人だねえ」
サヨコが笑った。その声には力がない。
「早く病院から出て、また好きなものを探しに行こう。餃子を一緒に作って食べよう」
「イナリさん。私、もうすぐ死ぬみたい。何だか分かるんだ」
「そんなこと言うな。俺がせっかく」
せっかく助けてやったのに、という言葉を飲み込む。
「湿っぽいのは苦手だけどさ、お礼を言わせて。本当にありがとう。死ぬ前にあなたみたいな人に出会えたこと、神様に感謝しなくちゃね」
「お礼はいいから、もう少し長く生きろ。そうじゃないと俺は……さみしい」
三百年で初めて使う言葉を口にした。使い方が合っているのかどうか分からない。
ただ何かが自分から零れて穴が開くような、暗い場所へ転がり落ちていくような気持ちが波のように押し寄せる。これはおそらく、人間の言うさみしいという感情なのではないだろうか。
サヨコに会って初めて、人と話していて面白いと思えた。下界にもたくさんの好ましいもの、善きものがあると知った。世界を見る目が変わった。
もっともっと、サヨコと話したいことがある。教えてほしいことがある。
「だから死ぬな」
俺がそう言っても、サヨコは困ったようにほほえむばかりだった。
そして、最後に頼まれてくれないか、と俺にそっとささやいた。
その翌日、サヨコは息を引き取った。「生き返り」からたったの六日後だった。
人の生き死には、神ですらどうしようもない。
「危うかったですが誉人の願いを叶えました。これで稲荷神様の神の資格も剥奪されず、私の身分もとりあえず安泰」
狐は上機嫌でしっぽを振った。
俺は神社の本殿で、長い手紙に筆で今回の誉人の顛末を書いた。もちろん、弁財天が偽サヨコを演じていたのは秘密だ。狐は口で折り畳んだ手紙をくわえた。
「これを大神様のもとへ。頼んだぞ」
狐は頷き、神木のうろの中へと消えた。そこは使者だけが通ることができる、天界への通り道だ。俺も通ることはできない。
がらんとしたサヨコの家で、俺は美衣奈と待ち合わせをした。
リビングに大きなテーブルを持ち込んだ。その上に、餃子の材料を並べる。暖かな日差しがたっぷりと差し込んで部屋は明るい。
「ひき肉をよく練っておくのがポイントなんだ。ああ、キャベツの切り方はそうじゃない。もっと大きめにしないと、食感が残らない」
俺はきびきびと美衣奈に教える。
「分かってるけど、できないの」
美衣奈は手と顔を刻んだ野菜まみれにしながら、ふくれっつらになる。
サヨコの最期の願いは、美衣奈に餃子のレシピを伝えてほしい、ということだった。
「ねえ、今日作った餃子は冷凍しておこう。最後にお母さんが作ってくれた餃子が冷凍庫にあるんでしょ。それを焼いて食べよう」
美衣奈が提案し、餃子を一緒に食べた。美衣奈は一口食べて箸を置く。
「どうした。まずいのか」
「逆だよ。すごく美味しい。お母さんの作る餃子が一番好き。お母さん、こんなに手間をかけて作ってくれていたんだね。知らなかったよ」
美衣奈が涙ぐんだ。
「よかったな」
「え?」
「お互い、相手は会いたくないんだろうと思ったまま別れなくて、よかったな」
「……うん」
それから俺たちは、餃子を全部平らげた。
狐が手紙をくわえて帰ってきた。大神様からのお返事に違いなかった。
俺は本殿に正座する。狐はうやうやしく巻物を床に広げると、大神様からのお返事を読み上げた。
「このたびの誉人の願い、まことに奇妙なものながら、人間の機微を学ぶことができる貴重な事象であった」
俺は頷きながら拝聴する。続けて読もうとする狐の顔が少し曇った。
「しかしながら、人間が一度死んで生き返るのは人の世の理に背くことなり。何らかの不自然が働いていることは自明。よって、願いを叶えたとは言い難く……」
狐はさらに険しい顔になり、声が震えた。
「このたびの願いは不可とする。ただし稲荷神の働きめざましく、感ずるところあり。よって神として今後も励むべし」
読み終わった途端、狐が俺を睨んだ。俺は素知らぬ顔でつぶやく。
「不可であったが神の資格の剥奪はまぬがれた。よかったよかった」
「私を騙したのですね。なんですか、不自然って」
「それは、弁財天が……。かっぱえびせんをあげたら、やってくれるって」
ウウッと獣の声で狐はうめき、俺の腕にかみついた。狐にかまれると、けっこう痛い。
伏野には拘禁二十年の実刑判決が言い渡された。
サヨコの亡くなった日の夜、俺は再び担当医の枕元に立ち「百瀬サヨコの死因は刺傷による他殺であると死亡診断書に記入し、裁判でも同様の証言をせよ」と唱えた。サヨコの本当の死因は病死なので念を入れたのだ。伏野が自分の意志でサヨコを刺し殺そうとし、実際に刺したのだから罪に問われるべきだろう。弁財天が身代わりでなければ、サヨコは確実に殺されていた。
美衣奈を執拗に付け回していたことや、ナイフを持ってきていた計画性、反省の様子がないなどの理由で重い量刑となった。伏野が美衣奈に暴力をふるっていたため、服役中に美衣奈との離婚も認められて成立した。もし釈放された後も美衣奈を狙うなら俺が守ってやるしかない。しかし伏野が獄中で反省の言葉を言い始めたと耳にした。人間は矛盾のかたまりのようなもの。もしかしたらあのろくでなしも悔い改めるかもしれぬ。
俺は本殿で願い帖を開き、筆で百瀬サヨコと書いた。その下にバツ印をつけて大きなため息をつく。横に控えていた狐がちらりとこちらを見る。
「百人の願いを叶えるにはあと何年、いや、何百年かかるのでしょうねえ」
狐の嫌味から逃れるように、俺は本殿から外に出る。空は青く、木々はまだ紅葉には早いと見えて緑色の葉を揺らしている。甘い香りがして振り向けば、神主の植えたキンモクセイに橙色の花が咲いていた。
俺が地上で見つけた好きなもののひとつ。
──それが積み重なって、人生の幸せになるんだから。
サヨコの声がよみがえってくる。
もう少しこの地上で好きなものを探してみようか。
天界のような香りに囲まれながら、俺はそんなことを思った。
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