「と、言いますと?」
「人間が死ぬと、遺産ができるだろう。サヨコの住んでいる家には価値がなさそうだが、あの辺りの土地の値段はずいぶんするそうだ。仲違いしているとはいえ、美衣奈は娘だ。伏野に追い回される美衣奈の行く末を心配して遺産を渡したいとか」
「しかし、サヨコ殿は余命わずか。それほど急ぐ必要はないのでは」
「うかうかしていると、伏野が美衣奈を見つけ出して殺してしまうかもしれない」
「であれば、伏野を殺してくれと願うのではないでしょうか」
「狐よ、人の不幸を願うのがどうしてもできない人間もいるのだ。罪悪感というものを持つらしい。サヨコは人を殺してくれと願う類ではない。だから……」
いや、待てよ。本心では伏野を殺したいと思っているとしたら……。
俺の頭に、ある考えが浮かぶ。
「美衣奈に会って確かめたいことがある。伏野のもとから逃げたのはいつ頃か分かるか」
「伏野の話を聞いていると、一年ほど前のようです」
俺は翌日の午後、狐に聞いたシェルターの場所に出向いた。そこはごくありふれた、古いアパートだった。看板も何も出ていない。
美衣奈はこの中にいるのだろうか。一年も前という事を考えると、その可能性はうすいだろうと思う。ここはあくまで一時避難の場所だ。斡旋された場所に移っているだろう。
だが、直接聞いてももちろん教えてはもらえまい。
俺は斜め向かいの空き家らしい家に身をひそめ、様子をうかがった。しばらくすると車が止まり、中年の女性が大量の段ボールに入った食料を中へと運び込んだ。かくまっている女性たちへの支援物資だろう。
アパートのなかから一人の若い女が出てきた。
「ハザマさん、いつもありがとうございます。手伝いますよ」
「いいの、いいの。ほら、誰か見ていると困るから、安易に外に出ちゃダメ」
神主のパソコンを使って調べたところ、シェルターのホームページにはこのアパートの住所は出ていなかったが、代表者の名前は書いてあった。波佐間路子。彼女が代表者に違いない。
俺はさきほどアパートから出てきた若い女の姿に化けると、荷物を運び終わって車で帰ろうとしている波佐間の背中に声をかける。
「波佐間さん」
「だから出てきちゃダメって……」
「お願いがあるんです。以前このシェルターにいた伏野美衣奈さんの連絡先を知りませんか。ここを私に教えてくれた恩人なんですけど、せめてお礼のお手紙だけでも出したいんです」
「そうだったの……。ちょっと、待ってね」
波佐間は携帯を取り出した。
伏野美衣奈は、サヨコの家から一時間ほど電車に乗った郊外の街に住んでいた。昼間は仕事をしているかもしれないので、夜訪ねていくことにした。
二階建てのこぎれいなアパートの一室のチャイムを鳴らす。細くドアが開き、疑わし気な女の目がのぞいた。
「誰?」
俺は「ヘルパーイナリ」の姿をしている。「排水が詰まったので工事に参りました」と言葉が不自然でないよう気を付けながら嘘を言う。
「そんな工事、聞いてないけど」
「今日急にアパート全体で不具合がありまして。放っておくとトイレの水が逆流する可能性が」
いったんドアが閉じ、チェーンが外される音がしてドアが開いた。長い髪をまとめ、大きなサイズのTシャツにショートパンツをはいた若い女が現れる。その顔は伏野の家にあった写真と同じ。伏野美衣奈だった。不満げな表情だが「どうぞ」とつぶやいて俺を中に招き入れる。
俺は中に入るとすばやく目を走らせた。淡いピンクのカーテン。木目調のベッド。テーブルの上にはスマートフォンとイヤホン。こぎれいな部屋だった。ある程度普通の生活を送れているようだ。
「実は排水工事の業者ではない」
そう言うと美衣奈は呆気にとられた後、短い悲鳴を上げて後ずさった。
「しかし怪しいものではない。おぬしの母のヘルパーだ」
「ヘルパー? お母さん、そんな年じゃない。嘘言わないで」
「サヨコは重い病気にかかって余命いくばくもない」
「……え?」
美衣奈と俺は小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。熱い紅茶を淹れて俺に出す。さっきまで不審者だったのに、ずいぶん丁寧な扱いだ。やはりこの見た目が功を奏しているんだろう。
美衣奈としてはサヨコの容体を聞きたい。俺としてはサヨコがなぜ殺されたいのか探らなくてはならない。
「ねえ、あなたどうしてここが分かったの。シェルターが話すわけないし」
「たまたまだ。俺はこの近くに住んでいてあんたを見かけた。サヨコの家にある写真を見て、娘だと確信して訪ねたんだ」
「ほんとにい?」
美衣奈は疑わし気に俺を見た。
「伏野があんたを追っているみたいだが」
「どうして知ってるの。お母さんに聞いた?」
「まあ、そうだ」
「あの人、私が逃げたのに激怒しててさ。捜し回ってる。捕まったら多分私、殺される。話し合えないから離婚もできない。だからこそこそ隠れて生きて。仕事だって、接客はまずいから工場でこもりきりの仕事。私には向いてないの。最悪だよ」
「警察には言ったのか」
「あんなところ、全然あてにならない。私があいつに殴られて血を流してても、夫婦だって分かった途端帰るんだから。殺されでもしたら、まともに取り合ってくれるかもね。それよりお母さん、そんなに悪いの?」
「歩くのも辛そうだ」
「死にそうだなんて嘘でしょ。だって三年前は」
「そんなに心配なら実家に会いに行ったらどうだ」
相手は見えない弾をくらったように目を見開いた。
「私になんか、会いたくないと思うから」
俺は美衣奈を眺めた。栗色に染めた髪に白い肌。濃いメイクで隠してはいるが、まだあどけなさが残る顔立ち。丸い目は愛嬌がある。はっきりした顔立ちのサヨコには似ていないが、団子鼻がそっくりだ。親子で互いに「相手は会いたくないと思う」と言っている。おかしなものだ。
「どうしてそんな風に思う」
「私はお母さんの期待した娘とはほど遠いもん。お父さんが死んでから、お母さんは変わった。昔は私が演技のまねっこをするのを、ニコニコしながら見ていてくれたのに」
「美衣奈オンステージ」
俺が言うと、「そう、それ。懐かしい」と笑顔を見せたがすぐ消えた。
「へんに周りを気にして、無理やり勉強させたり、交遊関係に口を出したりするようになってさ。どうして親だからって私の人生に踏み込んでくるの、自分らしく生きられないのって腹が立って、ちょっと、荒れたんだよね。何回か警察にもお世話になったし。今だってお母さんが反対した相手と結婚してこんなことになってるし。お母さんの言う通り、ろくな男じゃなかったのにね。ねえ、こんな私に会いたいわけないって、思うでしょ?」
急に意見を聞かれて困ったが、とりあえず知っていることを言う。
「俺には分からないが、サヨコは娘がいなくなって、せいせいした、一人の方が気楽だと言っていた」
美衣奈は顔を赤くして急に黙り込んだ。もしかして、言ってはいけないことを伝えてしまったのだろうか。俺は慌てて付け加えた。
「でも、子どものためって言いながら、周囲に見栄を張った私も悪かったって、言っていたぞ」
「何それ、今さら……」
美衣奈は言葉を喉に詰まらせた。
「あんたはどうなんだ」
「お母さんに会いたいかどうか? 会えないでしょ……」
「合わす顔がないとか考えてる時間はないぞ。死んだらもう会えないんだから」
「そんなっ」
美衣奈が興奮して手を動かした。テーブルの上のカップが倒れ、俺の手に熱い紅茶がかかる。
「熱い」
はっきり言って熱さなど感じないが、人間らしくそうつぶやいてみる。
「うわ、ごめん。えっと、どうしたらいいんだっけ」
「氷をもらうぞ」
小さなキッチンの脇にある冷蔵庫に歩み寄り、冷凍室の引き出しを開けた。
「これは……」
小さく声が出る。
サヨコがなぜ殺されたいと思っているか、分かったからだ。
翌日、俺はサヨコを車いすに乗せて、いつもの商店街へ連れていった。
「今日はいいことがあった?」
「サヨコに会えた」
サヨコは面食らったように目を丸くしてから、「嘘でも嬉しいよ」と笑った。
「私もいいことがあったの。こないだ近所の稲荷神社にお願い事をしたんだけど、それが叶いそうなんだ」
「何を願ったんだ」
そ知らぬふりで俺は聞く。
「それは秘密。ほら、これが郵便受けに入っていたの。差出人の名前はない。でも、私の知りたいことが書いてあった」
サヨコは懐から白い封筒を取り出した。それはおそらく、狐が入れたものだろう。
俺は車いすを止めた。「イナリさん?」とサヨコが振り向く。俺はその目を見つめて、言った。
「美衣奈の居場所が分かった」
サヨコが表情をなくす。
「ここから遠くないぞ」
サヨコはゆっくりと首を横に振る。
「だって、会ってしまったら……」
その続きは言わないまま、サヨコは泣いているみたいに笑った。
サヨコの家からひとりきりで帰る途中、土手に座って夕陽を眺めた。
夕陽が川面に近づくと、溶けた鉄のように赤く燃え上がった。川のせせらぎに、鳴き始めた虫の音がまじる。土と草の青い匂いが漂う。
この景色も悪くない。俺は好きなものリストに入れると決める。
「キンモクセイ。大神様。かっぱえびせん。餃子。川のきらめき。夕陽」
少しだけ考える。
「狐? 弁財天?……サヨコ」
「私のこと、呼んだ?」
女子高生姿の弁財天が来て、俺の横に座った。
「ああ、好きなものを数えていた」
「私のとこ、疑問形だったわよね? まあいいや。それで首尾は順調なの」
「ああ。やっと誉人の願いが分かった」
「あなたにしちゃ早いんじゃない?」
「俺は間違っていた。サヨコが殺されて得をする人間を探していた。そうじゃなく、殺されて損をする人間を探すべきだったんだ」
「損する人間って?」
「サヨコを殺した犯人はどうなる」
「そりゃあ、捕まって刑務所に。あ、そうか」
「サヨコは伏野に殺されたいんだ。そして、伏野を刑務所に入れ、殺すんじゃなく社会的に抹殺しようとしているんだ。だから俺に殺されるのはだめだったんだ」
「どうせ死ぬなら、サヨコが伏野を殺してしまえばいいのに」
「そうすれば美衣奈を助けてはやれるだろうが、同時に殺人犯の娘にしてしまう。それをよしとはしないだろう。それにあの体で伏野を殺そうとしても、返り討ちに遭うのがおちだ」
「自分の死は近い。それなら、娘のために殺されても構わないってこと? でも、その親子って仲違いしてるんじゃなかったっけ」
「餃子が入ってたんだ」
「うん?」
「美衣奈の部屋の冷凍庫に、冷凍餃子が大量に入っていた」
サヨコの手作りと比べると貧弱な、出来合いの餃子だった。美衣奈は餃子が大好物らしい。好きな人にはその人が好きなものを食べさせてあげたい、とサヨコは俺に言った。俺が食べる分以上に大量の餃子をサヨコが作って冷凍している理由が分かった。
いつ娘が帰ってきても、すぐに自分の手作り餃子を食べてもらえるように。
サヨコはきっと、そう思って餃子を作り続けている。
美衣奈が親不孝だったとしても、サヨコは見放してはいない。表面上は強がっているが。
「あの親子は、本当は嫌い合ってるんじゃない。互いに相手は自分を嫌っているはずだと思っているだけだ」
「なるほどね〜。じゃあ、簡単じゃない。その伏野の枕元に立って、サヨコを殺せってささやけばいいんだもん」
「そうだな」
「浮かない顔ね」
「殺されるのは、普通の死に方じゃない。怖いし、苦しいし、痛いはずだ」
「だって、誉人がそう望んだのよ」
「誉人が本当に望んでいるのは、殺されることじゃなく美衣奈を守ることだ。伏野を刑務所に入れたいのであれば、別の罪で捕まえればいい」
弁財天は人差し指を立てて、顔の前で横に振った。
「だめよ。大神様は誉人の願いを、是非を問わず、過不足なく叶えよとおっしゃった。つまり、神社で誉人が願った通りに叶えなければルール違反」
「しかし……」
「人間に情でも移ったの? この間は、愚かだと言っていたくせに。とにかく伏野に誉人を殺させなさい。稲荷神、あなたにそれ以外の選択肢はないのよ。まさか、大神様に逆らうつもりじゃないわよね?」
弁財天が立ち去った後も、俺は暗くなっていく川面を眺めていた。
逆らったりはしない。大神様の言う事は絶対だ。サヨコの願いを叶えなければ俺は神としての資格を失うのだ。しかし。
それはサヨコとの別れを意味する。
俺のために餃子を作ってくれたサヨコ。好きなものを数えることを教えてくれたサヨコ。
俺の好きなもののひとつになった、サヨコ。
そんな人間を俺は自ら葬ろうとしている。
頭がぼうっとして息ができない。どうにかなってしまいそうだ。
これが人間が言う、辛いとか悲しいとかいう気持ちなのか。
だって、会ってしまったら……。
サヨコはそれ以上言わなかったが、会ったら別れが辛くなる、と言いたかったのではないだろうか。
今の俺がそうであるように。
月が中空に昇っている。
今宵は満月だ。月明かりが参道を白く浮かび上がらせる。夜が深まるほどに静けさは増し、鈴のような虫の音がひびく。
俺は社殿の階段に腰かけて月を眺めた。狐が隣にひらりと来る。
「サヨコは手紙を読んでくれましたか」
「ああ。自分の知りたいことが書いてあったと言っていた」
「伏野の連絡先を書いておいたんです」
狐は胸を張る。「仕事が早いでしょう?」
「サヨコは今日、さっそく伏野に電話をかけていた。俺はこっそり盗み聞きをしていたんだが、美衣奈がここにいるから、明日の午後一時に会いに来いと言っていた。夫婦の仲を取り持つようなふりをしてな。もちろんまるっきり嘘だ。伏野に自分を殺させようという魂胆だ」
「しかし、伏野は嘘をつかれていると知れば怒るでしょうが、殺したりするでしょうか」
「伏野の美衣奈に対する執着は異常だ。少し挑発すれば危害を加えてくると踏んだんだろう」
狐は上機嫌で頷いた。
「まあ、伏野がサヨコを殺さないのでは、という心配は無用でしょう。今夜、稲荷神様が伏野の枕元に立ち、サヨコを殺すよう指示なさるでしょうから」
「そうするしかないな」
俺の使命は、誉人の願いを叶えることだ。是非を問わず、過不足なく。狐は頭を垂れた。
「少し早いですが、おめでとうございます。明日はいよいよ誉人の願いが叶います。神の資格を失わないばかりか、難しい願いを叶えたと大神様の覚えもめでたいはずです」
「そうだな」
誉人だけではなく、俺の願いもまた叶うのだ。しかし、俺の心は浮き立たぬ。
「伏野がサヨコを殺しそこねないように、稲荷神様も明日はサヨコの家で控えていてくださいますように」
「分かっている」
俺は立ち上がり、稲荷神の姿のままで鳥居に向かい歩き出した。「いってらっしゃいませ」と狐が頭を垂れた。
てんとう虫に化けて伏野の家のドアの隙間から入り込むと、神の姿に戻る。転がった酒瓶につまずかぬよう気を付けながら進む。壁には美衣奈の写真が何十枚も貼ってある。そのすべてに、金色の画鋲が刺してある。
伏野はだらしなく布団でいびきをかいていた。
俺は枕元に正座して坐り、その額に指をあてた。
「お前は明日、百瀬サヨコを……」
言いながら、サヨコの顔が浮かんだ。川面のきらめきにはしゃいでいる顔。娘と会わぬと決めて泣いているように笑っている顔。俺が好きなものに数えた、いくつものサヨコ。
やがて俺は立ち上がり、伏野の部屋を出た。
夜の街は静まりかえり、星だけが冷たく光っていた。その中を俺は足早に歩いて行った。
翌日の午後一時。
伏野はサヨコの家にやってきた。
荒々しくドアを開ける伏野とともに、俺は家の中に入る。
強烈な煙草の匂いが玄関に満ちる。伏野の羽織っているジャンパーは、ベージュだったものが今ではグレーに見えるほど薄汚れている。目は血走り、無精ひげが灰色の顔にまだらに散っていた。元の顔立ちは悪くないのだろうが、怒りと憎しみが無残にその面影を消し去っていた。
「ああ? なんだ、てんとう虫か」
伏野はうるさそうに俺を手で払おうとする。慌てて俺ははばたく。神をはたき落とそうとは、罰当たりな奴め。
サヨコには今日はヘルパーに来なくていいと言い含められていた。だが、てんとう虫の姿で来ないでくれとは言われていない。
「美衣奈、おい! どこにいるんだ」
伏野はリビングダイニングに通じるドアを開けた。俺も一緒に入り、ソファの物陰に止まる。
サヨコはリビングの真ん中に立っていた。向こうが透けそうなほど白い顔をしている。だがまなじりだけは決して、こちらを睨んでいた。
「おい、ばあさん。美衣奈はどこだ」
伏野は声を張り上げた。
「ぎゃんぎゃん、うるさい男だね。聞こえてるよ」
サヨコは顔にしわを寄せる。
「上か? 二階にいるのか」
踵を返し、部屋から出て行こうとする伏野の背に、サヨコは冷たい声を投げた。
「いないよ、美衣奈は」
振り返った伏野の目が、赤々と燃えている。
「騙しやがったな」
「あんたに比べればマシだろうよ。娘はあんたといれば幸せになれると思って付いて行ったのに、殴られてめちゃくちゃにされてさ」
「言えよ。知ってるんだろ、どこにいるか」
「知ってても言うもんか」
伏野はジャンパーの懐から飛び出しナイフを出した。柄から刃を出すと、そこにサヨコの姿が映った。
「言わねえと、ぶっ殺すぞ」
「やれるもんなら、やってみな」
挑発するように、サヨコは体をのけぞらせた。
「あんたなんて、口だけだろ、どうせ」
サヨコはくるりと伏野に向かって背を向ける。
俺は息をのんだ。
隙だらけだ。
いや、隙を作っているんだ。わざと。
「自分に自信がないから、暴力で従わせようとする、サイテーの人間がやる……」
サヨコの言葉を、伏野のわあとも、おおとも聞こえる咆哮が消した。同時にサヨコの背に向かいナイフを振りかぶる。
まさにその刃先が届こうとした時。
玄関でチャイムが鳴った。
伏野が手を止めた。サヨコが振り返り、顔をこわばらせた。
インターホンの画面に映っているのは美衣奈だった。
心の中で舌打ちする。確かに、母親に会いに行ってやれと助言したのは俺だ。しかしタイミングが悪すぎる。
画面の中の美衣奈は首をかしげ、玄関ドアを開けた。さっき伏野が入った時、鍵を閉めていなかったのだ。
伏野がナイフを右手に持ったまま、ゆっくりと玄関に向かう。
「やめてっ」
サヨコが伏野の足に取りついた。次の瞬間サヨコは突き飛ばされ、リビングの床に転がっていた。伏野が床を踏み鳴らしながら、リビングのドアから出ていく。その風圧で俺はソファから転がり落ち、そのまま「ヘルパーイナリ」の姿に変わった。
俺も慌てて廊下に走り出る。目に映ったのは、仁王立ちした伏野の背と、その向こう側で玄関ドアにへばりつくようにしてこちらを向いて立つ美衣奈の姿だった。
「なん、で」
か細い声が喉からこぼれた。
美衣奈は体が震え、ドアに寄りかからなければ崩れ落ちそうだ。まるで動けない。
「言っただろ。俺はお前をどこまでも追いかけるって。許さねえ。絶対許さねえ。俺から逃げたらどうなるか、思い知らせてやる!」
伏野がナイフを振り上げて大股で美衣奈に近づいた。
まずい。
俺は伏野に駆け寄ろうとした。
と、俺の脇を疾風が通った。サヨコだった。
伏野と美衣奈の間にすばやくその身を滑り込ませる。
勢いのついた伏野は、そのままサヨコの腹にナイフを深々と刺した。血が噴き出て、伏野のジャンパーが赤く染まる。美衣奈の甲高い悲鳴が響いた。
俺は伏野の右腕に蹴りをくらわせ、ナイフを蹴り飛ばした。続いて左腕を奴の顎の下から突き出す。どうと音を立てて後ろ向きに伏野が倒れる。
「お母さん! いやああ」
美衣奈は倒れたサヨコを膝の上に抱くようにして叫んだ。サヨコは片手を美衣奈の頬にのばす。
「これでいいのよ」
俺は伏野に馬乗りになり、何発か顔を殴りつけた。奴が意識朦朧となったところで、美衣奈に向かって叫ぶ。
「救急車! 警察!」
美衣奈は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、鞄から携帯電話を取り出し電話をかけた。
俺は玄関にあったビニール紐で伏野の腕と足を縛り上げる。その間にも、サヨコの血が玄関に広がっていく。
救急車のサイレンが近づいてきた。
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