近年、人気が高まりつつある「競技かるた」。その世界をモチーフに描かれた本作の主人公は、40歳を迎える女性です。妻であり母でもある彼女が「趣味」を優先することへの罪悪感や葛藤と向き合いながら、自らの可能性と家族の新しい形を見つめていきます。
スポーツの躍動感、夫婦の絆や母子の関係を丁寧に描いた、魅力あふれる物語です。
「小説推理」2025年12月号に掲載されたライター・瀧井朝世さんのレビューで『今を春べと』の読みどころをご紹介します。


■『今を春べと』奥田亜希子 /瀧井朝世 [評]
母親だって趣味を持ちたい。競技かるたの奥深さに目覚めた女性と、その家族の成長物語
〈なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな〉
競技かるたでは競技開始前に、この和歌を序歌として読むルールがある。冬を越えていよいよ春が来たと花が咲く様子を詠んでいる。奥田亜希子の『今を春べと』は39歳で競技かるたに出会った希海という一人の女性と、その家族の物語だ。かるたに限らず、大人になってから夢中になれるものを見つけた人には刺さる部分がたくさんあるだろう。
希海は幼稚園の保護者仲間に誘われ、息子の郁登を連れて子ども向けのかるた教室に参加する。郁登はたちまちかるたに夢中になり、夫の勇助が無関心ななか、教室に通い、家でも二人で練習を始め、希海自身も百首を覚えていく。が、小学生になると郁登はサッカーに夢中になり、今度はサッカー経験者の夫が張り切りだす。かるたの楽しさや歌の面白さが忘れられない希海は、躊躇した末に、大人のかるた会に入会。そして会の主催者に後押しされ、D級を目指すことを決意。だが、そこに妻として母としての壁が立ちはだかる。
上手い下手は別として、かるたは老若男女が参加しやすい競技だ(参加費の安さに驚く)。和歌の意味の奥深さ、ルールや戦術など、競技の面白さが描かれるのはもちろんだが、奥田作品だけに純粋なスポーツ小説とはまたちょっと違う。
新たなことを始める時の、家族は了解してくれるかという不安、趣味を優先する罪悪感、スケジュール調整の難しさ、子どもと趣味を共有できないことや家族が無関心なことの寂しさ。その葛藤が詰まっている。作中、希海がパート仲間で法学部の大学生に、「趣味って……人権かな?」と聞く場面にはっとする。
物語のなかで、やがて本作のタイトルが、何かをやろうとする人の背中を強く後押しする言葉へと変化していく。希海はかるた競技者として、勇助と夫婦として、どんな成長を遂げていくのか。エピローグを読んで熱いものがこみあげた。