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1.

 

 アントスの町からどれくらい来たのでしょうか。赤ずきんはぐうぐう鳴るお腹を押さえながら、細い道を歩いています。

 左側は森の中を下っていく斜面。右側には背の低い木が無数に植えられています。きっと果樹園なのでしょうが、木に咲いている白い花は花びらが尖っていて、何の実をつけるのか見当もつきません。

 一人の老人が、腰に下げた瓶の中の液体に筆をつけては、その花びらにぺたぺたと塗っていました。

「おじいさん、何をしているの?」

「ドクロ梨の花びらにオリーブオイルを塗っているのさ。こうすると、ほんのり甘い香りが生まれて蛾が寄ってくる。やつらの羽ばたきでめしべに花粉がついて、うまいドクロ梨が生るっていうわけだ」

 赤ずきんは鼻から息を吸い込みました。

「甘い香りですって? 何の匂いもしないけど」

「蛾は感じることができるんだ。人間でも、すごーく鼻のいい者なら感じる」

「ふーん。ところでおじいさん、私は今、すごくお腹がすいてるの。何か食べ物を持っていない?」

「去年のドクロ梨でよかったらやるよ。だいぶ水気はなくなっちまったが、まだまだ美味く食えるはずさ」

 おじいさんは籠の中から、リンゴくらいの大きさの白い実を取りだします。しゃれこうべのような、不気味な見た目をしていました。

「それ、本当に美味しいの?」

「美味いんだよ、ほら」

 おじいさんが白い実をぽーんと投げます。赤ずきんは受け取り損ねてしまいました。

「あっ!」

 森の斜面を、ドクロ梨がころころと転がります。

「待って」

 呼び止めたところで聞いてくれるはずもなく、ドクロ梨はころころころころと、勢いを増していきます。

「待ってって!」

 赤ずきんは木々のあいだを急いで追いかけますが、追いつけません。そしてよくないことに、ドクロ梨の転がる先に、池の水面が見えました。このままではせっかくのドクロ梨が池の中に……

「あーっ!」

 すると、ドクロ梨はぴたりと池のほとりで止まったのです。

「あー、よかった!」

 赤ずきんは拾い、さっそくかぶりつきました。甘い汁が口の中に広がりますが、がりっと何かをかみました。口から出してみると、ごつごつした石のような種です。

「美味しい、けど……種が大きいわね」

 そのときでした。ぴゅるるると赤ずきんの頭の上を何かが通り過ぎていきました。

 ぼしゃん、とそれは池の中に落ち、沈んでいきます。

「あー、おおおお、あああ、おおお」

 うろたえたような声を上げながら、茂みの中から男が飛び出してきました。ずんぐりした体に太い腕と足。薄汚れたシャツに緑色のチョッキを羽織っています。

「あああ、おおお!」

 三十歳にはなっていないようですが、髪の毛はけっこう薄くなっています。男はその髪の毛を掻きむしりながら、しばらくあたふたしていましたが、やがて赤ずきんに気づきました。

「おお、今、俺の斧が池に落ちたよね?」

「斧……かどうかよくわからないけど、たしかに何かが落ちていったわ」

「おお、うう、うおおお……」

 赤ずきんの言葉を受け、男は焦った様子でその場を行ったり来たりしました。

「困った。手がすべって飛んでしまった。あれがないと俺は仕事ができない。借金も返せない。袋叩きだ。逆さ吊りだ。爪を剥がされる。あーおおお!」

 どうやら、木こりのようです。仕事道具の斧を池に落としてしまったというのでしょう。お気の毒だけど、私には何もできないわ——と思っていると、ぴかーっ、と池が光りました。

「わっ」「えっ?」

 男がぴたりと動きを止め、赤ずきんも池のほうを見ます。

 走れば二、三分で一周できそうなくらいの大きさの池です。その中央に光の柱が出現したかと思うと、光は人の形になっていきました。

 気づけば水面に、腰まで髪を伸ばした美しい女性が立っていました。ゆったりとした白い服を着て、そよ風のように安らかに微笑んでいるのです。

「私はこの池の女神です。あなたは今、この池に落とし物をしましたね?」

 彼女は訊ねました。

「あっ、あああ、おおお。斧を」

「あなたの落としたのはこの金の斧ですか?」

 女神は背中に手を回し、光り輝く黄金の斧を取り出しました。

「き、き、金の斧だって?」男が目を見開きました。「わ、わはは本当に金だ。それだけ金がありゃ、借金を返せる。それでも余って、美味いもんをたらふく食って、酒を飲んで、女と遊んで、そいで、また『オオカミ少年ゲーム』ができるぞ!」

 男は、考えていることを何でも口にしてしまうタイプの人のようでした。そして、とてもわかりやすい欲張りです。

 赤ずきんは彼のお尻を、ばこんと蹴飛ばしました。

「いたっ!」

「金の斧じゃ、木を切るのに不都合でしょ。それにこのあたりは盗賊も出るんじゃなかった? そんなのを持ってたら、狙われるわ」

「だ、だ、だけど……あれさえありゃ」

「女神さん、違うわ。そんな豪華な斧じゃない」

 赤ずきんが代わりに答えると、女神はさっと金の斧をしまい、別の斧を見せてきます。

「ではこの、銀の斧ですか?」

「おお、本当に銀だ。銀の斧でも価値がある。あれさえありゃ……」

「ダメだっての!」ばこん、とまた赤ずきんは男のお尻を蹴飛ばしました。「女神さん、それも違うわ」

「ではこの、普通の斧でしょうか?」

「あれよね?」

 赤ずきんは男を振り返り、女神の持っている鉄の斧を指さします。

「あ、ああ、そうだが……」

 男が残念そうに言うと、

「なんて正直なのでしょう」

 女神は微笑みました。

「あなたは正直なので、褒美として、金の斧と銀の斧も差し上げましょう。ただし、私が出てくるのは、一人の人間の一生に一回だけですよ——」

 辺りがぱーっ、とまぶしい光に包まれ、そのあと徐々に光が消えていくと、そこに女神はいませんでした。それどころか波紋の一つも残っていない、鏡のような水面があるだけでした。

 夢だったの? と赤ずきんは思いましたが、足元を見てハッとします。そこには、柄に手垢のついた鉄の斧と、それに形がそっくりな金の斧と銀の斧が置かれていたのです。

「なんてことだ、金の斧と銀の斧も手に入った。おおお!」

 男は目をひん剥き、喜んでいます。

「これで金を作れるぞ、おおお! やった、おおお! 正直者は得をする。教訓だ、教訓だ!」

 教訓という言葉に、イソップを思い出して赤ずきんは気分が悪くなりましたが、とりあえず男が喜んでいるのでよしとしました。

「ねえ木こりさん。その金の斧と銀の斧は、私のおかげで手に入ったのよ。私にご馳走してよ」

 んー?と木こりは赤ずきんの顔を眺め、「まあいいよ」と答えたのでした。

 

イソップ童話の「金の斧と銀の斧」。正直者は得をするという話ですが、その話の主人公がはまった「オオカミ少年ゲーム」とは? 赤ずきん、窮地に陥る!!

 

『赤ずきん、イソップ童話で死体と出会う。』は全4回で連日公開予定