紀州九度山き しゆう く ど やま

 

 頭上を覆わんばかりに伸びた杉木立ちが、途切れる気配もなく左右につづいている。知らぬ間に峠の頂あたりまで登っていたらしく、木々の隙間から覗く山なみが目とおなじ高さになっていた。

 孫七郎まご しち ろうは歩みをゆるめ、懐から出した竹筒の先を口にふくんだ。人肌ほどのぬるい水が、粘つく喉を滑り下りてゆく。かたわらを歩く源蔵げん ぞうが、休みますかと太い声で問うたが、かぶりを振ってこたえにかえた。じっさい、まだそこまで疲れてはいない。

 河内かわ ち紀伊橋本き い はし もとをむすぶ紀見き み峠は高野山こう や さんへの参詣さん けい道だから、ひとの往来もそれなりにあるはずだが、いまは昼下がりの木洩こ もに照らされ、ひっそりと静まり返っている。冬の名残りを感じさせるひややかな大気が、絶え間なく首すじを撫でていた。あたりを見まわしても、孫七郎たち以外の人影はうかがえない。

「暗くなるまでには橋本へ着きたいものです」

 ひとりごつように源蔵がいった。それはもともと承知していることだから、黙って歩くのにも飽きて口にしてみたというところだろう。そうだなと応えて、孫七郎は、いくらか足を速める。従者を先導する格好で、うねった道を進んでいった。

真田さな だどのとお目にかかるのは明日になろうか」

 前方を見据えたままつぶやくと、

「いかにもさよう心得ます」

 という声が返ってきた。どこか強張った口調となっているのは、源蔵にも構える心もちがあるに違いない。

 いま口にしたのは、紀州九度山に隠棲いん せいしている真田左衛門さ え もんの佐信繁すけ のぶ しげのことである。十三年まえに起こった関ヶ原のいくさで西軍についたため、彼の地に配流はい るされた。ともに蟄居ちつ きよしていた父の昌幸まさ ゆきは一昨年に没したと聞く。

 どうとでもして信繁に会い、大坂表から使いの趣を伝えねばならなかった。孫七郎はいわば正使ながら、十八歳はいかにも若い。不審がられるおそれもあったが、おのれでなければならぬわけがあった。

 心地よいさえずりが耳朶じ だをかすめたかと思うと、梢にあおい翼が見え隠れしている。おそらく瑠璃鶲る り びたきだろう。われしらずその声に耳をかたむけるうち、

 ――おや。

 胸の隅に引っかかるものを覚えた。鳥の声とじぶんたちの足音しか聞こえぬはずが、耳の底をざらりと掠めるような響きが伝わってくる。周囲を見まわしたものの、やはり源蔵以外の人影は目に留まらなかった。

 それでいて、当の源蔵もいぶかしげにこうべを巡らしている。立ち止まったりせぬのは、こちらが気づいたことを悟られたくないからだろう。おのれより三つ上にすぎぬが、さすがに肚が据わっている。とくに焦るようすも見せず歩みをつづけているものの、袖なし羽織から伸びた源蔵の腕に、さりげなく力がもるのが分かった。

 四半刻ほども歩くと、峠道の脇にか細い川の流れがうかがえる。瀬音だけが、やけに大きく感じられた。

「…………」

 孫七郎はおもむろに足をゆるめた。いくぶん遅れて、源蔵が倣う。枯れ木を踏んだとおぼしき音が、はっきり耳に飛び込んできたのだった。思い違いでなければ、天をさえぎるように伸びた右手の杉木立ちから聞こえてくる。

 たがいに目を見交わすや、源蔵が身をひるがえし、木立ちのなかへ飛びこんでゆく。間を置かず孫七郎がつづくと、困惑に満ちた眼差しとともに振り返ってきた。自分だけで行くつもりだったのだろうが、そうはいかぬ。もう置いていかれるのは、じゅうぶんだと思えた。なんであれ、おのれのまなこでたしかめたい。

 顔のまえに手をかざし、枝から目だけかばうようにして木立ちの奥へ分け入る。いきなり踏み込んできた孫七郎たちに驚いたのか、碧い翼が一羽、林の外へ飛び出していった。

 そのまま駆けてゆくと、木々を透かして五間ほど先に人影が垣間見える。長身といってよかったが肉づきは薄く、ひょろりとせていた。源蔵もその姿を捉えたらしく、見え隠れする影を追って、迷いなく進んでゆく。

 相手も焦りを覚えているのだろう、たくみに気配を隠していたはずが、いまは乾いた草を踏みしだく音が紛れようもなく響いていた。源蔵がさらに足を速めたのは、逃がさず相手の正体を見極めるつもりに違いない。

 ――おれが捕えてやろう。

 ふいに、そうした思いが湧きあがってくる。源蔵は得難いほど忠実な従者だが、じぶんを子どもあつかいする癖は、そろそろ改めてほしいところだった。どのみち、これからの行路を考えると守られてばかりもいられない。

 わずかにからだを低め、足運びを上げる。速駆はや がけなら源蔵に勝るという自負があった。くわえて、あちこち木の枝が張り出してもいるから、大柄な体躯が災いして存分に走れないだろう。

 思った通り、さほどかからぬうち、幅の広い源蔵の背中に追いつく。あっ、と戸惑う声があがるのを尻目に、軽々と追い抜いた。

 下草のざわめきを追って、駆けつづける。相手も疲れてきたのか、足音が乱れがちになってきたようだった。

 ――いた。

 痩せた長身が木の間隠れにうかがえる。手が届く距離ではないが、見失うほど遠くもなかった。孫七郎は爪先に力を籠め、ひといきに木立ちのあいだをり抜ける。ひやりとした風が汗の吹き出した頬をなぶって通りすぎていった。

 突き出た木の根に足を取られたのか、相手の上体がおおきくかしぎ、のめりそうになる。体勢を立て直そうとするところへ、孫七郎は頭から飛びかかっていった。

 相手の羽織をつかんだ、と感じたときには、体がはげしく大地に打ちつけられている。もつれあって転倒したようだった。長身の男は、すぐそばに倒れこみ、天を仰いではげしく肩を上下させている。もう動けぬということなのか、起きあがって逃げようとする気配はうかがえない。腰のものを抜いて斬りつけてくるわけでもなかった。

「孫七郎さま――」

 息を切らして源蔵が近づいてくる。大刀のつかに手をわせ、横たわったままの男を油断なく見据えていた。

「だいじょうぶだ」

 起きあがり、裁着袴たつ つけ ばかまにまとわりついた枯葉を払う。気がつくと、痩せた男のくちもとにどこか皮肉げな笑みが浮かんでいた。相手もようやく上体を起こし、よろよろと立ち上がる。

「ずいぶんと足がお速うござるな」

 場違いなほど呑気な声でいってから、決まりわるげに付け加えた。「思いのほか早くお目にかかることとなり申した」

 男の声はすこし高く、乾いた大気に乗ってどこまでも転がっていきそうだった。

水木左門みず き さ もんと申します。お見知りおきくだされ」

 孫七郎はおもわず眉を寄せる。聞き覚えのない名だった。

 水木と名のった男が、開き直った口ぶりで告げる。

「有り体にいえば、目付め つけ役とでも申しましょうか、むろん、三好み よし孫七郎さまの」

 三好、のところにことさら力を籠めたようだった。孫七郎が黙っているのを見て、つまらなそうに語を継ぐ。

「違いましたかな……豊臣とよとみ羽柴は しばの姓は名のっておられぬはずですが」

 

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