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メビウスのアブ地獄

 

 お気に入りの川原でキャンプをした翌朝の話。

 まだ汚れひとつないピカピカのテントを畳もうとしたぼくは、テントの底布の下に潰れたウンコを発見してしまったのである。粘度といい、芳ばしすぎるフレグランスといい、それらはそのウンコの新鮮さを如実に物語っていた。見つけた刹那は声も出なかったが、しかし二秒後、いきなり頭のなかで何かがパチンと弾けて、ぼくはみっともないくらいに取り乱してしまった。

 とにかく一刻も早く洗わなければと、まだ荷物が入ったままのテントを引っ張り、川へ向けて走ってしまったのだ。もちろん、なかの荷物の重さでテントの底布はガリガリと音を立てて地面をこすり、結果、小さな穴があいてしまったのである。

 我に返ったときは、もう遅かった。

 あううう。新品のテントに、穴が、穴が、穴が……。

 その潰れたウンコを激しく憎んだぼくは理不尽であろうか?

 相手がウンコなだけに、殴ることも蹴ることも関節技もできず、ただただ舌打ちし、睨みをきかせ、終いにはツバを吐きかけてみた。しかし、その程度では新品のテントの恨みは消えず、つい、

「このクソ野郎がっ!」

 などと、クソにとっては当たり前のことを吐いて、周囲の友人たちの失笑をかってしまった。まさにクソミソである。

 長いこと野遊びをしていると、こういうとんでもない目にあうこともあるのだ。

 

 で、この日も、そんなとんでもない一日だった――。

 夏の北海道を車中泊でめぐる旅に出て、一週間ほど経ったある日のこと。地図によれば、そこは北海道のまんなか近く、とあるキャンプ場に続いている林道だった。時折、クルミを大事そうに抱えたエゾリスが、林道にちょこんと佇んでランチを楽しんでいた。食事中に申し訳ないと思いつつも、ゆっくり車で近づくと、リスは木の実をポイと放り出して森のなかに逃げ込んだ。

「リスって、喰うたら美味いんかな?」

 この旅の相棒、アポロは、いつも突飛なことを言う。

 こいつは大学時代からの悪友である。手足が長く、肌は浅黒く、髪はさらさら。学生時代はオナラで「鳩ぽっぽ~♪」を奏でたり、一七四センチという身長でダンクシュートをやってのけたりもする、かなり珍奇な関西人である。しかも「男は力こそすべて」と信じて疑わないプロレスファンゆえ、喧嘩っぱやいことでも他に類を見ない。大学時代、教授にウエスタンラリアットを喰らわせた学生は、後にも先にもこいつぐらいなものだろう。

 アポロというあだ名は、彼が学生時代に住んでいた「アポロ荘」というアパートに由来している。「アポロ荘」は、とても古ぼけていたし風呂もなかったが、部屋は二つあったので、ぼくはよくアポロ荘に居候して、日夜飲んだくれていたものだ。

 ぼくは答にならない返事をした。

「うちで飼ってたネコが、リスを捕まえて喰ってたの見たことあるけどな」

「うむ、そうか」

 アポロはまじめにリスの味について考えているようだった。

 内心ぼくは、リスだってそこそこ喰えるのではないかと思っていたのだが、そう言うと、じゃあ試しに――なんてことになりそうなので、口にしなかった。

 林道の行き止まりはキャンプ場だった。設備はトイレと水道のみで、爽やかな広葉樹の林のなかにゆったりとしたキャンプサイトが広がっている。夏休み中だというのに、このキャンプ場には人影もまばらだった。

 ぼくは、愛車のデリカスターワゴンから颯爽と飛び出したのだが、数時間使わなかった足がカクカクしてよろけてしまった。しかし、晴れわたった空を見上げながら、胸いっぱいに森の空気を吸い込むと、口元は自動的にスマイルの形になる。北の大地を吹きわたる真夏の空気は清爽で、どこかほんのりと甘い。

 力の入らない膝を屈伸運動でほぐしたのに、まだフラフラすると思ったら、なんのことはない、腹ぺこなのだった。アポロを見ると、まゆ毛が困ったようなハの字になっていたので、やはりこいつもかなり空腹なのだと知れた。かわいいリスを喰うという発想も、空腹が呼び起こした妄想だろう(と信じたい)。

 さっそく車からクーラーと鉄板をおろし、ヤキソバとビールで腹をタプタプにした。そして寛容になったぼくらは、お腹をさすりながらキャンプ場の周囲を散策してみた。

 最初に目についたのは小さな川だった。オショロコマ(イワナの一種)が釣れそうな澄明な流れ――そして、ぼくらは、その川原で非常に素敵なモノと遭遇したのである。

「おっ、露天風呂があるで」

 アポロはイイ女を見つけたときのように、目尻を下げた。

 露天風呂といっても、ただ川原に穴を掘って、コンクリートで固めただけの殺風景なもので、もちろん脱衣所も仕切りもない。ポジティブに言うと「開放感と野生味あふれる混浴風呂」といったところか。

 人っ子ひとりいないその露天風呂には、バター色の木漏れ日が降り注いでいた。川下を見ると、惚れぼれするような夏空と青葉のコントラスト。涼やかな川風が吹きわたり、森の葉擦れが耳に心地よいメロディを奏でている。

 このうえないロケーションに陶酔の吐息をもらしたぼくらは、嬉々としてタオルと着替え、そして性懲りもなくビールを取りに、車へと引き返した。

 五分後、ぼくらは再びこの川原に立っていた。そしてビール片手にニヤニヤしながら、独占した光景をうっとりと見渡した。

「ほんま、俺たちだけの桃源郷やな」

「ムフフフ……じゃ、脱ごうか」

 男同士とは思いたくない会話を交わし、恍惚のまま衣服をポイポイ脱ぎ捨てる。そして、生まれたままの姿で川原に立った。

 幸福とは何か?

 正解は「佳麗な川と、青空と、露天風呂と、冷えたビール」である。

 ニヤニヤしながら缶ビールのプルタブに指をかけた刹那――。

 ん? どこからともなくやってきた黒い渦が、ぼくらの周囲を一斉に取り囲んだ。

「う、うわ、痛てて、痛てえぞ。何だコリャ」

「何って、痛てっ! あてっ、痛ってててててて!」

 よく見るとそれは、数百匹ものアブの大群だった。アブたちは、ぼくらを中心に円を描くように飛びまわり、隙を見ては次々に襲いかかってくる。

 人海ならぬ、アブ海戦術である。

「うわっ、おいおい、冗談やろっ!」

 アポロはそう叫んだが、全身の皮膚に走る痛みは、まったく冗談ではなかった。気づけば、ぼくらは無数のアブによる黒い靄に吞み込まれていて、糸の絡まったマリオネットみたいな不細工なダンスを踊らされていたのだった。

 どんなに手で追い払ってみても、さすがにこの軍勢には敵わず、常に数匹はぼくらの皮膚を喰い破ろうとしていた。もしも、この不細工なダンスをやめて、五秒間でも静止していようものなら、その間に少なくとも五〇ヶ所は刺されてしまっただろう。

 ぼくの頭は、乱れ撃ちしたネズミ花火みたいに、あちこちがクルクル回っては爆発していた。「パニック」とはこういうことかと、どこか冷静に考えている自分もいたが、その脳の片隅に一閃のひらめきが走った。温泉に飛び込めばなんとかなるっ!

 ぼくは走り出しながら叫んだ。

「アポロ、温泉に飛び込むぞ!」

 前を隠すのも忘れたまま、ふたりは慌てて風呂に向かって走った。少し遅れてアブの黒い大群が追ってくる。

 えいやっ、と露天風呂に飛び込んだ。

 と、次の瞬間、ぼくらは再び絶叫していた。

「うわ、熱っちちちぃ~!」

 とんでもなく熱い風呂だったのだ。誰も入っていないワケだ。

 ぼくらは十秒ともたずにその熱湯から飛び出した。すると、また兇暴なアブたちに包囲された。熱湯で赤くなった皮膚に、奴らは容赦なくその極太ストローを突き刺してくる。

 今度はアポロが叫んだ。

「森沢、かっ、川や、川に飛び込めっ!」

 その怒号とともに、ほとんど反射的に川に飛び込んだふたりは、今度は「ひいぃっ!」とシャックリみたいに息を詰まらせた。

 北国の川は夏でも氷水のような冷たさなのだった。

 アルコールが入っていたせいもあるだろう、正直、ぼくらはショックで頭のてっぺんから魂がヒュルルル~と抜け出しそうになった。あやうくその川がぼくらの三途の川になるところだったのである(しかし、三途の川で心臓マヒを起こすなんて、あの世でも笑い者になるところであった)。なんとか停止しかけた心臓を、気力で回復させたものの、その切れるほどの冷水に、またもや十秒ともたず川原に飛び出してしまう。

 冷水から上がると、そこに待ち受けるアブの大群は、先ほどよりもさらに数を増やしていた。すぐさま身体のあちこちに、ブスブスと針で刺されたような痛みが走る。

「ひいぃぃ!」

 どうしようもなくなって、ぼくらはまた熱湯風呂に飛び込んでしまった。が、やはり熱さに耐え切れずに飛び出す。と、またアブ。たまらず冷水の川へ飛び込み、すぐに凍えて這い上がる。またアブ。熱湯、アブ、冷水……。

 こうしてぼくらは、しばらくの間「メビウスの輪」のような、出口のない地獄巡りに陥ってしまったのであった。

 川と露天風呂の間を、必死の形相で何度も何度も往復しているオトナの男ふたり。しかも、一糸まとわぬ、あられもない姿である。他人事だったら、腹を抱えて笑ってやるところだ。

「とにかく服を着なけりゃアカンぞ。これじゃ、エンドレスや!」

 この極々当たり前な発言が飛び出すまで、かなりの時間を要した、と思う。実際のところ、どのくらいの時間だったのかも、川と風呂の間を何往復したのかも、まったく思い出せない。それくらいパニックだったのだ。

 アポロのその言葉を合図に、ぼくらは冷水地獄から這い上がり、川原を服のある場所まであたふたと走った。振り返ると、しつこくアブの軍勢が追ってくる。

 元の場所にたどりつき、放り投げてあった服をかき集めた。しかし、どうしてもアブを追い払う方に気がいってしまい、遅々として着衣は進まない。

 ふいにアポロが広げたバスタオルを振り回し、ふたりの体をバサバサと叩きはじめた。これは、少なからず有効な防御法だった。ぼくもバスタオルを振り回した。

「いまのうちに、服を着ろやっ!」

「おう!」

 執拗にストローを突き刺してくるアブと格闘しながら、服を着はじめた。この際、少々刺されるのは仕方がない。とにかく一刻もはやく服を着て、メビウスの輪を断ち切らねばならないのだ。

 タオルや服を振り回しつつ、身体を常に動かし続け、隙を見てサッとパンツをはいた。身体は濡れたままだったが、そんなことは構っていられなかった。しかし、それは大いなる失策だったのだ。

「げひょおおお~!」

 いきなりぼくはカエルみたいに飛び上がり、そしてワンテンポ遅れて、今度は踏まれたカエルみたいな断末魔をあげていた。

 もはや、泣きっ面にアブ。不幸にも、アブの入ったパンツをそのままはいてしまったのである。ぼくはピョンピョン飛び跳ねながらパンツのうえからアブを叩きまくった。数発の打撃でパンツの裾から潰れかけたアブがポトリと落ちた。が、そいつはまだ死んでおらず、石の上でピクピク痙攣している。

 すかさず踏みつけた。

「おい、どこを刺されたんや?」

 アポロに訊かれても、思わず閉口してしまうような、ピンポイントへのアタックだったのだ。しかも、ウシアブというオオスズメバチに似たクソデカイ種類のアブである。こいつに刺されると、血が出るほどだ。

 てんやわんやの末、ぼくらはなんとか服をつけ終えた。

 ようやく「地獄のメビウスの輪」を断ち切ったのである。

 ふと、アポロを見ると、首筋から細い血をたらしながら、ニヤリと笑っていた。しかし、その眼は笑っていなかった。「アバレル業界の理不尽な暴君」と恐れられた学生時代の表情そのままだった。懐かしさにつられて、ぼくの唇も吊り上がった。

 鬼畜生の笑み。復讐のどす黒い憎悪。

 ぐふふふ。形勢は一気に逆転したのだ。

「ぐおるぁぁ、誰にケンカ売っと思とんじゃあ、ボケがぁ!」

 ぼくらは水に濡らしたフェイスタオルをビュンビュン振り回して、アブを打ち落としはじめた。関西人で、元ヤンキーだったアポロは、文章ではちょっと書けないほど汚い罵声を浴びせながら、まさに悪鬼のごとく無数のアブを打ち落とした。

 しばらくすると、あれだけいたアブの軍勢もまばらになり、やがて雲散霧消していった。ぼくらの憤怒の勢いに恐れをなしたのか、あるいは服を着た人間には用がなくなったのか――。

 戦いを終えたふたりは、川原にへたり込んだ。肩で息をしていた。

 そして、傍らに置いてある、少しぬるくなったビールに気づき、栓を開けた。乾いて粘ついた喉にビールを流し込むと、ようやく人心地がついた。

 ぼくらの周囲には、打ち落とされたアブの亡骸が百匹以上も転がっていた。半殺しでピクピクしているアブに、アポロがかかと落としでとどめをさした。

 ぼくは、ふう、と嘆息して、何気なく川下を見やった。すると無人だったはずのそこには、七、八人のキャンパーが川遊びに興じていた。家族だろうか。男も女も子供もいる。しかし、彼らはみな一様にニヤニヤしていて、なぜか声をひそめて遊んでいるのだった。

 ぼくはその不自然さが気になった。よく見ると、無意識を装ってはいるが、その目線はたしかにチラチラとこちらに送られているようだった。小さな子供などは真っ向からぼくらを指差して笑っている。若い女性がその子供をたしなめたが、しかしその当人の口元ですら、吹き出すのをこらえるような形をしていたのだ。

 ぼくとアポロは、思わず顔を見合わせた。

 眉間にシワを寄せたアポロが、寝起きの老人のようなかすれ声で言った。

「あいつら、いつから、見てたん、やろな……」

「あうう……」

 言葉を失ったぼくは、こたえる代わりにビールを流し込んだ。

「ナニ見とんじゃコラッ! 見せもんちゃうぞ、ボケがあっ!」

 下流に向かって吠えたアポロだが、ぼくは充分に見せ物だったと思っている。

 

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