日本一短い川下り(後編)
さて、こうしてぼくらの初の川下りは、わずか十五分で撤退するハメになったのだが、この話には続きがある。ひと月後、また岩井から電話があったのだ。
「オカモト君を修理したんだよ。自転車修理に使う丈夫なやつで。もちろん、こないだのリベンジするだろ?」
当たり前だ。二つ返事でOKした。
電話を切ったぼくは、川下りのリベンジはさておき、自分のボートを「オカモト君」と名付けたらしい岩井のセンスをつまみに、ビールを飲むしかないのであった。
その週末、ふたりは再び房総半島へ向かって車を走らせた。今回は、前回の失敗を踏まえて、万全を期したプランで臨んだ。そのプランとは、
・明け方前に家を出る(前夜の深酒による二日酔いを避けるため)
・やっぱり今度も夷隅川を下る(自称・夷隅川を知り尽くした男、「総元」のおっちゃんが「堰も滝もなんにもねえよ」と言っていたので)
・水深のある下流からスタートする(前回は欲張って上流からトライしたのが敗因だったため)
というわけで、ぼくらは新たなスタート地点に到着したのである。
さっそく川沿いの道路に路駐し、車から降りたぼくらは、早朝の夷隅川を覗き込んだ。流れの緩やかな水面は朝日を反射してひらひらと光っていた。十一月の山は思いがけずしんと冷え込み、樹々は色鮮やかに紅葉していた。たまに通り過ぎる車の騒音を除けば、ほとんど音のない世界だった。
ぼくらは足踏み式ポンプでボートに空気を入れた。交代は一度だけ。アルコールが入っていないと、こんなにもラクな作業だったのかと衝撃を受ける。シュラフやテント、投網、釣り具、食料とビール、その他アウトドア道具をポイポイッとボートのなかに放り込み、準備が整ったら、さて、リベンジ開始だ。
とろりと流れる水面に漕ぎ出すと、緩やかな川風を感じた。ありがたい追い風だった。ぼくらは冒険心の高まりから思いきりオールを漕ぎたいのをあえてこらえて、風に押されながら川を漂った。すぐに両岸が切り立った崖になり、風景が野趣を帯びてくる。空はじわじわと絵の具が染みるように青く色づきはじめ、頭上のあちこちで鳥が鳴いた。ぼくらはボートの上で寝転がった。しばらくは、揺りかごにゆられているような安堵を感じていた。
五分くらい経っただろうか。ふたり同時にハッと飛び起きてオールを握った。瀬の音がしたのだ。下流を見ると、そこは急なカーブで、見通しがきかなかった。
「岩井、カーブの先に瀬があるな」
「うん。今回は慎重にいこう。浅かったらボートから降りて、曳いていこうな」
さすがの岩井も今回は「オカモトゴムだから大丈夫だ」とは言わなかった。
カーブに近づくと、瀬の音が大きくなってきた。
んー? 一瞬、ぼくの脳裏に不安がよぎった。
「岩井、なんだか、滝みたいな音に聞こえない?」
ぼくはそれまでに日本中の川という川を旅して遊びまわっていたので、瀬と滝の音を聞き間違えるような素人ではない。
「あうう。でも、『総元』のおっちゃんが、堰も滝もない穏やかな川だって言ってたから、大丈夫じゃねえか」
岩井はそう言ったが、台詞の歯切れが悪い。
カーブにさしかかり、ぼくらはオールを巧みに操ってボートの向きを整えた。やがてそのカーブを過ぎると、視界はまっすぐに開けた。とたんに川の流速が上がる。
「げっ!」
「うそっ!」
予感的中! 数十メートル先で川は消えていたのだ。
「うわあっ、シャ、シャレになんねえよおっ!」
「バックだ、バック!」
ぼくらはがむしゃらにオールを漕いで、遡行しようと試みた。しかし、夢中で漕いでいるせいかふたりの呼吸があわず、ボートはくるくる回ってしまい、ちっとも上流に進んでくれない。むしろ流れと風に押されて、少しずつ滝に近づいていくではないか。
「こ、このままじゃ駄目だ、俺が漕ぐ!」
岩井はぼくからオールを引ったくると、ボートの左右にそれを固定した。後ろ向きに進む本来のボートの漕ぎ方をはじめたのだった。こてこて体育会系の腕が本気で漕ぐと、ボートはほんの少しずつだが遡行しはじめた。
「いいぞ岩井、その調子だ!」
岩井は返事もできずに、ひたすら漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ! その額には玉の汗が浮かんでいた。かたつむりの速度ではあったが、ボートは着実に上流へと進んでいく。
しかし、現実は甘くはなかった。ひょろろ~、と吹いたそよ風に、せっかく稼いだ数メートルをあっけなく押し戻されてしまったのだ。そう、ボートという乗り物は、極端に風に弱いのである。やがて岩井の呼吸が荒くなり、ボートはまた少しずつ死の滝へと近づきはじめた。
「も、もう駄目だ。森沢、替わってくれ!」
急いで岩井と座位置を替わった。しかし、そのわずか数秒間で、また数メートルほど滝へと近づいてしまった。ぼくも歯を食いしばって漕ぎまくった。少しずつだが、上流へと進む。
「そうだ、森沢、がんばれっ!」
叫ぶ岩井も身を乗り出して、素手で水をかいている。
腕と背中の筋肉がきしんで、ミシミシと音を立てそうだった。
それなのに、ひょろろ~、と微風が吹くと、情けないほど簡単にボートは後退し、ふりだしに戻されてしまうのである。嬉しかったはずの追い風が、いまはひどく恨めしかった。しかも、その風が微風なだけに、押し戻されるぼくらの気力は萎えていった。
それから何度も漕手を交代した。交代した直後は少し遡行するのだが、またすぐに風に押し戻されるという、まさにイタチごっこになった。
やがて、ぼくらは自分たちの筋力に限界を感じはじめた。すると、それまでの恐怖に圧倒的なリアリティが加わってしまった。滝に落ちていく瞬間のイメージが鮮明に浮かんでしまうのだ。
事実、滝は近づいていた。そしてぼくらの上腕二頭筋と広背筋は、パンパンに張っていたのだ。だが、ここで漕ぐのをやめたら、あっという間に死の滝へと吸い込まれてしまう。
あうう、いったい、どうすればいいんだ。
ふいにぼくの目に、崖から突き出た一本の細い木が目に入った。
あれだっ!
「岩井、崖に寄せてくれ! あの木につかまって、少し休もう。そのうちに風向きが変わるかもしれない!」
岩井は頭だけカクカク振って頷き、破裂しそうな血管をおでこの横に浮き上がらせながらボートを崖に寄せた。ぼくはボートから身を乗り出して、崖から生えた木を捉え、すかさずロープをくくり付けた。これで当面は安心だ。しかし、この窮地から逃れられる解決策が出たわけではない。
滝までの距離は、およそ二〇メートルほどだろうか。
「どうする?」
ぼくの問いに、岩井は答えなかった。ただ、肩で呼吸をくり返すばかりだ。
「とにかく、この頼りない木にいつまでもぶら下がってるわけにはいかないだろ。かといって、この垂直な崖を登れるはずもないし」
ぼくは自分の頭のなかを整理しながら、それを言葉にした。
「荷物を捨てて、ボートを軽くすれば、あるいは、な……」
息のあがった岩井の声。
「うむむ、それも辛いなあ」
そうこうしていると、また風が吹き、ロープを縛り付けていた細い木がぐにゃりとしなった。これが折れたら間違いなくアウトだ。滝つぼへ真っ逆さまである。
「あわわわわ」
軋む木を見て、ふたりで思わず変な声を出してしまう。
川上を見やると、少し先にこの木よりも若干太い木が突き出していた。
「岩井、崖を伝って、あの木まで行けないかな。俺たちの命を託すのがこの細い木っていうのは、ちょっと頼りねえだろ」
「うん、やってみよう」
ぼくらは崖の割れ目を探し、そこに指先を引っ掛けて、ボートごと上流に引き上げていった。やってみると、この方法がいちばん確実に遡行できるのだと分かった。
目標の木にたどり着くと、ロープをくくりつけて休憩。しばらくして、再び崖伝いに遡行をはじめた。岩にこすれる指先は痛いが、ボートは順調に上流へと進んでいく。ぼくらは、このやり方をくり返すことにした。
やがてボートは、先ほどのカーブのところまでたどり着いた。この先は流れも緩やかなはずだった。希望の色が濃くなっていく。
ふたりとも指先の皮膚が擦り切れて出血していたけれど、死ぬよりはマシだということで、必死に崖を伝った。
そして、ついにスタート地点が視野に入ったのだ。
「いけるぞ、森沢。もうすぐだ!」
輝き出す岩井の表情。しかし、ぼくの表情は青ざめていた。便意を催していたのだ。しかし不幸中の幸いで、それは小便であった。そのことを岩井に伝えると、
「こんな時に、マジかよ……」
口は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「仕方ねえだろ、こればっかりは。とにかく小便を我慢してたんじゃ力も入らねえよ。つーか、オカモト君の上で漏らすぞ」
ぼくの逆ギレに、岩井は折れた。
「わ、分かった。じゃあ、俺が木につかまってボートを固定してるから、片足を崖にかけて用を足せよ。オカモト君には絶対にかけないでくれよ」
「がってん!」
ぼくは言われた通り、片足をボート、もう一方の足を崖にかけ、放尿の準備をした。しかし岩井が木につかまって固定しているとはいえ、所詮ボートは水の上、足元がグラつくのである。なかなか狙いを定められず困っていたのだが、すぐに膀胱は臨界点をむかえてしまった。
嗚呼、もう、ダメ~。
限界まで我慢したあとの放出。
うっとりするほどの快感、そして安堵。助かったというか、救われたというか……。世の中がキラキラ輝いて見えたことは言うまでもない。ジョボジョボと小気味よい音が水面から弾けた。
しかし、そこに吹く、悪魔のそよ風。
固定していたはずのボートが、わずかに動いた。放尿中のぼくはバランスを失った。同時に、美しい放物線を描いていた黄金の軌道が、邪悪な蛇のようにうねったのである。
(オ、オカモト君にかけちゃダメだ!)
瞬間、ぼくはそう思って、自分のホースを崖の方に反射的に向けた。しかし、
「あああああああ~!」
岩井が叫ぶ。
ぼくの放出したものは狙いどおり崖に放たれたのだが、しかし着地点が高すぎて、飛沫がオカモト君に散ったのだった。しかも、本当にわずかだが、木を握っていた岩井の手にも……。それでもぼくは放出を途中で止めることはできないし、岩井も握った木を放すわけにはいかない。地獄絵図とは、まさにこのことだった。そして、その数秒間は、スローモーションのように鮮やかに、ぼくの目に映っていたのである。
放出、完了。
張りつめた空気。川のせせらぎ。小鳥たちの嘲笑。
「い、いや、すまん、すまん。ちょびっとだけね。あははは……」
ぼくは頬の筋肉を力ずくで収縮させ、笑ってみた。しかし岩井は、ただ黙って濁った川の水で手を洗っていた。
結局、岩井にビールを一本おごるということで機嫌を直してもらい(安いっ!)、ぼくらは再び崖を伝って、ようやくスタート地点に上陸できたのだった。最後にちょっとしたミソがついたが、とにかく生きて戻れたのである。
血のにじんだ指先にバンドエイドを貼りながら、ぼくは言った。
「そういえば、『総元』のおっちゃんの言ってたこと、嘘だったな」
「そうだ! おかげで死にそうになったんだもんな」
じわじわと憤りがこみ上げてきた。
「岩井、文句言いに行くか」
「いいね。また酒おごらせてやる」
「………」
岩井は死にそうな目にあっても酒で赦せる寛大な男なのだ。
ぼくらは荷物をトランクに積み込んだ。
「ところで岩井、さっき俺たちが落っこちそうになった滝って、どのくらいの落差があったのか確認しに行かない?」
「おお。それは見ておかないとな。命がけだったからな」
岩井は嬉しそうに言った。危険度が高ければ高いほど、あとで話す喜びも大きいというものだ。
さっそくぼくらは川沿いの道を歩いた。はるか崖下に、ついさっき死闘を繰り広げた流れが見下ろせる。少し歩くと川のカーブ地点が見えてきた。そして、カーブを過ぎるとすぐに問題の滝が視界に入った。
それは、想像を絶するような光景だった。
視力二・〇を誇る自分の目を疑ったほどの光景だったのだ。
「う、嘘だろ……。俺たち、アレから逃れようと必死になってたわけ?」
しばらくの間、ぼくらは惚けたように立ち尽くしていた。
なにしろ、ものすごい落差をイメージして恐れおののいたあの《滝》が、なんと上から見ると落差一メートルほどの小さな堰だったのである。しかも、垂直な落ち込みではなく、水は緩やかなスロープを滑っているではないか。ゴムボートなら子供でもスルリとクリアできる、楽勝の《滝》だったのだ。
疲労がいきなり濃くなって、顎が出た。
「あれ、落ちても、全然平気だったな……」
まゆ毛をハの字にした岩井がつぶやいた。
「ていうか、むしろ落ちたら楽しかったかも……」
「あ、ああ……」
斜面を流れる水流を見ていたら、なんだか「総元」のおっちゃんに文句を言う気力すら失せてしまった。
その夜、ぼくらは尻尾を巻いて秘密のキャンプ地に逃げ込み、ひたすら酒を飲んだ。月光に照らされた岩井は、焚き火の前で哀しげに何かをわめいていた。それは昼間よりもひときわ哀愁漂う声色だった。ぼくは気を遣って、今度は何を「歌って」いるのかと訊いてやった。すると岩井は、なぜか苦々しい顔をしたのだ。
「だから、『スタンド・バイ・ミー』だって言ってんだろ」
終わってみれば、なんだか今日も楽しい一日だったようだ。
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